25.うずまく作為
「足りんな……」
目の前に広げられた帳面。そこに並ぶ大小の数字は、散々な状況を丁泉に突きつけていた。
物価の高騰に税収の減少は言うに及ばず。焦げついた先物買い付け品に貴金属の流出。さらに通貨価値は乱高下。
端的に言って、荊央国は火の車だった。
(水運事業の他、早急に輸出をテコ入れせねば……)
尻に火が付くどころか、油を被って焼けた道を駆けているに等しい。東呉からの輿入れ金で多少は国庫も潤ったが、それ以上の厄介事も舞い込んでいる。
「本来、一石二鳥の婚姻外交だったのだが……」
計算外の要素が入ったせいで、頭痛の嫁取りになってしまった。それに、嫁取りと言うのも、ずいぶん綺麗に繕った話だ。
権力と私事を切り売りした所業にほかなく、国家間の均衡まで考え始めたら、あと何人の嫁を取るはめになるやら。
(適齢期を娶るのは避けよう。夜も持たん)
くだらないため息を吐いて、丁泉は窓の外に視線を向ける。
気が付けば、蝉の声も大人しくなり、東南の風が目立つ季節になってきた。穏やかな夕日にささやかな風が涼しい。
この時間帯、丁泉の執務室を訪れる者はいない。
ひとりを好む身にとって、ゆっくりと過ぎていく一日を眺めるようなこの瞬間は、何にも代えられない時間だ。
――そんな時。
とんととん、と聞き慣れた拍子で扉が叩かれた。
わざわざ呼びかけなくても、誰かわかる。面倒事だ。
「桓範……。何しに来た……」
「もう少し歓迎して欲しいですが」
「ふん。どうせ追加の仕事だろう」
あきれ顔の桓範を無視して、丁泉は卓へ伏せる。
どうせやらねばならないに決まっている。だったら、少しくらい抵抗しても罰は当たらない。むしろ、人として当然の権利だ。
桓範のため息と、足音が近づく。
「私はそこまで鬼ですか……」
卓に何かが置かれる音がして、丁泉は首を回す。
「これは?」
「黒糖です。黄華殿からお裾分けを。昔から好きでしょう」
「ん……。もらっとく。……で、本題は?」
丁泉は黒糖を摘みながら座り直す。
「毒殺の件で」
「続報か?」
最後の報告、城内で偽装された死体が見つかった一件を丁泉は思い返す。
「えぇ。西蜀の線は薄くなりました。幼女妃が無関係とはまだ分かりませんが」
「幼女ってお前なあ……」
丁泉は黒糖を口に放り込み、肘をつく。
「まあいい。理由は?」
「先日の城内で死体が見つかった件。あれの毒が朝鮮朝顔だったとわかりまして」
毒の特定は今回が初めてだ。これまでは水に浸かるやら、土に埋まっているやらで、叶わなかった。しかし……
「朝鮮朝顔? 西蜀だと鳥兜が一般的だろう?」
「はい。彼の地は高い山も多く、荊央より寒い。よって、毒なら鳥兜の方が入手しやすいです。さらに、遺体の隠し方でも妙な点が」
「米を使ったんだろう? 貴重な米を……まったく、思い出しても忌々しい」
先物で失った銭。それは米相場の読み違いもある。
「それは丁泉さまの投資観のせいでしょうが……。ともあれ、ただでさえ少ない荊央城の米、その備蓄量を改めたところ、ある事実が判明しました」
「なんだ」
「『荊央』の米は減っていない。それどころか、触れられた形跡すらもない、ということです」
丁泉は三つ目の黒糖を口に入れようとして、止めた。
胡乱な目つきで桓範に視線を送る。
「それはおかしいだろ。使われたら減るし、よしんば気づかないほど微量だとしても、取り出したかは明らかだろう?」
「えぇ。『荊央』の米であれば」
「どういうことだって……まさか!?」
丁泉は微笑を浮かべる桓範を横目に、引き出しから一枚の紙を取り出して卓に広げた。
桓範は、金やら酒の銘柄やらが記されたその紙、つまりは目録の、ある品目を指す。
「そうです。東呉からの貢物、この米を使ったのではないかと」
「辻褄は合う。だが、そうなると、毒を盛っているのは……」
「東呉の人間。そうでなくても、極めて東呉に近しい誰か」
「なるほど。わざわざ残業させに来ただけあるな」
丁泉は椅子の背に身を預け、天井を見つめ思案する。
東呉の人間が犯人。もちろん、可能性としてはありえる。
東呉は豪族の集まりで一枚岩と言い難い。婚姻に反対する勢力もあるし、噂程度でもあの妃の出自を耳にしていたらなおのことだ。
「毒殺者の正体。それに加えて、千年前の皇帝。その忘れ形見……か」
尊き血筋とされながら東呉に秘匿されていた娘。
そんな裏があると知っていれば、丁泉も娶らなかった。
お陰で頻発する毒殺は、西蜀、荊央、東呉で繰り広げられる、高度な政治工作の風体をまとっている。
「ただの内輪揉めなら良いが……」
「いまさら求心力もないでしょうにね」
「ばかいえ。こうして頭を痛めている」
丁泉は指を組んだ。苦々しい感情を押し込めるように。
「みな、解放されたいのさ。因習からな」
ーー因習。
それは、この大陸の覇を三国で争っていた時代に終止符を打った梟雄が、各国の雄を歴史から抹消するために布告した法に始まった。
『禁句指定の詔』
一部の姓と名を対象とした禁句への指定。
その対象となった者たちは、どれほどいただろうか。
公職追放に強制移住。異国民と婚姻による改名やら。
叛乱の芽は摘まれた今なお、その残滓は残っている。
「現状を打破するなら、担ぎ上げたい連中はいる」
遥か昔の歴史で言えば、梟雄より千代の先祖の方が、先に皇帝の位についたのだから。
「しかし、王が二人いる国はありえません」
「俺は譲らんぞ。天下を奪うのに必要な、才能の宝石箱を」
反逆者の末裔。名無しの巣窟。そんな揶揄は甘んじて受けよう。どう呼ばれようと荊央は希望の地で、天下を伺うに必要な人材の宝庫なのだ。
「わかっています。伊予殿は明日戻りますから、東呉の内輪揉めと確信できたなら、口実のひとつにもなりましょう」
荊央の体制を揺るがす出自を持つのが千代だ。
伊予は千代の保護を訴えるだろうが、丁泉は甘くない。
「そう。『皇帝の子孫を僭称した罪』は死でしか償えない」
頬だけの邪悪な笑みを浮かべ、丁泉は続ける。
「証拠なんて、黄華の料理をこじつければいい」
「……残る不安要素は、そこ黄華殿でしょうか」
桓範は表情をわずかに曇らせる。
「丁泉さま、あれは目ざといですよ。既に気づいているかもしれません」
「諸葛の血……か」
蜀の丞相にして稀代の宰相『諸葛亮』。
黄華、いや諸葛華にはその才覚が継がれている。
「別に構わん。才あれど、もし俺を阻むなら……」
丁泉が自身の出自を知った黄華を殺さないのは、ただ、使い道があるからだ。
『唯才是挙』
丁泉が受け継ぐ血。
それは、才に焦がれる灼熱と、己に背く者への苛烈。
「斬るに躊躇いはまったくない」




