第5話 今日初めて名前で呼ばれた あの日から 前半
廊下で眼鏡を落としてから、数日が経ったある朝のことだ。
目が覚めると、北方寄宿舎の小さな窓から朝の光が差し込んでいた。
石造りの古い建物で、外壁には蔦が絡まっている。
特待生に割り当てられた最上階の角部屋は、決して広くはないけれど、窓から中庭の木々が見える。
簡素なベッドと小さな机。
本棚には故郷から持ってきた数冊の本。窓辺には、父様が餞別にくれた小さな木彫りの置物が一つ。
今日も、その置物に触れてから起き上がった。
小さな鏡の前に座って、亜麻色の髪を整える。くしで梳かして、無造作に束ねる。
きちんと結えば少しは見栄えがいいのかもしれないけれど、目立ちたくない。
できるだけ地味に、できるだけ存在感を消すように。
それから、机の上に置いてある眼鏡を手に取った。
黒縁の、少し古い作りの眼鏡。かけると、体の奥がすっと落ち着く感覚がある。
次に、手首にブレスレットを通した。ゼノの声が、耳の奥で響く。
「眼鏡だけじゃ心もとないだろ。このブレスレットをつけておけば、並の魔術師にはお前の底が見えない。眼鏡と合わせりゃ二重防御だ」
(……大丈夫。今日も、隠せてる)
鏡の中の自分を確認する。黒縁眼鏡に、無造作に束ねた亜麻色の髪。
猫背気味に俯いた、地味な平民の特待生。
(……よし)
木々の緑が少しずつ濃くなり始め、朝の風がやわらかく温かくなってきた。
入学から一ヶ月半が経って、窓から差し込む光が春よりも少しだけ強くなっていた。
私は部屋を出た。一階の食堂で、特待生用の朝食を受け取る。
黒パンと温かいスープ、それから小さな林檎が一つ。
北方寄宿舎の食堂は、こじんまりとした静かな空間だ。特待生は全学年合わせても十名前後しかいないから、朝食の時間帯でも人はまばらで、話し声もほとんど聞こえない。
互いに牽制しているのか、それとも単純に話す必要がないのか。
この静かな食堂が、毎朝の日課になっていた。
スープを飲み干して、林檎を最後にかじってから席を立った。
北方寄宿舎を出ると、石畳の小道に朝の光が差し込んでいた。
木々の間から差し込む光が足元を白く染めて、風がやわらかく頬をなでていく。
最近、変わったことが一つある。フェルドラク様が、「行け」と言わなくなった。
廊下で鉢合わせしても、ただ通り過ぎるだけになった。
それだけのことなのに。
(……なんで、こんなに気になるんだろう)
通り過ぎる瞬間、あの「熱」がいつもより少しだけ穏やかな気がして、そのたびに胸の奥で水の魔力がざわりと揺れる。
本校舎の扉を押して、廊下に入ったその瞬間。
廊下の角を曲がったところで、じりりと「熱」が届いて――顔を上げると、漆黒の制服が目の前にあった。(……っ!)
逃げようとした。足が動きかけた。
でも今日も、フェルドラク様はただ金の瞳を一瞬だけこちらに向けて、何も言わずに通り過ぎた。
(……え)
背中が遠ざかっていく。漆黒の制服が、廊下の光の中に消えていく。
(……なんだったんだろう)
私は廊下の壁に背を押しつけながら、手首のブレスレットにそっと触れた。胸の奥で、水の魔力がまだざわざわと揺れている。
(……落ち着け。落ち着け、リアネ)
「こんな顔をしていたのか」
あの言葉が、まだ頭から離れない。どういう意味だったんだろう。あの時、どんな顔をしていたんだろう。(……考えても仕方ない)
午後の授業中、ふと視線を感じた。
最前列の中央の席から、カトリーヌ様がフェルドラク様の方を見ていた。
いつものことだ。珍しくない。
でも今日は――フェルドラク様が廊下側の私の席の近くを通った瞬間、カトリーヌ様の目が、ほんのわずかに細くなった気がした。
そのまま隣の令嬢に、何かを耳打ちする。
令嬢がこちらに視線を向けて、すぐに逸らした。
(……気のせいかな)
眼鏡を押し上げながら、私は視線を手元のノートに落とした。
そう思いながらも、手首のブレスレットが、なぜかひんやりと冷たかった。
(……今日も、目立たず。静かに。それだけでいい)
昼休み。寮の食堂でライ麦パンと野菜のスープを受け取ってから、私はいつものように旧図書室へと向かった。
石造りの廊下を歩くと、窓の外の木々が風に揺れているのが見える。
曇り空から差し込む光は柔らかく、廊下の石畳をほんのりと白く染めていた。
旧図書室の重い扉を押すと、ひんやりとした空気と、古い紙と木のにおいが出迎えた。
今日もテオ様がいた。高い梯子の上で、古文書を広げたまま微動だにしない。
窓からの光を受けた銀髪が、曇り空の中でも冷たく輝いている。細い指先が、静かにページをめくっていた。眼鏡の奥の知的な双眸は、文字の一行一行を丁寧に追っていて、それ以外のものは何も見ていない。
整った横顔に、感情の揺らぎはない。
まるで、この図書室ごと時間が止まっているみたいだ。
「……」
私は会釈だけして、いつもの窓際の床に腰を下ろし、ライ麦パンをかじり始めた。
ここの静けさが好きだ。誰も話しかけてこない。
誰も視線を向けてこない。ただ、ページをめくる音と、風が窓を揺らす音だけが、静かに流れていく。
(……あの「熱」も、ここには届かない)
胸の奥が、少しだけ凪いでいく気がした。食事を終えて、私はふと本棚に目を向けた。旧図書室には、普通の図書室には置いていない古い文献がたくさんある。最近はそれを少しずつ読むのが、昼休みの楽しみになっていた。
(……あの棚の上の方に、水系魔法の古い文献があった気がする)
背伸びをして手を伸ばしてみたけれど、届かない。梯子を借りようかと思ったけれど、テオ様が使っている。
(……少しだけなら、いいか)
(……眼鏡はある。でも、術式を使えば水の魔力の揺らぎが出てしまう)
周囲を確認してから、私はそっと指先を持ち上げた。ほんの少しだけ、水の魔力を伸ばす。
目に見えないほど薄い水の膜が、空気に溶けるように広がって、棚の上の本の背表紙をそっと撫でた。引き寄せる。
ゆっくり、ゆっくり。本が、静かに棚の端へと滑り出してきた。
(……よし)
手のひらに、ずっしりとした重みが乗る。
「……今、術式を使ったな」
テオ様の声が、静かに降ってきた。
「……っ!」
私は固まった。テオ様は梯子の上で、本から目を上げることなく、淡々と言う。
「……水属性か」
「み、見ていたんですか!?」
「見ていない。水の魔力は、独特の揺らぎがある」
(……やっぱり、気づかれた)
私は本を胸に抱えたまま、どう答えればいいかわからなくて、ただ立ち尽くしていた。
テオ様が、ゆっくりと梯子を降りてきた。床に降り立つと、思っていたより背が高い。
細い体に、整然とした制服。銀髪が肩のあたりで緩く揺れて、静かにこちらを向いた。
広げていた古文書を静かに閉じる。その表紙に目が止まった瞬間、私の心臓が小さく跳ねた。
(……アクアニア魔導公国 水系術式体系 古代記録)
「……テオ様、それは」
「アクアニアの古文書だ」
「……なぜ、帝国の学院でアクアニアの古文書を」
自国の古文書なら、アクアニアで読めばいいはずだ。なぜここで。テオ様は少し間を置いてから、静かに答えた。
「……ここにしかない記録がある」
それ以上は言わなかった。
でも、その目が一瞬だけ遠くを見た気がした。
故郷を思うような、それでいて何かを探しているような。
テオ様が、静かにこちらを向いた。
「……この文書に、似た魔力の記録がある」
「……似た、魔力」
「水属性の中でも、特殊な質を持つ魔力だ。密度が高く、感情と深く連動する。共鳴系の特性を持ちながら、単独でも高い出力を持つ――」
テオ様が、そこで言葉を切った。
眼鏡の奥の瞳が、静かにこちらを見ている。
「……アクアニアを、知っているか」
(……っ)
胸の奥で、何かがざわりと揺れた。
母様の、故郷の国の名前。
「……少し、だけ」
絞り出すように答えると、テオ様は
「そうか」
とだけ言って、また本に視線を戻した。
「……テオ様は、その魔力を探しているんですか」
しばらくの沈黙。
「……探している、というより」
テオ様の細い指が、古文書の表紙をそっと撫でた。
「……確かめたいことがある。それだけだ」
それ以上は、聞けなかった。ただ、眼鏡の奥の瞳が、ほんのわずかに――静かに光った気がした。
(……何を、知っているんだろう)
私は抱えた本をぎゅっと握りながら、窓の外の曇り空を見つめた。胸の奥で、水の魔力がまだ、静かに揺れていた。
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