第7話「笑顔のまま、それでも」前編①
夏になって、空気が変わった。
初夏の頃は、まだ「気のせいかもしれない」と思えた。
廊下ですれ違う時に令嬢たちの目が合わないのは、たまたまかもしれない。授業中に隣の席が空いているのは、そういう並び方だからかもしれない。
でも今は、もうそう思えない。
朝、北方寄宿舎を出て本校舎へ向かう石畳の小道。夏の朝日が眩しくて、木々の葉が光を受けてきらきらと揺れている。
その光の中を歩きながら、私はいつも少し肩を落としていた。
別に俯いているわけではない。
ちゃんと前を向いて歩いている。
ただ、肩だけが、少しずつ内側に縮んでいく。
教室に入ると、空気が変わる。
誰かが視線を避ける。
誰かがさりげなく席を移動する。
笑い声が聞こえていたのに、私が近づくと少しだけ静かになる。
声を立てず、表情を崩さず、ただ自然に、確実に。
カトリーヌ・ド・ルミエール様のやり口は、いつもそういうものだった。
「あの方とは身分が違うのだから、配慮が必要よ」
そう言いながら令嬢たちに目配せをする。
それだけで十分だった。
翌朝には空気が変わっている。
訴えようにも、何も「された」わけではない。
ただ、じわじわと、確実に、孤立していく。
わかっていた。カトリーヌ様に廊下で言われた日から、もうわかっていた。
「平民は平民。それがこの帝国の仕組みですわ」
という言葉を、笑顔のまま、やわらかい声で言える人だと。
だから覚悟はしていた。
でも覚悟をしていることと、実際にその空気の中で毎日を過ごすことは、全然違った。
朝、教室に入るたびに少し息が詰まる。
授業中、誰かの視線を感じるたびに肩が内側に縮む。
廊下を歩くたびに、なるべく存在感を消すように、壁際を歩く。
昼休みには一人でお弁当を持って旧図書室へ向かう。
そうやって、一日一日をやり過ごしていく。 ——目立たなければ、いい。
そう思って入学したはずだった。最初からそのつもりだった。
目立たず、静かに、ただ卒業する。
父様の畑に帰れるように、ゼノ兄様に心配をかけないように、ただそれだけのために、ここに来たはずだった。
なのに今は、こんなにも毎朝が重い。
廊下を歩くたびに、誰かが遠ざかっていく。
教室の空気が、少しずつ冷えていく。証拠はない。訴えられない。
でも確実に、毎日少しずつ、居場所がなくなっていく。
居場所、という言葉が、頭の中で静かに沈んだ。
もともと、居場所なんてなかった。
農村の平民が、魔力があるというだけで学院に来た。貴族たちとは生まれが違う。育ちが違う。立っている場所が違う。
それはわかっていた。最初からわかっていた。
それでも、昼休みの旧図書室だけは、いつも通りだった。
石造りの本校舎の奥、誰も使わなくなった古い図書室。
重い扉を開けると、古い紙と木の匂いがする。
窓から差し込む夏の光が、埃の粒子を金色に輝かせながら、ゆっくりと空中を漂っている。
外の喧騒が、分厚い石の壁の向こうに消えていく。
私は窓際の椅子に腰を下ろして、お弁当の包みを膝に置いた。
学院の食堂で朝のうちに受け取った、簡素なものだ。
でも構わなかった。
ここで一人で食べる時間が、今の私にとって一番息のできる時間だった。
貴族たちが食堂で笑いながら食事をしている間、私はここで本のページをめくりながら、ゆっくりと息を吐く。
眼鏡を押し上げ、ブレスレットに触れた。
冷たい。いつも通り、冷たい。
(……大丈夫)
テオ様がいる時もある。梯子の上で古文書を読んでいる。
視線を交わすことも、言葉を交わすことも、ほとんどない。
ただ、同じ空間にいる。
同じ空気を吸っている。
それだけで、不思議と少し息ができる気がした。
「……静かですね」
ある日、ぽつりと言った。
「……旧図書室はいつも静かだ」
テオ様が、梯子の上から静かに答えた。
それだけだった。
それだけで十分だった。
お弁当を食べながら、窓の外を眺めた。夏の空が、痛いほど青かった。
学院の庭では令嬢たちが笑いながら歩いている。
遠くから見ると、まるで絵のように美しかった。
白い石畳。色とりどりのドレス。笑い声。夏の光。 あの中に、自分の場所はない。最初からなかった。
——ここさえあれば。
そう思っていた。まだ、そう思えていた。
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