第14話 文書管理局にて
文書管理局の長机に、油紙の束が並んだ。
磨かれた木の机だった。表面が滑らかで、油紙を置くと少し滑る。指で押さえた。
この机の上にあるもの。十四年分の灰の紙片。暗号化された手帳。オーレンの調査報告書。帳簿の写し。
灰の断片が、こういう場所に来るとは思っていなかった。北向きの部屋の机の上で、蝋燭の明かりで読んでいたものだ。石鹸の染みがついた洗濯場の板の上で並べていたものだ。それが今、王家の文書管理局の長机に載っている。
部屋は広かった。窓が二つ。暖房は石炭ストーブだ。暖炉ではない。
灰が出ない。
妙に落ち着かなかった。暖炉のない部屋にはいたことがある。北向きの部屋がそうだった。だがあそこは寒かっただけで、暖炉の「不在」を意識はしなかった。ここは暖かいのに暖炉がない。灰がない。指で机の端をなぞる。無意識にそうしていることに気づいて、止めた。
◇
聴取は午前中に始まった。
管理局の上席官が一人。書記が一人。オーレンが同席していた。そして、父がいた。
父を見た。
視界の端で、父の靴が見えた。磨かれていない。革が乾いてひび割れかけている。靴墨の匂いがしない。
私が磨かなくなったからだ。
三年間、毎日磨いていた靴。朝と夕方の二回、石畳に膝をついて。あの靴を磨くことで書斎に入り、暖炉の灰を見る口実を作っていた。
今、その靴は乾いている。誰も磨いていない。
それだけのことだ。それだけのことなのに、目が離せなかった。しばらく、磨かれていない靴の革の表面を見ていた。
「アシュフォード嬢。準備がよろしければ、お話を伺います」
上席官の声で、視線を上げた。
◇
手帳の暗号を説明した。
数字の法則。日付の変換方法。紙片の状態の記録方法。読めた文字の暗号化の規則。
声は平らだった。淡々と説明した。聴取の場で感情を出す必要はない。求められているのは事実だ。いつ、どの暖炉から、どんな紙片を回収したか。回収した紙片に何が読めたか。それを暗号でどう記録したか。
書記がペンを走らせている。私の言葉が、書記の字になって紙に移っていく。
「灰の紙片は、どのように保存していたのですか」
「油紙です。洗濯場で余った食肉の包装紙を使いました」
上席官は油紙の束を見た。安い紙だ。脂の染みがついている。管理局の上等な紙とは違う。
「紙片の回収は、毎朝行っていたのですか」
「はい」
「何年間ですか」
「十四年です」
書記のペンが一瞬止まった。上席官の目が少しだけ動いた。
十四年。六歳から二十歳まで。公爵令嬢が毎朝、暖炉の灰をふるいにかけて紙片を拾っていた。十四年間。
それが何を意味するかは、この場にいる人間がそれぞれ判断すればいい。私は事実を述べるだけだ。
◇
オーレンが調査報告の説明をした。
帳簿の不整合。領地管理費の異常な増加。ヴォルフリート商会への不明瞭な支出。故公爵夫人の持参地の記録の不自然な薄さ。
リーネの手帳の断片記録と帳簿の時系列が一致する箇所。灰の紙片の出現時期と、帳簿上の支出の時期が重なること。
オーレンの声は落ち着いていた。いつもの声だ。帳簿を読む時の声。事実を並べる声。
私は一度だけ、オーレンを見た。
オーレンは報告書を読み上げていた。私を見ていなかった。だが、私が見ていることに気づいたのだと思う。読み上げの間合いがほんの少しだけ変わった。
目を戻した。机の上の油紙を見た。
◇
上席官が公爵に向き直った。
「アシュフォード公爵。帳簿の不整合について、ご説明をお願いできますか」
父が口を開いた。
「これは何かの——」
声が途中で止まった。一度、唇を舐めた。
「リーネ」
私の名前を呼んだ。
聴取の場で。上席官と書記とオーレンの前で。名前を呼んだ。
「これは何かの間違いだ」
私を見ていた。初めて、まっすぐに。
十四年間、食卓で私を見なかった人が。朝食の席で一度も目を合わせなかった人が。「気にしないでください」と来客に言い、「あの子は何も感じないから」と使用人の前で言い、「何か欲しいものはあるか」と安堵を確認しに来た人が。
今、私を見ている。
「リーネ、これは——」
「公爵」
上席官が遮った。「質問にお答えください」
父は口を閉じた。少しの間があった。それから、もう一度私を見た。
「お前は——何も感じないのか」
声が小さかった。聴取の場にふさわしくない声だった。
何も感じないのか。
十四年間、感情を殺させておいて。泣けば「母に似ている」と嫌がり、笑わなければ「人形のようだ」と言い、「あの子は何も感じない」と周囲に吹聴しておいて。
今になって、感情を求めるのか。
答えなかった。
口を開かなかった。
父の目を見た。見ただけだ。初めて、父の目をまっすぐに見た。
膝の上の手が震えていた。机の下だから、見えていないはずだ。
でも——見えていなくていい。この震えは誰かに見せるためのものではない。私の手が、私の代わりに怒っている。十四年分の冷めたスープと、北向きの部屋と、暖炉のない冬と、ほつれた手袋と、脇のきついドレスと、裏口から出した靴と、磨き続けた靴底と、拾い続けた灰に、手が怒っている。
言葉にはしなかった。
言葉にしなくていい。手帳が語っている。油紙が語っている。数字が、この机の上に全部並んでいる。
上席官が聴取を再開した。父は答弁に戻った。声が少し掠れていた。
オーレンを見た。二度目。
オーレンは私を見ていた。頷かなかった。何も言わなかった。ただ、視線を逸らさなかった。
それで十分だった。
頷かれるより、励まされるより、「大丈夫ですか」と聞かれるより。ただ、目を逸らされなかったことが。
◇
聴取は午後に終わった。
結論。帳簿の不整合が認められる。公爵家は領地管理権の返上と、王家への経緯報告を命じられる。ヴォルフリート伯爵との売買交渉は、故公爵夫人の遺言に基づき無効と判断される。リーネ・アシュフォードの領地相続権が確認される。
淡々と読み上げられた。書記がペンを走らせた。
父は何も言わなかった。継母は聴取に呼ばれていなかった。ゾフィーも。
私も、何も言わなかった。
聴取室を出た。
◇
管理局の建物の外に出た。
壁にもたれた。石の壁。冷たい。洗濯場の裏の壁を思い出した。石のざらざらした感触が似ている。
息を吐いた。白い息。冬の午後。
鼻の奥が冷たい。目は乾いている。泣いていない。泣く場面ではなかった。聴取は事務手続きだ。感情を出す場ではない。
だが、膝がまだ少し震えていた。聴取の間ずっと震えていた。机の下で。誰にも見えないところで。
足元を見た。靴。髪飾りのない靴。中敷きが薄い。
この靴で歩いてきた。裏口から出て、安宿に泊まって、法務書房に通って、管理局の椅子に座った。
自分の足で。
「アシュフォード嬢」
振り返った。
オーレンが建物から出てきた。外套を着ている。手に、手帳を持っていた。
私の手帳。
「お返しします」
差し出された。
手帳を受け取った。両手で。
重い。十四年分の重さ。角が手汗で丸くなっている。表紙の革が擦れている。端が折れている。
油紙の束は管理局に保管された。紙片は証拠として管理局の棚に入る。あの灰の断片たちは、もう北向きの部屋の机の上には戻らない。
だが、手帳は戻ってきた。
「必ず返します」と、あの人は言った。返った。約束が、果たされた。
手帳を開いた。
最初のページ。六歳の字。「おかあさまのいったとおり、はいをみています」。その隣に、二十歳の字。「お母様は正しかった」。
ページを繰った。数字。数字。数字。暗号。今はもう暗号の意味を知っている人間が、私以外にもいる。
最後のページの手前に、油紙が一枚挟まっていた。
管理局に預けたはずの油紙ではない。これだけ、手帳に挟まったまま戻ってきた。
開いた。
読めない紙片。母の筆跡の、焼けすぎて文字が消えた一枚。
あの一枚だけが、まだここにある。読めないまま。
オーレンが意図的に残したのか、気づかなかったのか。聞かなかった。どちらでもよかった。
読めない紙片を、手帳に挟み直した。
手帳を閉じた。革鞄の中に入れた。髪飾りの隣に。厚い便箋の手紙の隣に。
「ありがとうございます」
オーレンに言った。手帳を返してくれたことに対して。聴取に同席してくれたことに対して。視線を逸らさなかったことに対して。便箋が厚かったことに対して。
どれに対しての礼かは、言わなかった。全部に対してだったから。
オーレンは少し間を置いて、頷いた。
冬の午後の光が、管理局の石壁に当たっていた。影が長い。もうすぐ日が暮れる。
手帳が鞄の中にある。読めない一枚が、まだ手帳の中にある。
全部が終わったわけではない。でも、手帳は戻ってきた。




