第15話 自分の暖炉
新しい部屋の暖炉は、屋敷のどれよりも小さかった。
煉瓦が古い。目地に隙間がある。煙突の引きが弱くて、火をつけると少しだけ煙が部屋に漏れる。薪は細い。太い薪を入れると火床からはみ出す。
自分で火を入れた。
火打ち石を三回打って、火口に火を移し、薪に当てた。最初の薪が燃え始めるまでに時間がかかった。屋敷では使用人が火を入れていた。安宿では主人が足してくれた。自分で一から火を起こすのは初めてだ。
火がついた。
小さい。屋敷の暖炉の火と比べたら、蝋燭を少し大きくした程度だ。だが近い。暖炉の前に座ると、膝に温度が届く。屋敷の広い部屋では、暖炉から三歩離れたらもう温かくなかった。この部屋は四歩で壁に当たる。どこにいても火が近い。
母の領地の端にある、小さな家だ。元は管理人の詰所だったらしい。部屋が二つ。台所が一つ。井戸が裏手にある。庭はない。窓は南向き。
南向き。
十四年ぶりの、南向きの窓だった。
◇
台所でスープを作った。
じゃが芋を切った。小刀で。灰の紙片を扱う時に使っていた小刀だ。今は芋を切っている。
玉葱も切った。涙が出た。涙は玉葱のせいだ。それ以外の理由はない。
鍋に水を入れて、火にかけた。暖炉ではなく、台所のかまどで。塩を入れた。少なかった。味見をしたら薄い。塩を足した。まだ薄い。
料理はほとんどしたことがない。屋敷では食事は出されるものだった。冷めて、脂の膜が張って、残り物だったが、出された。自分で作ることはなかった。
スープが煮えた。器に移した。
飲んだ。
薄い。安宿のスープより薄い。具が硬い。じゃが芋に火が通りきっていない。
だが温かかった。
自分で作って、自分で器に入れて、自分の机で飲んでいる。誰かの残り物ではない。冷めていない。脂の膜もない。薄いが、温かい。
二口目で、ようやく味が分かった。塩と、じゃが芋の甘みと、玉葱の匂い。三口目は、匙を使わずに器を持ち上げて、口をつけて飲んだ。行儀は悪い。見ている人がいないから構わない。
飲み終えて、器を台所に持っていった。洗った。自分で。
◇
鏡台の前に立った。
鏡台といっても、壁に掛けた小さな鏡だ。枠が錆びている。前の管理人が残していったものだろう。
鏡の下の棚に、母の髪飾りを置いた。
十四年間、靴の中にあった。足の裏で踏んでいた。中敷きの裏に縫い込んで、汗で変色させて、角で足裏を押し続けた。
今、棚の上にある。変色した金属が鏡に映っている。花と鍵の紋章。裏も表も見える。
靴の中に戻す必要はない。もう隠さなくていい。
棚の上の髪飾りは、靴の中より冷たい。体温が移らないから。だが、手を伸ばせば届く。足の裏ではなく、指先で触れる場所にある。
◇
机に座って、手帳を開いた。
新しいページ。暗号の並んだページの後の、白いページ。
ペンを取った。新しいインク。文書管理局からの依頼書に同封されていた。損傷文書の修復作業を手伝ってほしいという依頼。報酬が出る。インクはその前払いのようなものだと、添え状に書いてあった。
黒いインク。水で薄めていない。書くと、くっきりとした字が紙に残る。灰色ではない。黒い字。
手帳に書いた。
暗号ではない。
「晴れ。風は冷たい。スープを作った。薄かった」
天気と、今日の出来事。暗号にする必要がない。誰に隠す必要もない。この手帳を見る人間がいても、困ることは何もない。
奇妙だった。ずっと暗号でしか書かなかった手帳に、平文を書いている。数字ではなく言葉を書いている。それだけのことなのに、ペンを持つ手の力の入れ方が違う。暗号を書く時は力が均一だった。一画ごとに同じ筆圧で、規則的に、機械のように。
今は力が揺れる。「薄かった」の「た」が少し大きくなった。
それでいい。
◇
午後、扉を叩く音がした。
開けた。
オーレンだった。
紺色の外套。襟元の擦れは——直されていた。だが縫い目が粗い。糸の色も微妙に違う。自分で繕ったのだろう。文書修復官は紙の扱いは精密だが、布の縫い目は下手らしい。
直してあげたい、と一瞬思って、何も言わなかった。
「アシュフォード嬢」
「オーレンさん。どうぞ」
中に入った。部屋を見回した。狭い部屋に、目が少し動いた。暖炉を見た。机を見た。鏡台の棚の上の髪飾りを見た。
何も言わなかった。
「文書管理局から、修復作業の書類を預かっています」
脇に抱えていた封筒を渡された。受け取った。封筒は厚い。中に書類が数枚と、損傷文書の写しが入っているのだろう。
「依頼書の内容でご不明な点があれば、管理局に問い合わせてください」
「分かりました」
「報酬は月末に管理局経由で届きます」
「ありがとうございます」
用件が終わった。
五分もかからなかった。封筒を受け取って、説明を聞いて、それだけだ。
オーレンが立ち上がりかけた。椅子から腰を浮かせた。
止まった。
腰を下ろし直した。
「……少し、暖炉に当たっていっていいですか」
声が小さかった。帳簿を読む時の声ではなかった。事実を並べる声でもなかった。聞いたことのない声だった。
外は寒い。王都から領地まで馬車で半日。外套の肩に、うっすら雪が残っている。
「どうぞ」
二人で暖炉の前に座った。
椅子は一つしかない。私が椅子に座り、オーレンは暖炉の前の床に座った。足を投げ出して、火を見ている。
用件は終わっている。
封筒はもう渡した。説明もした。帰っていい。帰る理由はある。管理局に戻る仕事がある。
帰らない。
沈黙が続いた。暖炉の薪が爆ぜる音がした。小さな火の粉が一つ飛んで、煉瓦の上で消えた。
苦しくなかった。
沈黙が苦しくない。
十四年間、誰かと沈黙を共有したことがなかった。ベルタとの沈黙は安全だったが、あれはベルタが聞こえていないだけだ。オーレンは聞こえている。黙っているのは、話すことがないからではなく、話さなくても構わないから黙っている。
その違いが分かった。分かって、少しだけ身体の力が抜けた。肩が下がった。いつから肩を上げていたのか分からないが、下がった。
「——オーレンさん」
「はい」
「リーネ、と呼んでください」
声に出した。
管理局の聴取でも「アシュフォード嬢」だった。手帳を返す時も「アシュフォード嬢」だった。屋敷を出る朝に「オーレンさん」と呼んだ時も、返ってきたのは「お気をつけて」だった。
名前を呼んでほしかった。
家名ではなく。役割でもなく。令嬢でも人形でもお嬢様でもなく。リーネ、と。用事がない時に。命令でも叱責でもない声で。
オーレンは火を見ていた。横顔が火に照らされている。
少し間があった。
「……リーネ」
声に出した。低い声。いつもの声より少し硬い。慣れていない響きがある。名前を呼び慣れていない人間の声だ。
この人も、人の名前を呼ぶことに慣れていないのかもしれない。紙の前では正確で、人の前では不器用な人。帳簿は読めるのに、名前を呼ぶ時に声が硬くなる人。
「リーネ」と呼ばれた。
暖炉の火が揺れた。薪が少し崩れて、灰が落ちた。
灰受けに灰が溜まっている。
見た。
何も拾わない。ふるいにかけない。油紙を出さない。手帳に暗号で記録しない。
ただの灰だ。薪が燃えて、残ったもの。暖かさの後に残るもの。拾わなくていい。読まなくていい。
手帳は閉じたまま、机の上にある。最後のページに挟んだ油紙の中に、読めない一枚がまだある。母の筆跡の、焼けすぎた紙片。あれは読めないまま、ずっと手帳の中にあるだろう。
全部が終わったわけではない。スープは薄い。領地の管理はこれからだ。暖炉の煙突は引きが悪い。読めない紙片は読めないままだ。
でも、暖炉の火を見ている。灰ではなく、火を。
隣に人がいる。用事のない人が。黙って、火を見ている。
南向きの窓から、午後の光が差し込んでいる。壁に影が伸びている。オーレンの影と、私の影が、暖炉の前で重なっている。
薪が爆ぜた。小さな音がした。
それだけの午後だった。




