第6話「今日も、旧図書室で」後半
授業が終わり、廊下に人が溢れ始める頃。
アルフォンスは教室を出て、いつものように廊下の端を歩いていた。
セドリックが隣でタルトの話をしている。ハンスが二人の後ろを静かについてくる。
いつもと同じ、放課後の廊下。
なのに今日は、なぜか視線が落ち着かなかった。
(……どこにいる)
探しているつもりはなかった。ただ、気づいたら廊下の先を見ていた。
「……ん?」
セドリックが、ふと立ち止まった。
「……あ、あそこ」
廊下の向こう。旧図書室の方から出てきたのだろう、亜麻色の髪が見えた。
次の瞬間、アルフォンスの足が自然に止まった。
取り巻きの令嬢たちを引き連れて、リアネの前に立っていた。笑顔のまま、何かを言っている。カトリーヌ・ド・ルミエールだった。
距離があるから声は聞こえない。
でも、リアネの肩が、わずかに内側に縮んでいくのがわかった。俯いて、視線を落として、それでも真っ直ぐに立っていようとしている。
(……何を言っている)
やりとりが続く中で、リアネが一度だけ眼鏡を押し上げた。
その仕草を見た瞬間、アルフォンスの胸の奥で何かが動いた。
廊下で眼鏡が飛んだ日のことを、また思い出した。眼鏡のない顔。あの、こちらを見上げていた顔。
今はちゃんとかけている。
いつも通り、何かを抱えたまま、あの子は今日も一人で立っている。
「……アル」
セドリックが、小声で言った。
「……見てるじゃん。めちゃくちゃ見てるじゃん」
「……うるさい」
「いや、見てるじゃん!」
アルフォンスは答えなかった。
廊下の向こうで、カトリーヌ様が最後に一言だけ言って、令嬢たちを引き連れて通り過ぎていく。
リアネが、壁に背を預けた。
手首のブレスレットに、そっと触れている。眼鏡を押し上げてから、小さく息を吐いた。
(……大丈夫か)
駆け寄りたかった。
でも廊下には人が溢れていて、自分が動けば必ず目立つ。
そしてそれは、あの子がいちばん嫌がることだとわかっていた。
(……何を言われたんだろう)
「……アル、指」
セドリックが、小声で言った。
「……手袋まで焦げてる。いつもと違う」
アルフォンスは自分の手を見た。革手袋の先が、ほんのわずかに黒くなっていた。焦げた布の匂いが、かすかに漂っている。
熱が漏れること自体は、いつものことだった。廊下を歩けば周囲の空気が温まる。隣に立てば誰もが熱を感じる。それはもう、アルフォンスにとって当たり前のことだった。
でも今日は違った。熱が外に広がるのではなく、内側へ、内側へと向かって燃えていた。だから気づかなかった。手袋が焦げるまで、わからなかった。
手袋を握り直した。熱を、丁寧に、内側に押し込める。
(……落ち着け)
廊下の向こうで、リアネがようやく歩き出した。
眼鏡を押し上げながら、俯きがちに、でも前を向いて。
(……あの眼鏡の奥に、何を隠しているんだろう)
そう思ったら、なぜか指先の熱が、少しだけ静まった。
翌日の放課後。
貴族生徒が暮らす南方寄宿舎の、最上階の角部屋。夕暮れの光が窓から斜めに差し込んで、磨き上げられた木製の床を金色に染めていた。
セドリックが、ソファにどっかりと腰を下ろしながらタルトを頬張っている。アルフォンスは窓際に立ったまま、窓枠に肩を預けて庭を眺めていた。
昨日の廊下の光景が、まだ頭から離れない。
カトリーヌ・ド・ルミエールが、やわらかい声で何かを言っていた。リアネの肩が縮んでいった。眼鏡を押し上げて、それでも前を向いていた。
(……何を言われたんだろう)
「……ねえアル」
セドリックが、タルトを置いて口を開いた。
「昨日のカトリーヌ様の件、何を言ってたんだろうな」
「……さあな」
声には出さなかったが、頭の中ではずっと考えていた。
何を言っていたのか。あの笑顔の奥に、何があるのか。
リアネが壁に背を預けて、ブレスレットに触れていた。その手が、少しだけ震えていた気がした。
気がした、だけかもしれない。距離があったから、よく見えなかった。
でも、目が離せなかった。
「……アル、お前どうする気だ?」
「……まだ、わからない」
本当のことだった。どうすればいいのか、うまく言葉にならない。
近づきたい。でも近づくことで、あの子が傷つくかもしれない。自分が動けば必ず目立つ。そしてそれは、あの子がいちばん嫌がることだとわかっていた。
(……俺が近づくこと自体が、脅威なのか)
暖炉の火が、ぱちりと小さく爆ぜた。
ハンスが静かに口を開いた。
「……アル様。一つ、ご報告がございます」
「……なんだ」
「リアネ様の昼休みの件でございますが」
アルフォンスの視線が、窓の外から動いた。
「……旧図書室に通っていらっしゃるようで。テオ・アクアニア様も同じ時間帯に旧図書室を使っていらっしゃるようで」
しばらくの沈黙。
「……テオと、一緒にいるのか」
「……詳しくは存じません。ただ、同じ場所にいることは確かなようで」
長い沈黙。
暖炉の火が、またひとつ爆ぜた。
アルフォンスの金の瞳が、わずかに細くなった。
(……テオ・アクアニア)
首席入学。アクアニア出身の氷魔法の天才。感情を表に出さない。毒舌だ。
(……テオと、一緒に)
何かが、胸の奥で静かに燃えた。怒りではない。でも怒りに近い何かだった。
名前のつけられない、じわりと広がる熱だった。
セドリックが、アルフォンスの顔をじっとうかがった。
「……アル、お前、めちゃくちゃ怖い顔してるぞ」
「……なんでもない」
「なんでもなくないだろ。……いつもと違う顔してるぞ、お前」
アルフォンスは答えなかった。ただ、指先をわずかに握った。
手袋の先が、ほんのわずかに熱を帯びた。気づいて、丁寧に押し込める。落ち着け。ここはサロンだ。
(……どうする気だ)
自分でも、うまく言葉にならなかった。
近づきたいのに近づけない。守りたいのに、その言葉が自分に使える言葉なのかわからない。あの子がそれを望んでいるかどうか、わからない。
(……俺には、関係のないことなのかもしれない)
そう思おうとした。
でも、思えなかった。
ハンスが静かに、六杯目の紅茶を注いだ。その湯気が、夕暮れの光の中でゆらりと揺れる。
「……アル様」
「……なんだ」
「明日の昼休みは、いかがなさいますか」
アルフォンスは少しの間、黙っていた。
「……まだ、わからない」
今日も、同じ言葉しか出てこなかった。
セドリックが、そっとアルフォンスの横顔を見た。何か言いたそうで、でも何も言わなかった。
ハンスも何も言わなかった。ただ静かに紅茶のカップを置いて、窓の外に目を向けた。
橙色の空に、鳥が一羽横切っていく。
アルフォンスは、その鳥が消えるまで、ずっと窓の外を見ていた。
(……あの眼鏡の奥に)
(……何を隠しているんだろう)
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