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第5話 今日初めて名前で呼ばれた あの日から 後半


翌日の放課後。

旧図書室を出ると、廊下の石畳が夕方前の光を受けてきらきらと輝いていた。曇っていた空がいつの間にか晴れていて、西の窓から差し込む光が廊下を斜めに切っている。


(……綺麗だな)

思わず立ち止まって、その光を眺めた。故郷の農村では、夕方になるとこんな光が麦畑を照らしていた。父様が鍬を担いで帰ってくる時間で、母様が夕食の支度を始める時間で。


(……懐かしい。あの頃は、ただ光の中にいるだけでよかった)

胸の奥で、水の魔力がほんのりと揺れた。感情と連動する、この魔力の癖が、最近少しだけ扱いやすくなってきた気がする。


(……テオ様に気づかれたせいかな。隠していたつもりなのに、あっさり見抜かれてしまった)

旧図書室での出来事が頭をよぎる。「アクアニアの古文書に、似た魔力の記録がある」というあの言葉が、ずっと引っかかっていた。

テオ様は何を知っているんだろう。母様のことを、どこまで――


「……っ」

廊下の角を曲がった瞬間、誰かと正面からぶつかりそうになって、慌てて足を止めると、目の前に漆黒の制服が見えた。


(……また、鉢合わせした。どうしてこの人はいつも、こんな場所にいるんだろう)

フェルドラク様だった。

セドリック様もハンス様もいない、珍しく一人で廊下を歩いていたようだった。


(……行け、って言われる前に道を譲ろう。それだけでいい。それだけでいいから、落ち着け)

私はそっと道を譲ろうとした。

いつものように端に寄って、視線を落として、通り過ぎるのを待つ。

フェルドラク様が、私の横を通り過ぎていく。


一歩。

二歩。


(……今日も、何も言わないんだ。そりゃそうだ。私はただの平民の特待生で、声をかける理由なんて何もない)


そう思った、その瞬間。



「……リアネ」


背中に、静かな声が落ちてきた。


私は、固まった。


(……え。今、名前を……。私の、名前を……?)

振り返ることができなかった。足が、石畳に縫いつけられたみたいに動かない。


(……落ち着け、落ち着け、落ち着けないっ。どうして今、こんなに魔力が揺れるんだ。ブレスレットがあるのに、眼鏡があるのに)


胸の奥で、水の魔力がざわりと大きく揺れていた。


「……っ」

ブレスレットに触れると、手が微かに震えていた。

背後で、静かな足音が遠ざかっていく。それだけだった。ただそれだけなのに、どうして。


(……どうして、こんなに)

振り返ると、廊下の向こうにフェルドラク様の背中が見えた。漆黒の制服が、夕方前の光の中をまっすぐに歩いていく。振り返らない。何も言わない。ただ、歩いていく。


門柱の前で、ぎこちなく名乗ってくれたあの朝のことを思い出した。あの朝、去り際にフェルドラク様が言っていた。


「……名前で、呼ぶ」と。


あの時は、答えられなかった。なのに今日、本当に、名前を呼ばれた。


(……ダメだ。これは絶対ダメなやつだ。目立たず、静かに、それだけでいいはずなのに)

眼鏡を押し上げながら石畳を見つめると、夕方前の光が足元できらきらと揺れている。胸の奥の魔力が、ぽかぽかと温かいのは――

ふと、廊下の向こうに視線を感じた。


(……え?)

遠くの廊下の角に、プラチナブロンドの髪が見えた気がして、次の瞬間、そこには誰もいなかった。


(……気のせいかな。でも、なんで胸がざわつくんだろう)

手首のブレスレットが、ひんやりと冷たかった。


(……絶対に、ダメだ)




授業が終わり、西の空が橙色に染まり始める頃。

セドリックとハンスを先に行かせて、アルフォンスは一人で廊下に残っていた。

窓の外に広がる学院の庭が、夕日を受けてオレンジ色に染まっている。

廊下の石畳が、斜めに差し込む光を受けてきらきらと輝いていた。

静かだった。誰もいない。

アルフォンスは自分の掌を見下ろした。

今日、名前を呼んだ。


「……リアネ」

声に出すと、また胸の奥で何かが動いた。あの子が固まるのが、背中越しにわかった。足音が止まった。息をのんだ気配がした。それだけで、胸の奥の「火」が不思議と静かになった。


振り返らなかった。振り返ったら、きっとうまく話せなかったから。だから、歩いた。ただまっすぐに、歩いた。


(……呼べた)


掌を、ゆっくりと握る。


門柱の前で名前を教えてもらったあの朝、そう言ったのは自分だった。

「名前で、呼ぶ」と。


一方的に言って、そのまま行ってしまった。

返事も聞かなかった。それでも、ずっと覚えていた。

いつもは感情が揺れると「火」が暴れる。なのに今は、不思議と穏やかだった。

廊下の向こうで、鳥が一羽、橙色の空を横切っていく。

アルフォンスはその軌跡を目で追いながら、あの朝のことを思い出した。

黒縁眼鏡をかけて、亜麻色の髪を無造作に束ねて、猫背気味に廊下の端を歩く小さな背中。

いつも視線を落として、存在感を消すように歩いている。誰も気にしない。誰も見ない。


なのに。


眼鏡が落ちた瞬間に見えたあの顔が、頭から離れない。眼鏡の奥に隠れていた顔。あんな顔をしていたのかと、思わず声に出てしまった。隠していたのだろう。わざと地味に、わざと目立たないように。


(……なぜ、隠す)

答えは、まだわからない。

振り返ってもらえるように、呼びたい。名前を呼んだら、あの子がこちらを向いてくれるような。眼鏡の奥の瞳が、ちゃんと自分を見てくれるような。そういう呼び方が、したい。


掌を開いて、また閉じた。


(……もう少しだけ、近づく)




※noteでも掲載中です。noteが最新話となります。

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