第13話 空いた暖炉
安宿の部屋には、暖炉があった。
小さい。屋敷の暖炉の三分の一ほどの大きさしかない。薪も細い。だが、火がついていた。私の部屋に。私だけのために。
北向きの部屋に暖炉はなかった。十四年間。
宿の主人が朝、薪を足してくれた。「お嬢さん、火が消えかけてたよ」と言って、細い薪を三本入れて出ていった。代金に含まれているのだと思う。一泊の宿賃に、薪代が含まれている。当たり前のことなのかもしれない。宿に泊まったことがないから知らなかった。
暖炉の前に座った。
火が近い。屋敷の大きな暖炉は遠かった。広い部屋の端にいると、暖炉の熱が届かない。この部屋は狭い。狭いから、火が近い。腕に温度が届く。
灰受けを見た。
灰が溜まっている。薪の灰だ。紙の灰ではない。
拾わなくていい。
ふるいにかけなくていい。油紙に包まなくていい。手帳に記録しなくていい。
ただの灰だ。暖かさの残りかすだ。捨てていい灰だ。
手が、膝の上で少し迷った。十四年の癖は簡単には抜けない。灰を見ると指が動く。だが、ふるいはない。油紙もない。手帳もない。全部、オーレンに渡した。
今ここにあるのは、革鞄一つと、着替えと、母の髪飾りと、蝋型と、刷毛。
それだけ。
◇
昼前に、宿の食堂でスープを注文した。
安い宿だ。食堂は狭くて暗い。テーブルが三つ。客は私だけだった。
スープが来た。
白い湯気が立っている。匙を入れた。表面に脂の膜がない。温かいから膜が張らない。
一口、飲んだ。
熱い。
舌を火傷しそうなほど熱い。慌てて匙を離した。口の中が痺れる。
冷めたスープしか飲んだことがない、わけではない。子どもの頃、母が生きていた頃は温かいスープを飲んでいた。だがそれは六歳以前の記憶で、舌の感覚としては残っていなかった。
十四年ぶりの温度だった。
もう一口。今度は少し冷ました。吹いて、吹いて、匙の端から啜った。
味は薄い。安い宿のスープだ。具はじゃが芋と玉葱しか入っていない。肉はない。
だが温かかった。最初の一口から最後の一口まで、冷めなかった。量が少ないからだ。少ないから、飲み終わる前に冷めない。
喉の奥が詰まった。
泣きそうになったのではない。詰まっただけだ。温かいものが喉を通る時に、十四年分の冷えたスープの記憶が喉の内側を引っ掻いた。
匙を置いた。皿を両手で持った。陶器が温かい。掌に温度が移る。
飲み終えるまでに、たぶん三分もかからなかった。量が少なかったから。でもその三分は、屋敷の食堂で冷めたスープを飲む十分より長く感じた。
◇
午後、法務書房に行った。
三日前に立ち読みした店だ。今日は買わない。相続手続きの書類を確認するために、もう一度条文を読みに来た。
店主は私を覚えていた。「また来たのかい」と言ったが、追い出さなかった。
『相続法概説』を棚から取って、手続きの章を開いた。
相続権の主張には、受益者の身元証明と、遺言の写し、または遺言の存在を証明する公的記録が必要になる。
遺言の写し。
私は持っていない。母の遺言を見たことがない。だが遺言が存在するなら、王家の記録局にも写しが保管されているはずだ。文書管理局は記録局の管轄下にある。オーレンなら、確認できるかもしれない。
条文を頭に入れて、本を棚に戻した。
店を出た。王都の通りは昼下がりで人が多い。馬車が走り、商人が声を上げている。
ここにいる。
屋敷の外にいる。一人で通りを歩いている。一歩後ろに立っていない。誰の付き添いでもない。
靴底が石畳を踏む感触が、足の裏に直接伝わる。髪飾りのない靴。中敷きが薄い。冷たい。
でも、自分の足で歩いている。
◇
夕方、宿に戻ると、手紙が届いていた。
宿の主人が預かっていた。「男の人が置いていったよ。痩せた人」と言った。
封を開けた。
文書管理局の用紙ではなかった。少し厚手の便箋。私用の紙だ。
指で紙の厚みを確かめた。公用紙は薄い。経費を削るから。この紙は厚い。自分の持ち物から出した紙だ。
内容は事務的だった。
——手帳は文書管理局に受理されました。補助資料として調査報告書に添付する予定です。
——髪飾りの紋章の鑑定を、記録局に依頼しました。結果が出るまで数日かかる見込みです。
——進捗があれば連絡します。
署名。オーレン・カレス。
それだけだった。余計な言葉は一つもなかった。「お元気ですか」もなかった。「心配しています」もなかった。事務的な報告。三行。
だが、紙が厚かった。
公用紙で送れば経費で済む。私用の便箋を使ったということは、この手紙は公務ではない。公務の報告を、私信の紙に書いている。
それが何を意味するのか。気遣いなのか、ただ公用紙が手元になかっただけなのか。
紙を鼻に近づけた。紙の匂い。インクの匂い。少しだけ、古い書庫の匂いがした。あの小部屋で書いたのだろう。帳簿の山の横で。
手紙を折って、革鞄の底に入れた。髪飾りの隣に。
◇
その頃、アシュフォード公爵邸では、暖炉の灰受けが溢れていた。
リーネがいなくなって三日目だった。
ベルタは自分の担当の暖炉の灰は捨てたが、書斎の灰には触らなかった。書斎の灰はリーネが手伝ってくれるもの、という習慣がベルタの中にあった。リーネがいないなら、誰か他の使用人がやるだろう、とベルタは思った。
だが、誰もやらなかった。
書斎の暖炉の灰は、リーネが毎朝処理していた。使用人はそれを知らなかった。「お嬢様が手伝ってくれるから」とベルタが言ったのを聞いた者はいたが、それが何を意味するのか考えた者はいなかった。
灰受けが溢れた。灰が暖炉の前の絨毯にこぼれた。継母マルテの部屋にまで灰の粉が廊下を通じて流れてきた。
「リーネさんはどこ?」
継母が使用人に聞いた。
「あの子がいないと——」
言いかけて、止まった。いないと困る、とは言えなかった。困るということは、頼っていたということだ。人形に。何も感じない子に。
使用人は答えなかった。リーネがいつ出ていったのか、どこに行ったのか、誰も知らなかった。裏口から出たことに気づいた者がいなかった。使用人の出入り口を使う令嬢を、見張る理由がなかったからだ。
ゾフィーだけが、違うことを聞いた。
「お姉様、怒ってるの? 何か悪いことしちゃった?」
誰にともなく聞いた。食堂で。朝食の席に、リーネの皿がないことに気づいて。
誰も答えなかった。
父はスープを飲んでいた。継母は茶碗を持ったまま黙っていた。
ゾフィーは首を傾げて、もう一度聞いた。
「お姉様のスープ、冷めちゃうよ」
冷めるスープは、もう出されていなかった。
◇
夜。
安宿の暖炉の前で、刷毛を手に取った。
オーレンの刷毛。使い込まれた木の柄。今は灰の紙片を扱う相手がいない。紙片は全部、オーレンに渡した。
だが刷毛を持っていると、指先が覚えている。毛先で紙片を持ち上げる感触。崩さないように、壊さないように、灰の断片を救い上げる動作。
十四年間、指で摘まんでいた。刷毛を使い始めたのは数日前だ。なのに、もう刷毛なしでは心許ない。指で摘まんでいた頃には戻れない気がする。
良い道具を知ると、前には戻れなくなる。
暖炉の火を見た。小さい火。自分だけの火。
明日は何をしよう。
相続手続きの書類を整える。法務書房でもう一度条文を確認する。オーレンからの次の連絡を待つ。
待つ。
十四年間は自分で動いた。灰を見て、紙片を拾って、記録した。全部一人でやった。今は、待っている。オーレンが管理局で手続きを進めるのを待っている。
待つことは嫌いではなかった。灰を拾う作業も、待つことの連続だった。暖炉が冷めるのを待ち、灰が乾くのを待ち、紙片が出てくるのを待った。
だが今の待ち方は違った。自分ではない誰かが動くのを待っている。コントロールできない。催促もできない。手帳を渡した以上、あとはオーレンの仕事だ。
暖炉の灰が少しだけ崩れた。薪が燃えて、灰が落ちる音がした。
拾わなかった。
◇
同じ夜、アシュフォード公爵邸の書斎で、ヘルムート公爵が暖炉の前に立っていた。
灰受けが溢れている。使用人を呼べばいい。だが、呼ばなかった。使用人に書斎の中を見せたくなかった。自分で灰を掻き出した。火かき棒で灰をかき混ぜ、灰受けに落とす。
手が汚れた。灰が指につく。黒い。
この黒さを、どこかで見た。
灰の中に、紙片が残っていた。
白い。薪の灰ではない。紙の灰だ。燃やし損ねた紙片。鉄媒染のインクの痕跡が、かすかに残っている。
公爵は紙片を拾い上げた。
文字が一つ読めた。自分の名前の一部。「ヘル」。差出人か、宛先か。燃やしたはずの手紙の、燃え残り。
リーネがいた頃は、こんなものは残らなかった。
毎朝、灰はきれいに掻き出されていた。紙片は一つも残っていなかった。あの子が灰を掃除してくれていたからだ。ベルタの手伝いをしていたと聞いている。掃除好きな変わった子だと思っていた。
掃除好き。
灰を「掃除」していた。
公爵の手が、紙片の上で止まった。
指が黒い。灰を触ったから。リーネの指も、いつも黒かった。庭仕事の跡だと聞いていた。聞いて、それ以上考えなかった。
考えなかった。
あの子の手がなぜ黒いのか。あの子がなぜ毎朝暖炉の前にいるのか。あの子がなぜ靴を磨く名目で書斎に入っていたのか。
考えたことがなかった。考える必要がなかった。あの子は人形だから。何も感じない。何も考えない。何も見ていない。
——見ていた。
公爵はゆっくりと灰受けを見下ろした。灰の中に、もう一枚、紙片が見えた。拾わなかった。拾ったところで、もう遅い。
リーネは灰を掃除していた。毎朝。何年間か分からない。長い間。燃やした手紙の残りを、毎朝丁寧に拾い上げていた。
拾って、どうしたのか。
捨てたのか。読んだのか。記録したのか。
あの子の部屋に手帳があった。数字が並んでいた。家計簿だと思っていた。あの数字は——。
廊下で足音がした。継母のマルテが書斎の扉を開けた。
「あなた、文書管理局から——」
公爵の手を見て、マルテは声を止めた。灰で汚れた手。紙片を持っている手。
「……灰を掻いていただけだ」
マルテは黙って立っていた。腕を組んだ。いつもの癖だ。疑っている時の。
「リーネが毎朝やっていたことを、あなたは一度もやらなかったのね」
マルテの声は低かった。非難ではなく、確認だった。
公爵は紙片を暖炉に投げ込んだ。火がまだ残っていた。紙片は燃えた。今度は完全に。
マルテが背を向けた。扉の前で立ち止まった。
「あの子は何も感じない子だと、あなたが言ったのよ」
足音が遠ざかった。
公爵は暖炉の前に一人で立っていた。灰で汚れた手を見ていた。
リーネの手は、いつもこの色だった。
今まで燃やした全ての紙片が、あの手で拾われていたのだとしたら——。
もう確かめようがなかった。




