表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/21

第5話 今日初めて名前で呼ばれた あの日から 前半



廊下で眼鏡を落としてから、数日が経ったある朝のことだ。

目が覚めると、北方寄宿舎の小さな窓から朝の光が差し込んでいた。

石造りの古い建物で、外壁には蔦が絡まっている。


特待生に割り当てられた最上階の角部屋は、決して広くはないけれど、窓から中庭の木々が見える。

簡素なベッドと小さな机。

本棚には故郷から持ってきた数冊の本。窓辺には、父様が餞別にくれた小さな木彫りの置物が一つ。

今日も、その置物に触れてから起き上がった。

小さな鏡の前に座って、亜麻色の髪を整える。くしで梳かして、無造作に束ねる。

きちんと結えば少しは見栄えがいいのかもしれないけれど、目立ちたくない。

できるだけ地味に、できるだけ存在感を消すように。

それから、机の上に置いてある眼鏡を手に取った。

黒縁の、少し古い作りの眼鏡。かけると、体の奥がすっと落ち着く感覚がある。

次に、手首にブレスレットを通した。ゼノの声が、耳の奥で響く。


「眼鏡だけじゃ心もとないだろ。このブレスレットをつけておけば、並の魔術師にはお前の底が見えない。眼鏡と合わせりゃ二重防御だ」


(……大丈夫。今日も、隠せてる)

鏡の中の自分を確認する。黒縁眼鏡に、無造作に束ねた亜麻色の髪。

猫背気味に俯いた、地味な平民の特待生。


(……よし)

木々の緑が少しずつ濃くなり始め、朝の風がやわらかく温かくなってきた。

入学から一ヶ月半が経って、窓から差し込む光が春よりも少しだけ強くなっていた。


私は部屋を出た。一階の食堂で、特待生用の朝食を受け取る。

黒パンと温かいスープ、それから小さな林檎が一つ。

北方寄宿舎の食堂は、こじんまりとした静かな空間だ。特待生は全学年合わせても十名前後しかいないから、朝食の時間帯でも人はまばらで、話し声もほとんど聞こえない。

互いに牽制しているのか、それとも単純に話す必要がないのか。

この静かな食堂が、毎朝の日課になっていた。

スープを飲み干して、林檎を最後にかじってから席を立った。


北方寄宿舎を出ると、石畳の小道に朝の光が差し込んでいた。

木々の間から差し込む光が足元を白く染めて、風がやわらかく頬をなでていく。

最近、変わったことが一つある。フェルドラク様が、「行け」と言わなくなった。

廊下で鉢合わせしても、ただ通り過ぎるだけになった。

それだけのことなのに。


(……なんで、こんなに気になるんだろう)

通り過ぎる瞬間、あの「熱」がいつもより少しだけ穏やかな気がして、そのたびに胸の奥で水の魔力がざわりと揺れる。


本校舎の扉を押して、廊下に入ったその瞬間。

廊下の角を曲がったところで、じりりと「熱」が届いて――顔を上げると、漆黒の制服が目の前にあった。(……っ!)


逃げようとした。足が動きかけた。

でも今日も、フェルドラク様はただ金の瞳を一瞬だけこちらに向けて、何も言わずに通り過ぎた。


(……え)

背中が遠ざかっていく。漆黒の制服が、廊下の光の中に消えていく。


(……なんだったんだろう)

私は廊下の壁に背を押しつけながら、手首のブレスレットにそっと触れた。胸の奥で、水の魔力がまだざわざわと揺れている。


(……落ち着け。落ち着け、リアネ)


「こんな顔をしていたのか」

あの言葉が、まだ頭から離れない。どういう意味だったんだろう。あの時、どんな顔をしていたんだろう。(……考えても仕方ない)


午後の授業中、ふと視線を感じた。

最前列の中央の席から、カトリーヌ様がフェルドラク様の方を見ていた。

いつものことだ。珍しくない。

でも今日は――フェルドラク様が廊下側の私の席の近くを通った瞬間、カトリーヌ様の目が、ほんのわずかに細くなった気がした。


そのまま隣の令嬢に、何かを耳打ちする。

令嬢がこちらに視線を向けて、すぐに逸らした。


(……気のせいかな)

眼鏡を押し上げながら、私は視線を手元のノートに落とした。

そう思いながらも、手首のブレスレットが、なぜかひんやりと冷たかった。


(……今日も、目立たず。静かに。それだけでいい)

昼休み。寮の食堂でライ麦パンと野菜のスープを受け取ってから、私はいつものように旧図書室へと向かった。

石造りの廊下を歩くと、窓の外の木々が風に揺れているのが見える。

曇り空から差し込む光は柔らかく、廊下の石畳をほんのりと白く染めていた。


旧図書室の重い扉を押すと、ひんやりとした空気と、古い紙と木のにおいが出迎えた。

今日もテオ様がいた。高い梯子の上で、古文書を広げたまま微動だにしない。


窓からの光を受けた銀髪が、曇り空の中でも冷たく輝いている。細い指先が、静かにページをめくっていた。眼鏡の奥の知的な双眸は、文字の一行一行を丁寧に追っていて、それ以外のものは何も見ていない。


整った横顔に、感情の揺らぎはない。

まるで、この図書室ごと時間が止まっているみたいだ。


「……」

私は会釈だけして、いつもの窓際の床に腰を下ろし、ライ麦パンをかじり始めた。

ここの静けさが好きだ。誰も話しかけてこない。

誰も視線を向けてこない。ただ、ページをめくる音と、風が窓を揺らす音だけが、静かに流れていく。


(……あの「熱」も、ここには届かない)

胸の奥が、少しだけ凪いでいく気がした。食事を終えて、私はふと本棚に目を向けた。旧図書室には、普通の図書室には置いていない古い文献がたくさんある。最近はそれを少しずつ読むのが、昼休みの楽しみになっていた。


(……あの棚の上の方に、水系魔法の古い文献があった気がする)

背伸びをして手を伸ばしてみたけれど、届かない。梯子を借りようかと思ったけれど、テオ様が使っている。


(……少しだけなら、いいか)

(……眼鏡はある。でも、術式を使えば水の魔力の揺らぎが出てしまう)


周囲を確認してから、私はそっと指先を持ち上げた。ほんの少しだけ、水の魔力を伸ばす。

目に見えないほど薄い水の膜が、空気に溶けるように広がって、棚の上の本の背表紙をそっと撫でた。引き寄せる。


ゆっくり、ゆっくり。本が、静かに棚の端へと滑り出してきた。


(……よし)

手のひらに、ずっしりとした重みが乗る。


「……今、術式を使ったな」

テオ様の声が、静かに降ってきた。


「……っ!」

私は固まった。テオ様は梯子の上で、本から目を上げることなく、淡々と言う。


「……水属性か」


「み、見ていたんですか!?」


「見ていない。水の魔力は、独特の揺らぎがある」


(……やっぱり、気づかれた)

私は本を胸に抱えたまま、どう答えればいいかわからなくて、ただ立ち尽くしていた。

テオ様が、ゆっくりと梯子を降りてきた。床に降り立つと、思っていたより背が高い。

細い体に、整然とした制服。銀髪が肩のあたりで緩く揺れて、静かにこちらを向いた。

広げていた古文書を静かに閉じる。その表紙に目が止まった瞬間、私の心臓が小さく跳ねた。


(……アクアニア魔導公国 水系術式体系 古代記録)


「……テオ様、それは」


「アクアニアの古文書だ」


「……なぜ、帝国の学院でアクアニアの古文書を」


自国の古文書なら、アクアニアで読めばいいはずだ。なぜここで。テオ様は少し間を置いてから、静かに答えた。


「……ここにしかない記録がある」


それ以上は言わなかった。

でも、その目が一瞬だけ遠くを見た気がした。

故郷を思うような、それでいて何かを探しているような。

テオ様が、静かにこちらを向いた。


「……この文書に、似た魔力の記録がある」


「……似た、魔力」


「水属性の中でも、特殊な質を持つ魔力だ。密度が高く、感情と深く連動する。共鳴系の特性を持ちながら、単独でも高い出力を持つ――」


テオ様が、そこで言葉を切った。

眼鏡の奥の瞳が、静かにこちらを見ている。


「……アクアニアを、知っているか」


(……っ)


胸の奥で、何かがざわりと揺れた。

母様の、故郷の国の名前。


「……少し、だけ」


絞り出すように答えると、テオ様は

「そうか」

とだけ言って、また本に視線を戻した。


「……テオ様は、その魔力を探しているんですか」


しばらくの沈黙。

「……探している、というより」


テオ様の細い指が、古文書の表紙をそっと撫でた。

「……確かめたいことがある。それだけだ」


それ以上は、聞けなかった。ただ、眼鏡の奥の瞳が、ほんのわずかに――静かに光った気がした。


(……何を、知っているんだろう)

私は抱えた本をぎゅっと握りながら、窓の外の曇り空を見つめた。胸の奥で、水の魔力がまだ、静かに揺れていた。




※noteでも掲載中です。noteが最新話となります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ