第4話「眼鏡の向こうの君」後半
翌朝の教室。
誰も私に話しかけず、誰も隣に座らず、誰も廊下で目を合わせなかった。
でも、誰も私を「いじめている」わけじゃない。
気づいていないのか、気づいていても言えないのか。
どちらにしても、結果は同じだった。
私はそっと眼鏡を押し上げながら、自分の席へと歩いた。
最後列の窓際から、じりりと「熱」が届いた気がしたけれど、振り返らなかった。
けれど——その「熱」だけは、今日も変わらず、そこにあった。
カトリーヌ様の「配慮」が始まってから、五日が経った。
昼休み。今日も旧図書室に滑り込むと、テオ様がいつもの梯子の上で古文書を広げていた。
ライ麦パンをかじりながら、私はいつもの窓際の床に腰を下ろす。しばらくの間、ページをめくる音だけを聞いていた。
やがてテオ様が、本から視線を上げることなく、静かに言った。
「……最近、気配が重いな」
「……そうですか」
「そうだ」
それだけだったけれど、気づいていてくれたんだと思ったら、少しだけ楽になった。
「……少し、疲れました」
「そうか」
「……テオ様は、孤独になったことはありますか」
少し間があって。
「ある」
「……どうやって、乗り越えましたか」
「乗り越えていない。ただ、慣れた」
窓からの光を受けた銀髪が、静かに輝いている。
細い指先が、ゆっくりとページをめくった。
「……孤独は、なくならない。ただ、隣に置いておくものだ」
隣に、置いておく。 その言葉が、じわりと胸に染みた。
昼休みが終わる少し前、私は旧図書室を出た。
午後の教室。自分の席に向かいながら、ふと視線を感じた。
カトリーヌ様が、こちらを見ていた。笑顔だった。
いつもの、完璧な笑顔。
でも今日は——その笑顔の奥に、何か違うものが混じっている気がした。
いつもの冷たさとは、温度が違う。なんだろう。
うまく言葉にできないまま、手首のブレスレットへ思わず触れていた。
光の術式が、彼女の周囲をほんのりと輝かせている。
あの笑顔が、なんとなく、怖かった。
——目立たず、静かに。それだけでいい。 最後列の窓際から、じりりと「熱」が届いた気がしたけれど、振り返らなかった。
放課後の廊下。 視線を落としたまま、廊下の端を歩いていた。
無造作に束ねた亜麻色の髪が頬にかかるのを耳にかけながら、できるだけ存在感を消すように廊下の端をすり抜ける。
——目立たず、静かに。それだけでいい。 そう思っていた、その時。
角を曲がった瞬間、誰かと正面からぶつかった。
「……っ」
衝撃で体が揺れ、次の瞬間——何かが、ずれた。眼鏡が、と気づいた時には、カランと床に落ちる音が聞こえた。
「……っ、す、すみませんっ! 前を見ていなくて……!」
慌てて頭を下げながら眼鏡を探して床に視線を落としたけれど、どこにあるか分からない。
焦りで視界が狭くなって、床を這うように探しながら手が震えていた。
(……まずい)
眼鏡がない。眼鏡は、ただの眼鏡じゃない。
魔力を封じ込める術式が刻まれた、母様からの魔道具だ。
ブレスレットが底を隠してくれていても、眼鏡がなければ魔力が滲み出てしまう。
早く、早く、見つけないと。
焦りながら手を伸ばしかけた、その時。
誰かが、ゆっくりとしゃがんだ気配がした。
(……誰)
長い指が、静かに眼鏡を拾い上げる。
漆黒の袖、整った手の甲。しゃがんでいても、同い年より頭一つ分は高いとわかる、
静かだけれど、妙に通る気配。
この「熱」は——。 胸の奥で、水の魔力がざわりと揺れた。
顔を上げた瞬間、金の瞳が静かにこちらを見ていた。
心臓が、止まりそうになった。
フェルドラク様だった。
しゃがんだまま眼鏡を手に持って、こちらを見ている。
「……こんな顔をしていたのか」
静かな声が、落ちてきた。 私は固まった。
フェルドラク様の金の瞳が、ゆっくりと私の顔を見ている。
眼鏡がない。手首のブレスレットに思わず触れる。
魔力の底は隠せている。でも、眼鏡がない。
魔力が滲み出るかもしれない。
素顔も、母様似の顔が、今、この人に、まともに見られている。
(……見られてる)
フェルドラク様の「熱」が近くて、共鳴系の私にはそれが直接胸に届く。
落ち着け、落ち着かないと、魔力が滲む。
「……あ、あの、その、眼鏡を、返してい……」
「……」
フェルドラク様は答えなかった。ただ、金の瞳がかすかに揺れていて、耳の先が、ほんの少しだけ赤かった。
(……なんで、耳が)
立ち上がったフェルドラク様が眼鏡を差し出して、受け取ろうと手を伸ばした瞬間に、指先が触れた。
ほんの一瞬なのに、やけに熱い。胸の奥で、水の魔力がまたざわりと揺れた。
これって、フェルドラク様の「熱」なの? それとも——。
慌てて眼鏡をかけ直すと、魔力が落ち着いた。
フェルドラク様が、目の前に立っていた。
整った顔立ちに、いつもの無表情。
けれど今日は——その横顔が、どこかいつもと違う気がした。
「……次から、前を見て歩け」
それだけ言って踵を返す背中を、私はしばらく見送っていた。
「こんな顔をしていたのか」って、どういう意味だろう。
頬に手を当てると、じんわりと熱かった。
(……ダメだ)
これは絶対、ダメなやつだ。
授業が終わり、西の空が橙色に染まり始める頃。
貴族専用サロンは、夕暮れの光の中に静かに佇んでいた。
磨き上げられた木製の床。暖炉の前に置かれた、深い緑色のソファ。
壁一面に並ぶ書棚と、細工の凝ったシャンデリア
。窓の外に広がる学園の庭が、夕日を受けて、橙色に染まっている。
セドリックが、ソファにどっかりと腰を下ろしながら、タルトを頬張っていた。
「……アル。今日、また特待生の子のとこ行ってたろ」
「……たまたまだ」
「嘘つけ! ハンスから聞いたぞ! 眼鏡拾ったって!」
アルフォンスは、窓の外に視線を逃がした。
夕日が、庭の木々を赤く染めている。
(……こんな顔をしていたのか)
眼鏡を外した瞬間の、あの顔が頭から離れない。
眼鏡をかけている時とは、全然違う顔だった。
ぼんやりとした視界の中で、こちらを見上げていた。少し困ったような、それでいて——
(……可愛かった)
「……セド」
「なんだよ」
「眼鏡を外したら、人は変わるものか」
セドリックが、タルトを吹き出した。
「っ……! な、なんで急にそんなこと聞くの!?」
「……なんでもない」
「なんでもなくないだろ!」
アルフォンスは構わず、静かに続けた。
「……もう一度、見たい」
「……え?」
「眼鏡を外した顔を。もう一度」
長い沈黙。
暖炉の火が、ぱちりと小さく爆ぜた。
セドリックが、珍しく言葉を失っていた。
「……アル、お前」
「……なんでもない。忘れろ」
「いや忘れられるか!」
セドリックの絶叫が、夕暮れのサロンに響き渡った。 窓の外で、鳥が一羽、橙色の空を横切っていく。
ハンスは静かに、四杯目の紅茶を注いだ。
その湯気が、夕暮れの光の中で、ゆらりと揺れた。
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