第6話「今日も、旧図書室で」前半
昼休み。
寮の食堂でライ麦パンを受け取ってから、私はいつものように旧図書室へと向かった。
今日もテオ様がいた。高い梯子の上で、古文書を広げたまま微動だにしない。窓からの光を受けた銀髪が、今日は少し明るく輝いている。昨日より天気がいいのかもしれない。
「……」
私は会釈だけして、いつもの窓際の床に腰を下ろした。ライ麦パンをかじりながら、持ってきた本を開く。ページをめくる音だけが、静かな図書室に響いていた。この場所に来るようになってから、昼休みが少しだけ楽になった。人の視線がない。カトリーヌ様の笑顔もない。ただ、古い紙と埃の匂いと、テオ様の気配だけがある。
しばらく本を読んでいると、テオ様が梯子をゆっくりと降りてきた。古文書を静かに閉じて、眼鏡の奥の瞳をこちらに向ける。
「……一つ、聞いていいか」
「……は、はい」
「母親のことを、どこまで知っている」
私は固まった。
胸の奥で、水の魔力がざわりと揺れる。落ち着け。落ち着かないと、眼鏡があっても滲み出てしまう。深く息を吸って、手首のブレスレットにそっと触れた。
なぜか、その瞬間だけ「……リアネ」という声が頭をよぎった。あの廊下で、背中越しに聞こえたあの声。関係ない。今は関係ない。
テオ様は答えを待たずに続けた。
「アクアニアに、一人の魔女の記録がある。公的な文書からは消えている。だが、王家に伝わる文書には残っていた。水魔法の頂点に立ち、感情と魔力が完全に連動していた魔女の記録が。怒れば嵐が起き、泣けば湖が溢れた。その魔女は強すぎる力を恐れた者たちに追われ、国を去った」
「……なぜ、その文書が、ここに」
言葉は、口をついて出ていた。聞くつもりはなかったのに。
「私が持ってきた。アクアニア王家に伝わる文書だ。公文書館からは消えている。……なぜこの学院に来たのか、その答えでもある」
短く、それだけ言った。
細い指が、古文書の表紙を静かに撫でた。梯子の上から見ていたはずなのに、いつの間にかページが細かく付箋で仕切られていた。この人は、ずっとここで調べていたのだ。人目につかない、誰も来ないこの旧図書室で。
「密度が高く、感情と深く連動する水属性。共鳴系の特性を持ちながら、単独でも規格外の出力を持つ。……君の魔力と、酷似している」
私は、息をのんだ。
「……それが、確かめたいことですか」
「……ああ。そして、もう一つ」
テオ様が古文書を閉じた時、表紙の紋章が一瞬だけ見えた。見覚えがある紋章だった。母様が大切にしていた古い布に、同じ模様が刺繍されていた。幼い頃、母様がその布を引き出しの奥に隠すのを見たことがある。「これは大切なものだから」と、それだけ言って、それ以上は何も教えてくれなかった。
(……あれは)
「……テオ様、その紋章は」
「さあ、どうだろうな」
またはぐらかされた。でも、眼鏡の奥の瞳が、ほんのわずかに揺れた気がした。
(……テオ様は、ただの留学生じゃないのかもしれない)
私は抱えた本をぎゅっと握りながら、窓の外の空を見つめた。初夏の風が、旧図書室の古い窓をわずかに揺らしていく。胸の奥で、水の魔力がまだ、静かに揺れていた。
昼休みが終わる少し前、私は旧図書室を出た。
廊下に出ると、昼の光が石畳を白く染めていた。窓の外では木々が風に揺れていて、初夏の空気がほんのりと温かい。
(……テオ様の問いに、答えられなかった)
母親のことを、どこまで知っている。
あの問いが、ずっと頭の中に残っていた。
答えようとしたのに、言葉が出てこなかった。
母様がアクアニア出身だということは、知っていた。かつてそこで最強の魔術師と呼ばれていたことも。
でも、それ以上のことは何も知らない。母様は自分の過去をほとんど話さなかった。
聞いても、ただ静かに微笑むだけだった。
(……でも、伝説の魔女、なんて)
水魔法の頂点に立ち、感情と魔力が完全に連動していた魔女。
怒れば嵐が起き、泣けば湖が溢れた。そんな記録が残っているなんて、知らなかった。
(……そして、あの紋章は)
古文書の表紙に刻まれていたあの紋章。母様の古い布に、同じ模様が刺繍されていた。
「これは大切なものだから」と言って、引き出しの奥に隠していた母様。
それ以上は何も教えてくれなかった。
(……母様のことを、テオ様はどこまで知っているんだろう)
胸の奥で、水の魔力がじわりと揺れた。
落ち着け。ここは廊下だ。眼鏡はある。ブレスレットもある。大丈夫。
そう自分に言い聞かせながら廊下の角を曲がった、その時。
「……あら」
静かな声が、前方から落ちてきた。
プラチナブロンドの髪が、廊下の光を受けてきらりと輝いている。カトリーヌ・ド・ルミエール様だった。取り巻きの令嬢たちを引き連れて、こちらへゆっくりと歩いてくる。
完璧な笑顔だった。けれど、その目は笑っていない。
「旧図書室から出てこられたの? 珍しいですわね」
「……は、はい。少し本を読んでいました」
「まあ」
カトリーヌ様が、ほんのわずかに首を傾けた。令嬢たちの視線が、一斉に私に集まる。
「ねえ、少しよろしくて?」
断れる雰囲気ではなかった。
カトリーヌ様が、令嬢たちに目配せすると、さっと廊下の端に移動して、私との距離を詰めた。やわらかい声のまま、笑顔のまま、それでも確実に、逃げ場をなくしていく。
「フェルドラク様と、最近とても親しいのですね」
「……っ、違います。ただ廊下で会うことがあるだけで」
「そうかしら」
カトリーヌ様の口元が、わずかに弧を描いた。
「ねえ、特待生さん。わたくし、あなたのことを心配しているの。本当よ」
「……心配、ですか」
「ええ。フェルドラク様はとても特別なお方。ソル・グラニア帝国で最も強い魔力を持ち、フェルドラク侯爵家の次期当主。そのお方が平民の特待生に構うのは……周りから見れば、とても不自然なことなの。わかる?」
「……」
「あなたが傷つくのが心配なのよ。本当に。貴族の世界というのはね、魔力の強さだけじゃないの。家柄、血筋、格式――全部が絡み合っている。どれだけ魔力が優れていても、平民は平民。それがこの帝国の仕組みですわ」
笑顔のまま言った。やわらかい声のまま言った。
でもその言葉の一つ一つが、細い針のように、胸の奥に刺さってくる。
「だから、わたくしからのお願いよ。フェルドラク様と、必要以上に親しくしないで。あの方のためにも。あなた自身のためにも」
「……」
「もちろん、強制はしませんわ。ただ、これはわたくしの親切心から申し上げているだけ」
親切心。
その言葉が、耳の奥に残った。
「……わかりました」
絞り出すように答えると、カトリーヌ様はにっこりと微笑んだ。
「よかった。賢い方ね」
それだけ言って、令嬢たちを引き連れてゆっくりと通り過ぎていく。廊下に残された香りが、甘くて、冷たかった。
(……親切心)
私は廊下の壁に背を預けながら、手首のブレスレットにそっと触れた。
わかっていた。あれは親切じゃない。でも何が違うのかうまく言葉にできなくて、ただ、胸の奥がじわりと痛かった。
(……テオ様の問いにも、カトリーヌ様の言葉にも、今日は何も答えられなかった)
眼鏡を押し上げながら、私は教室へと歩き出した。手首のブレスレットが、静かに冷たさをたたえていた。
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