第7話「笑顔のまま、それでも」後編①
実技棟の外壁に背を預けた。
夏の外気が、むわりと肌に触れていた。石畳の上に伸びる影が、午後の光の中で揺れている。授業を終えた生徒たちが外を歩き始めていた。笑い声。足音。話し声。全部が遠い。
でも今日は、追いつかない。
感情誘導の余波がまだ残っていて、魔力がじわじわと揺れ続けている。ブレスレットの冷たさが、いつもより頼りなく感じた。いつもなら、これを握れば少しだけ落ち着く。
この冷たさが、「大丈夫」の合図だった。
でも今日は、その冷たさが薄い。
外の空気が、ほんのわずかに湿り気を帯び始めた。目には見えない。気づく人はいないかもしれない。
でもわかった。自分の魔力が、滲み出し始めている。
(……まずい)
眼鏡を押し上げ、ブレスレットを両手で握る。落ち着け。落ち着け。落ち着け。
でも感情が言うことを聞かない。
カトリーヌ様の言葉が、ぐるぐると頭の中を回り続けている。
先生の「リアネさんは……では、一人で課題をこなしてください」という声が、繰り返される。
一人で立ち尽くしていた実技棟の光景が、繰り返される。
全部わかってる。全部、最初からわかっていたことだ。
なのに。
外の湿り気が、もう少しだけ濃くなった。
近くを歩いていた生徒が、何かに気づいたように足を止めて、首をかしげた。
(……見られる)
焦りが感情をさらに揺らした。
「……大丈夫」
声に出して言ってみた。小さく、誰にも聞こえないように。
でも声が、少し震えていた。
(……もうだめかもしれない)
そう思った、その瞬間——
向こうから、足音が聞こえた。
顔を上げると、カトリーヌ・ド・ルミエール様が令嬢たちを連れて、こちらへ歩いてくるところだった。
(……来る)
まずい。今の状態で顔を合わせたら、魔力が滲み出してしまう。
眼鏡を押し上げ、ブレスレットを握る。落ち着け。でも感情誘導の余波がまだ残っていて、内側がじわじわと揺れ続けている。
カトリーヌ様が、実技棟の外まで歩いてきた。私の前で足を止めた。
完璧な笑顔だった。いつも通り、やわらかい声だった。
「まあ、大丈夫ですか? 顔色が悪いようですけれど」
「……」
「無理をなさらなくていいのよ。一人で課題をこなすなんて、大変でしたでしょう」
やわらかい。丁寧だった。でも一言一言が、細い針のように内側に刺さってくる。
カトリーヌ様の髪飾りが、ほんのわずかに光を帯び始めていた。光の当たり方によって輝きが変わる、まるで内側から光を帯びているようなあの星型の銀の細工。増幅された感情誘導の波が、内側に向かって押し寄せてくる。
(……また来る)
魔力が揺れる。眼鏡もブレスレットも、今日はもう限界に近い。
カトリーヌ様の目が、わずかに細くなった。気づいている。私の魔力が揺れていることに、気づいている。
(……このまま崩れたら、全部終わる)
その瞬間、中で何かが、静かに切り替わった。
怖いわけじゃない。限界なわけじゃない。
ただ、もう、いい。
眼鏡を、指先でクイッと押し上げた。
「……無駄ですよ」
カトリーヌ様の笑顔が、わずかに止まった。
「……なんですって?」
「その術式。私には、効きません」
自分の指先を見た。そっと、水の魔力を薄く展開した。
ほんの一枚の、目に見えないほど薄い水の膜。外の空気に溶け込む程度の、ごくわずかな術式。
感情誘導の波が来た瞬間、水の薄い膜がそれを受け取って、そのまま返した。
カトリーヌ様が、小さく息を呑んだ。一瞬だけ、完璧な笑顔が揺れた。
自分の感情誘導の術式が、跳ね返ってきた。その感覚が、カトリーヌ様自身に触れた。
それだけだった。
派手なことは何もしていない。炎も出ていない。音もない。
証拠も残らない。ただ、静かに、返しただけ。
「……熱くなりますから、おやめになった方がよろしいかと思います」
カトリーヌ様を真っ直ぐに見た。
逃げない。俯かない。眼鏡の奥から、ただ、静かに見ていた。
しばらくの沈黙が落ちた。カトリーヌ様の取り巻きの令嬢たちが、息を呑んでいる気配がした。
カトリーヌ様が、ゆっくりと口元に笑みを戻した。
でも、その笑みは少しだけ、いつもと違った。
「……まあ」
それだけ言って、令嬢たちを連れてゆっくりと通り過ぎていく。遠ざかっていく背中が、夏の光の中に溶けていく。
その後ろ姿を見送った。
(……やった、のか)
膝が、少しだけ震えていた。怖かったわけじゃない。ただ、全力で集中していた反動が、じわりと来た。
ブレスレットに触れた。水の魔力が、今度は静かに凪いでいた。
「よう、リアネ」
向こうから、聞き慣れた声がした。
顔を上げると、そこにいるはずのない人間が立っていた。緩く束ねた黒髪、母親譲りの深い水色の瞳、端正な顔に静かな笑み。帝都の片隅で素性を隠して生きているはずの、あの人が、なぜか実技棟の外に立っていた。
ゼノだった。
「……兄様?」
「顔色悪いぞ」
それだけ言って、兄様が隣に立った。
それからカトリーヌ様の遠ざかっていく背中を、一度だけ見た。
「……なかなかやるじゃないか」
褒めるわけでも、驚くわけでもない。ただ、事実として言った。
でもその一言が、じわりと胸に染み込んだ。
その瞬間、魔力の揺れが少しずつ静まった。
夏の外気の湿り気が少しずつ引いていく。空気がもとに戻っていく。
内側で荒れていた何かが、ゆっくりと均されていく。
幼い頃からそうだった。魔力が暴れて手に負えない時、兄様の隣に座るだけで落ち着いた。
何も言わなくていい、何も説明しなくていい。兄様はいつも、ただ隣にいてくれた。
今日も、同じだった。
「……なんでここにいるの」
「通りかかっただけだ」
帝都から学院まで、通りかかれる距離ではない。でも何も言えなかった。
兄様はそういう人だった。絶対に「心配したから来た」とは言わない。
いつも「通りかかった」か「たまたまそっちに用があった」か、そういう言い方をする。
でも、来てくれる。
いつも、ちゃんと来てくれる。
何も言わなかった。兄様も何も言わなかった。
夏の午後の陽光の下、二人並んで実技棟の外壁に背を預けたまま、しばらくの沈黙が続いた。実技棟の外を行き交う生徒たちの足音が少しずつ遠ざかっていく。夏の光が、石畳の床を斜めに照らしている。
「……今日ね、授業で一人にされたの」
気づいたら、声に出していた。
兄様は何も言わなかった。ただ少しだけ視線を向けてきた。
「グループを組む時に、誰も組んでくれなくて。先生に、一人で課題をこなしてって言われたんだ。教室の全員に聞こえるように」
「……そうか」
「……一人でもできたよ。ちゃんと課題もこなせたし」
「そうだな」
「でも、魔力が漏れそうになっちゃって」
「……今は?」
「今は、大丈夫」
兄様が少しだけ息を吐いた。
(……わかってる。怒ってる)
わかった。兄様は表情を変えない。声も変えない。でも今の兄様は怒っている。
静かに、深いところで、怒っている。それが共鳴系には、空気の温度として伝わってくる。
「……カトリーヌ様のやり口だから、証拠がないんだよね」
「……知ってる」
「訴えられないし」
「……知ってる」
「だから、どうしようもなくて」
兄様が、少しの間だけ黙った。
「……お前が無事ならそれでいい」
やわらかい声じゃなかった。感情を抑えた、平坦な声だった。
でもその言葉の重さが、胸の奥にじわりと染み込んでいった。
本校舎の扉が、静かに開いた。
テオ様が出てきた。いつもの涼しげな顔で古文書を片手に持ったまま、
歩こうとして、立ち止まった。私を見た。兄様を見た。一瞬で状況を察した。
兄様が、テオ様を見た。
「……ゼノ・フェルシーア。リアネの兄だ」
テオ様が少しだけ間を置いた。
「……テオドール・アクアニア。アクアニア貴族の子息として留学中だ」
短い、でも確かな挨拶だった。初めて会う二人のはずなのに、互いの魔力の質を無意識に確かめ合っているような、互いの立場を言葉を使わずに測り合っているような、そういう沈黙がその後に落ちた。
テオ様が静かに口を開いた。
「……増幅系の魔道具だ」
兄様が「ほう」と低く言った。
「学院では本来、禁止されているはずのものだ」
テオ様が古文書を閉じながら続けた。淡々とした声だった。感情を込めない。ただ、事実だけを言う。
「感情誘導の術式と組み合わせることで、通常の何倍もの効果を発揮する。今日の授業中、空気に術式が溶け込んでいた。気づかれにくいよう、細く丁寧に刻まれた術式だった。対象の感情の揺れを増幅させ、魔力の制御を困難にする。外からは見えない。証拠も残らない」
兄様が「……使い手は」と静かに言った。
「カトリーヌ・ド・ルミエール。いつも同じ髪飾りをしている。小さな星の形をした銀の細工。術式文字が刻まれている」
胸の中に、何かが落ちた。
(……あの髪飾り)
(……そういうことだったんだ)
「……なんで、教えてくださらなかったんですか」
テオ様を見て言った。
テオ様が少しだけ間を置いた。
「……確信が持てなかった。感知はできていたが、断言できるほどではなかった」
「今は?」
「……今日の授業で、確信した」
ブレスレットを握った。
証拠はない。訴えられない。でも事実として今ここで、二人に言語化された。
「……ずっと、気のせいかと思ってたんです」
声が、少し掠れた。
「最初から変だとは思ってたんですけど。証拠もないし訴えられないし、どうせ私が気にしすぎてるだけだと思っていて。でも、そうじゃなかったんですね」
「……そうじゃなかった」
テオ様が静かに繰り返した。
その言葉が、思いのほか、胸に響いた。気のせいじゃなかった。おかしくなかった。ずっと感じていたあの重さは、全部、あの髪飾りのせいだった。
それがわかっただけで、少し楽になった。不思議なことに、少し、楽になった。
兄様が軽く息を吐いた。それだけ言って、兄様が頭をぽんと一度だけ叩いた。乱暴で、でも優しい手つきで。
「……兄様」
「うるさい。飯食えよ。ちゃんと食ってるか?」
笑いそうになった。こんな時に、この人は本当に。
でも、じわりと目の奥が熱くなるのを感じた。
泣かない。ここでは泣かない。外だ。人が通る。泣いたら、また誰かに見られる。
テオ様が静かに見ていた。何かを言おうとして、やめた。ただ、見ていた。その眼鏡の奥の目が、いつもより少しだけ違う温度を帯びているような気がした。
(……テオ様は、なんで、そんな顔をするんだろう)
わからなかった。
「……ちゃんと食べています」
小さく答えた。
兄様が「そうか」と言った。それだけだった。
外の光が少しだけ傾いた。午後が、ゆっくりと夕方に変わり始めている。石畳の床に伸びる影が、少しずつ長くなっていく。
(……大丈夫だ)
今度は、本当にそう思えた。
兄様が頭から手を離した。それからテオ様を一度だけ見た。何も言わなかった。
でもその視線には、何かが込められていた。読み取れない何かが。
テオ様も何も言わなかった。ただ、小さく頷いた。
「……じゃあな」
兄様が歩き始めた。
「……兄様」
振り返らないまま、兄様が足を止めた。
「……お前は、母様に似てる」
それだけ言って、歩いていった。夏の光の中に、兄様の後ろ姿が溶けていく。
(……母様に)
その言葉を胸の中で繰り返した。
母様。アクアニア出身の、かつて最強の魔術師と呼ばれた人。感情と魔力が完全に連動していた人。怒れば嵐が起き、泣けば湖が溢れたと言われる人。
(……私が、母様に)
テオ様が、隣に静かに立っていた。
「……テオ様は、なんで外にいらしたんですか。授業が終わったばかりなのに」
「……旧図書室に行くところだった」
「……午後の授業は、自習だ」
少しだけ考えた。
「……ずっと、見ていらしたんですか。私たちのことを」
テオ様が少し間を置いた。
「……偶然だ」
絶対嘘だとわかる。でも何も言えなかった。兄様と同じだ。
この人たちはみんな「偶然」か「通りかかっただけ」か、そういう言い方をする。
「……ありがとうございます」
テオ様は何も言わなかった。ただ眼鏡の奥の目が、少しだけ違う温度を帯びているような気がした。いつもの感情を読ませない目とは、少し違う。
(……なんで、そんな顔をするんだろう)
わからなかった。
「……戻りますね」
「……ああ」
歩き始めた。本校舎へ、教室へ、いつも通りの午後へ。眼鏡を押し上げ、ブレスレットに触れた。水の魔力が、静かに凪いでいた。
その後のことを、放課後まで考え続けた。
次の授業も、その次の授業も、先生の声が少し遠かった。ノートを取りながら、頭の中では別のことを考えていた。
カトリーヌ様の顔が揺れた瞬間のこと。兄様が来てくれたこと。テオ様が事実を言葉にしてくれたこと。そして、兄様が去り際に言った言葉のこと。
(……母様に似てる)
どういう意味なんだろう。容姿のことだろうか。でも容姿だけではない気がした。兄様の言い方は、もっと別の何かを指しているような気がした。
感情と魔力が連動していた母様。今日、感情が揺れるたびに魔力が滲み出しそうになった私。でも今日は、その魔力を自分で使った。カトリーヌ様の術式を、静かに、返した。
(……私は、どこまで大きいんだろう)
でも今日、一つだけわかったことがある。
追い詰められた時、自分の魔力は崩れるだけじゃない。使えることも、ある。
(……戻らないといけない)
放課後、教室を出ながら、思った。
明日も、ここに戻らないといけない。なのに、戻りたいと思っている。
その理由が、まだ言葉にならなかった。
眼鏡を押し上げ、ブレスレットに触れた。外の光が少しだけ傾いていた。
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