第7話「笑顔のまま、それでも」前編②
魔法実技の授業は、週に二度行われる。
担当はヴァルター先生。白髪交じりの短い髪に、丸い銀縁の眼鏡をかけた、温和な老教師だった。
声は低く穏やかで、怒鳴ることも急かすこともない。
魔力測定の日からずっと、私に対して特別な目を向けることも、特別な配慮をすることもなかった。
ただ、公平に、淡々と授業を進める人だった。
それが私にとって、ある意味では救いだった。
午後の実技棟は、夏でも少し涼しかった。
石造りの壁が熱を遮って、窓から差し込む光だけが床を白く染めている。
外の蝉の声が遠く聞こえる。夏の実技棟は、空気が少し違う。
湿気が魔力の通り道を作るから、術式文字が浮かびやすくなると、ヴァルター先生が以前の授業で言っていた。
それを聞いた時、密かに緊張した。
湿気が魔力の通り道を作るということは、感情が揺れた時に魔力が滲み出しやすくなるということだ。眼鏡はある。ブレスレットもある。
それでも夏の実技の授業は、他の時期より少しだけ多く、神経を使う。
今日も、いつも通りそうするつもりだった。
教室に入った瞬間、カトリーヌ・ド・ルミエール様の姿が目に入った。
プラチナブロンドの髪が、窓から差し込む光を受けて静かに輝いていた。
その髪に、細工の凝った銀の髪飾りがついていた。
小さな星の形をした、繊細な細工のもの。いつもつけている、あの髪飾りだった。
光の当たり方によって、ほんのわずかに輝きが変わる。まるで内側から光を帯びているようで、他の令嬢たちの装飾品とは少し違う気がした。でも私には、まだその理由がわからなかった。
「では今日はペアを組んで、干渉系の基礎術式を実践してもらいます」
ヴァルター先生が、教壇の前に立って淡々と言った。チョークで黒板に術式の概要を書きながら、眼鏡の奥の目を細めている。
「干渉系の基礎は、他者の術式を感知し、その流れを読むこと。ペアで交互に術式を出し合い、相手の魔力の動きを感じ取る練習をしてください。今日の目標は精度ではなく、感知すること。では、自由にグループを作るように」
その一言が落ちた瞬間、空気が動いた。
カトリーヌ・ド・ルミエール様が、ほんのわずかに令嬢たちに目配せをした。
それだけだった。それだけで、十分だった。
誰も私の方を見なくなった。
一人ずつ、自然に、さりげなく、私を避けていく。笑顔で、声を立てず、まるでそういう流れになっているかのように。仲の良いグループがあちこちで出来上がっていく。二人、三人、四人。教室の中の人数が、少しずつ減っていく。
動けなかった。
動こうとした。誰かに声をかけようとした。でも、足が前に出なかった。声が喉の奥で固まった。
声をかけようとした相手が、すでに別の誰かとペアを組んでいた。
もう一人に声をかけようとした瞬間、その子がさりげなく別の方向を向いた。
笑顔のまま。目が合わないまま。
教室の中に、私だけが一人残された。
わかっていた。最初からわかっていたことだった。でもわかっていることと、その場で立ち尽くすことは、全然違った。
ヴァルター先生が少しの間を置いた。
その間が、永遠のように長く感じられた。先生は私を見た。私は先生を見た。
一瞬だけ、先生の目に何かが過った。でも先生は何も言わなかった。ただ、口を開いた。
「リアネさんは……では、一人で課題をこなしてください。干渉系の感知を、自分の術式を出しながら確認する形でやってみなさい」
やわらかい声で、でも教室中に聞こえるように。
(……大丈夫。一人でもできる)
そう思った。そう思おうとした。
でも、胸の奥で、何かが揺れた。
気づくのが遅かった。
カトリーヌ様の髪飾りが、ほんのわずかに光を帯び始めていた。
小さな星の形をした銀の細工。その内側に刻まれた術式文字が、肉眼では見えないほどの細さで、静かに輝き始めている。
感情誘導の術式が空気に溶け込んで、じわじわと内側に入り込んでくる。気づかれにくい、繊細な術式。表に出ない、証拠の残らない術式。通常より深く、確実に、内側へと染み込んでいく。
眼鏡はある。ブレスレットもある。
でも感情誘導は、魔力を直接攻撃するわけではない。感情を揺らすのだ。感情が揺れることで、魔力が連動して動き始める。眼鏡は私の魔力を抑える。ブレスレットは私の底を隠す。でも感情そのものを止める術式は、どこにも刻まれていない。
じわじわと、内側が侵食されていく。
実技が始まった。
一人で課題に向き合った。干渉系の基礎術式。自分の術式を小さく出しながら、その流れを感じ取る練習。本来なら、共鳴系の私には感覚的にわかりやすい分野のはずだった。
他者の術式を「感じる」ことは、共鳴系の得意とするところだ。
でも今日は、集中できなかった。
感情誘導がじわじわと内側に染み込んでくる。
(……平民は平民。それがこの帝国の仕組みですわ)
カトリーヌ様の声が、頭の中で繰り返される。笑顔のまま言った言葉。やわらかい声で言った言葉。廊下で取り巻きの令嬢たちを引き連れて、証拠も残さず、ただ静かに刺してきた言葉。
(……わかってる)
魔力が、じわりと揺れた。
眼鏡を押し上げ、ブレスレットを握る。落ち着け。大丈夫。ここは実技棟だ。課題に集中しろ。
でも感情誘導の波が、また来る。
今度は違う記憶が浮かんだ。
入学式の日のこと。
廊下ですれ違っても誰も目を合わせなかった朝のこと。
昼休みに旧図書室でお弁当を食べるようになった日のこと。
一人で壁際を歩くようになった日のこと。
全部、慣れたと思っていた。
全部、大丈夫だと思っていた。
(……ここさえあれば、大丈夫)
旧図書室の空気を思い出そうとした。古い紙の匂い。窓から差し込む光。静かな時間。でも今この瞬間、その安心感を呼び起こすことができなかった。感情誘導が、記憶の温かさを少しずつ削り取っていく。
魔力の揺れが、大きくなっていく。
周りのペアたちが、術式を実践している気配がする。笑い声も聞こえる。
先生の指導の声も聞こえる。でも全部が遠かった。私だけが、少しずつ、この教室の空気から切り離されていくような感覚があった。
指先に、水の魔力がじわりと集まる感覚があった。
何とか、授業を終えた。何とか、課題をこなした。
でも、授業が終わった瞬間、実技棟の外へ飛び出した。
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