第3話 文書管理官の指
来客の右手が、玄関の光の中で一瞬だけ見えた。
人差し指と親指の腹が、黒ずんでいる。
私はその手のことを、しばらく考えていた。台所へ向かう廊下を歩きながら、あの黒ずみのことだけを考えていた。
炭化した紙を繰り返し触った手だ。灰の中から紙片を拾い上げ、指の腹で表面をなぞり、残ったインクの跡を確かめる。そういう手だ。
私の手と、同じ色をしている。
台所を通り過ぎた。何をしに来たのか一瞬忘れていた。
◇
午前中、使用人のハンナが慌ただしく廊下を行き来していた。
「お嬢様、旦那様が、お嬢様は部屋にいるようにと」
「何かあったの」
「王家の文書管理局の方がいらしていて。帳簿の確認をなさるとか。しばらくお泊まりになるそうです」
文書管理局。王家直属の記録機関。古文書の管理、文書の真贋鑑定、損傷文書の修復。そして——帳簿や報告書の不正調査。
「分かりました」
部屋にいるように、と言われた。だが、父が客間で来客の相手をしている間、書斎は空いている。
靴磨きの日ではない。だが書斎の前の廊下を通ることは禁じられていない。
◇
書斎の扉は開いていた。父が客間に行く時、鍵をかけ忘れたらしい。来客の対応で気が急いていたのだろう。
暖炉を覗いた。
薪が樫だった。
普段は楢を使う。樫は高い。来客がある時だけ樫に替える。見栄のためだ。だが問題は薪ではない。灰の量だ。
昨日の夜から今朝にかけて、普段より多く燃やしている。薪だけではこうならない。紙を燃やすと灰の質が変わる。軽くなる。薪の灰は重く、紙の灰は白っぽく浮く。
この暖炉から、白い灰が多く出ている。
来客の前に、何かを燃やした。文書管理局の人間が来る前に。
灰を掻き出したかったが、今は無理だ。父がいつ戻るか分からない。夜まで待つしかない。
書斎を出て、廊下に戻った。
その時、客間から人が出てきた。
客人の男だった。
近くで見ると、朝よりはっきり分かった。二十代の後半。髪は短く、外套は安い染料の紺色。襟元がやや擦れている。貴族の出だとしても、裕福ではない。靴は革だが底が薄い。よく歩く人間の靴だ。
目が合った。
「——失礼、お手洗いの場所をご存じですか」
声は低いが、早口ではない。
「突き当たりを右です」
答えながら、自分の手を意識した。作業用の手袋はしていない。袖口から指先が出ている。黒ずみが見える。
客人の視線が、一瞬だけ私の手に落ちた。
一瞬だった。すぐに視線は私の顔に戻った。だが、見た。この男は私の手を見た。
「ありがとうございます。——あなたは?」
「長女のリーネです」
「王家の文書管理局、次席官のオーレン・カレスです」
軽く頭を下げられた。私も返した。
オーレンの右手が視界に入った。黒ずんだ指。私と同じ色。
文書修復官なら、そういう手になる。炭化した古文書や損傷した紙を毎日触っていれば。
だが、この人は私の手も見た。
公爵令嬢の指が黒ずんでいる理由を、この人は考えているだろうか。
「この屋敷は暖炉が多いですね」
オーレンが言った。手洗いの方角を見ながら、独り言のような声で。
「冬が長いものですから」
答えた後で、この会話の意味を考えた。暖炉が多い。紙を燃やしやすい。文書管理官が最初に確認することは、証拠を消す手段の有無だろうか。
それとも、ただの世間話だろうか。
相手の意図が読めない。表面しか見えない。
オーレンは軽く会釈して、廊下の奥へ消えた。
残されて、しばらく廊下に立っていた。何を考えていたのか、自分でもよく分からなかった。あの手のことだけがぼんやりと残って、それ以外が全部白くなっているような、奇妙な時間だった。
廊下の天井に染みがあった。雨漏りの跡だ。もう何年も前からある。数えたことがある。七つ。今も七つ。どうでもいいことを確認している自分がいた。
ハンナが廊下の向こうから歩いてきて、我に返った。
◇
夕食は家族だけだった。オーレンには別室で食事が出されたらしい。
父は食事中、一度も私を見なかった。普段通りだ。普段通りなのに、「あの子が二十歳になる前に」という言葉と、文書管理局の来訪が並ぶと、同じ食卓の空気が少し違って感じられた。
ゾフィーが「文書管理局の方、お姉様みたいに暗い顔をしてたわ」と言った。
継母がゾフィーの手を軽く叩いた。「そういうことを言うものではありません」
ゾフィーは口をつぐんだ。だが、悪気はない。この子にはいつも悪気がない。
暗い顔。私に似ている、と言われた。人形のような顔と暗い顔は、似ているのだろうか。
それは考えても仕方がないので、スープの脂を匙で寄せた。今日のスープも、ぬるかった。
◇
屋敷が寝静まった後、書斎へ行った。
扉は施錠されていなかった。朝と同じだ。来客の対応で父の習慣が崩れている。普段なら就寝前に鍵をかける。今日はかけ忘れている。
暖炉の前にしゃがんだ。
灰受けを引き出す。重い。いつもの倍はある。
作業用の手袋をはめて、ふるいにかけた。冬の夜の書斎に暖房はない。暖炉は消えている。自分の息が白い。
紙片が出てきた。
一枚。二枚。三枚。四枚。
四枚。
先週は一枚だった。一昨日は一枚。今日だけで四枚。
手袋を外して、指の腹で一枚目をなぞった。鉄媒染のインク。焼け残った文字。「伯」。一文字だけ。
二枚目。「——領」。
三枚目。何も読めない。焼けすぎている。
四枚目。端が丸く焼けているが、二文字残っていた。「ヴォルフ」——いや、違う。よく見ると「フ」の後にもう少し画がある。五文字か六文字の単語の一部かもしれない。
暗い。蝋燭を持ってくるべきだった。月明かりだけでは灰の上の薄い文字を読む精度が足りない。
四枚を油紙に包んだ。
灰受けを元に戻し、書斎を出た。
部屋に戻る廊下を歩きながら、手帳に記録しなければと思った。だが部屋に着いた時、机の前に座ったまま、しばらく手帳を開けなかった。
四枚の紙片が袖口の中で腕に当たっている。油紙の厚みが、いつもより分かる。
四枚。一晩で四枚。
誰かが焦っている。文書管理局の人間が来て、帳簿を調べると聞いて、燃やせるものを燃やしている。
そして、あの男の手が黒かった。私と同じ色だった。
この人は灰を読む必要がない。帳簿を直接見る権限を持っている。灰から断片を拾うしかない私とは違う。
油紙を袖から出して、机の上に置いた。四枚分の小さな膨らみ。
手帳を開いた。インクの瓶を両手で温めた。数字を書き始めた。
手が止まった。
あの人の指が、頭から消えない。




