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人形のような公爵令嬢はお断りです。〜暖炉の灰で手紙を読める私は、自分の足で歩きます〜  作者: 秋月 もみじ


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第2話 人形の値段


ドレスの脇が、息を吸うたびに肋骨を押した。


ゾフィーが去年の社交シーズンで着た藤色のドレス。仕立ては良い。生地も良い。ただ、ゾフィーと私では胸囲が違う。ゾフィーの方が細い。


鏡の前で背筋を伸ばすと、脇の縫い目が引きつる。深呼吸ができない。浅い息で一晩を過ごすことになる。


継母が廊下から声をかけた。


「リーネさん、支度はできて?」


「はい」


「髪はそのままでいいわ。あなたは目立たなくていいの」


返事はしなかった。する必要がなかった。命令であって確認ではない。


靴を履く。右足の踵が少し低い。もう半年以上この靴だ。底を替える予算は私には回ってこない。靴の中敷きの裏に、硬いものが当たる。母の髪飾り。十四年、ここにある。歩くたびに足裏に触れる。それだけが、この靴を履く理由だった。


手袋を探した。冬用の作業手袋しかない。親指がほつれている。パーティには持っていけない。指の黒ずみを隠すものがない。


仕方なく、素手のまま出た。



馬車の中で、ゾフィーが楽しそうに喋っていた。


今日のパーティの主催はヴェーバー侯爵家。ゾフィーの婚約話に関わる家だと継母が言っていた。ゾフィー本人はそこまで分かっていない。ただ、新しいドレスを着て、広い屋敷に行けることが嬉しいらしい。


「お姉様、爪が黒い」


ゾフィーが私の右手を見ていた。


指の腹。灰の染み。石鹸で洗ったが落ちきっていなかった。普段は作業用の手袋で隠している。今夜はそれがない。


「庭仕事の跡よ」


嘘は滑らかに出た。もう何年もこの嘘を使っている。


「お姉様は手袋をした方がいいわ。お母様——あ、ごめんなさい、マルテお母様がそう言ってた」


ゾフィーは「お母様」と言いかけて言い直した。私の母と、ゾフィーの母。同じ屋敷に二人の「お母様」がいた名残。ゾフィーなりの気遣いだろう。


「大丈夫よ」


大丈夫ではなかった。でも、ゾフィーの前で大丈夫ではないと言っても、この子にできることは何もない。


馬車が揺れるたびに、右足の裏で髪飾りの角が当たる。小さな痛みが、靴の底から伝わってくる。



ヴェーバー侯爵邸の広間は明るかった。


蝋燭が多い。暖炉も大きい。薪を惜しみなく使っている。暖炉の前を通った時、灰受けの大きさを目で測った。あの暖炉なら紙片が残る——と考えて、やめた。ここは私の家ではない。拾えない灰を数えても仕方がない。


ゾフィーの一歩後ろに立つ。


継母がゾフィーを連れて挨拶に回る。私はその後ろについて歩く。紹介される順番は、ゾフィーが先。私は添え物だ。


「まあ、アシュフォード公爵のご令嬢方。ゾフィーさんは明るくて可愛らしいこと! それに——」


婦人の目が私に移る。


「お姉様の方は、相変わらずお人形のようですこと」


笑顔で言われた。褒め言葉のつもりだろう。美しい、という意味で使っているのかもしれない。


人形。


感情がない。何を考えているか分からない。目が笑わない。触っても冷たそう。飾っておくには綺麗だが、話しかけても返事が薄い。


何人もの婦人にそう言われてきた。


「ありがとうございます」


微笑む。口元だけ。目はたぶん、いつも通りだ。いつも通りが何なのか、もう自分でも分からない。


ゾフィーが私の腕をそっと掴んだ。


「お姉様、あっちにお菓子があるって!」


引かれるままに歩く。ゾフィーの手は温かい。私の腕は、ドレスの上からでも冷たいだろう。



広間の隅で、壁際に立った。


ゾフィーは継母と一緒に別の令嬢たちの輪に入っている。私はそこに呼ばれていない。呼ばれていないことに、もう何も感じない。感じないふりが上手くなっただけかもしれないが、結果は同じだ。


やることがないので、人を見た。


靴を見る癖がある。裾の汚れ、靴底の減り方、歩き方。この人は長く歩いてきた。この人は馬車から降りたばかり。この人は左足をかばっている。


封蝋を見る癖もある。使者が持つ手紙の封蝋の色と紋章。赤い蝋、青い蝋、金の箔を押した蝋。どの家がどの色を使うか、何年も見ていれば覚える。


今日は、特に目を引く封蝋はなかった。知らない紋章もない。収穫のない夜だ。


深呼吸をしようとして、ドレスの脇が肋骨を押した。浅い息しかできない。


足裏で髪飾りの角が当たる。


ゾフィーの白い手袋が見えた。新しい。きれいな白。


それを見ている自分に気づいて、視線を落とした。自分の手。指の腹の黒ずみ。素手のまま、隠すものがない。


羨んでいるのかと自分に聞いた。


少しだけ。ほんの少しだけ。


認めたくないが、認めないと嘘になる。



帰り際に、声をかけられた。


年配の婦人だった。名前は覚えていない。母の知人だったかもしれない。


「リーネさん、でしたかしら。大きくなったわねえ。お母様に似てきたわ」


手が止まった。


隣にいた継母の背中が、一瞬だけ固くなったのが分かった。すぐに戻ったが、肩の線が変わった。


「ありがとうございます」


私はそう答えた。母に似ている。その言葉の意味を、この婦人は知らないだろう。父がその言葉をどう聞くかも。


継母は何も言わなかった。ただ、ゾフィーの肩に手を置いて、足を速めた。


母のことを覚えている人が、まだいる。


母はどう見えていたのだろう。人形のようだったのだろうか。それとも、違ったのだろうか。


六歳の記憶は曖昧で、母の顔より、母の手の匂いの方がはっきり残っている。紙の匂い。インクの匂い。母は何か書いていた。何を書いていたのかは、知らない。


「暖炉を見ていなさい」


母の最後の言葉だけが、匂いもなく、ただ音として残っている。



馬車で屋敷に戻ったのは、夜の十時を過ぎていた。


ゾフィーは眠そうに目をこすりながら自室へ行った。継母は父の書斎に向かった。報告だろう。パーティの成果、ゾフィーの評判、婚約話の進捗。私の報告は誰にも求められない。


廊下を歩いて自室に向かった。書斎の前を通る時、扉の隙間から明かりが漏れていた。父と継母が話している。声は聞こえない。


あの夜の言葉を思い出した。「あの子が二十歳になる前に」。


パーティ会場で「人形のようですこと」と笑われ、帰ってきて、書斎の明かりが見える。あの中で、私の知らない話が進んでいる。


部屋に戻った。


靴を脱いだ。ドレスの脇の跡が、肋骨に赤く残っていた。鏡がなくても分かる。指で触ると、縫い目の形がそのまま皮膚に押されている。


手帳は開かなかった。今日は灰の紙片がない。パーティでの収穫もない。書くことがない夜もある。


靴を揃えて、床に置いた。中敷きの裏で、母の髪飾りが小さく光っている。


素手のまま出た指を見た。黒ずみ。ゾフィーの白い手袋を思い出した。


明日からまた灰を拾う。あの三文字と、「二十歳の前に」を抱えたまま。

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