第4話「眼鏡の向こうの君」前半
気づけば、入学から一ヶ月が経とうとしていた。
フェルドラク様と廊下で鉢合わせするのも、旧図書室でテオ様と過ごす昼休みも、いつの間にか「当たり前」になっていた。
怖いと思っていたこの学園が、少しだけ——ほんの少しだけ——息のできる場所になってきた気がする。
そんなある日の、魔法実技の授業。
「では、光属性の防御術式を展開してみましょう」
ヴァルター先生が、穏やかな目で教室を見渡した。
魔法実技を担当する、白髪交じりの温和な老教師。
丸い銀縁の眼鏡の奥の目は、低く落ち着いた声と同じように、決して怒鳴ることも急かすこともない。
——入学式の日、魔力測定の水晶のそばで、記録を取っていた先生だ。
私が水晶に手を触れた瞬間、小さな亀裂が走った時。
先生は、わずかに顔を上げて、私を見た。
その視線だけが、他のどの教師よりも、ほんの少しだけ長かった気がする。
(……でも、先生は、何も言わなかった)
それ以来、授業でも、廊下でも、ヴァルター先生は私に何か特別な態度を取ることはない。
ただ、時々——授業中に、静かに私の方を見る。
それだけ。
(……気のせい、かもしれない)
「術式というのは、魔力の質がそのまま出る。強い魔力を持つ者ほど、より精密で、より正確な術式を展開できる。今日は各自の力を確認していきましょう」
(……魔力の質、か)
私はそっと視線を落とした。
カトリーヌ・ド・ルミエール様が、すっと立ち上がる。
右手をゆっくりと持ち上げ、細い指先が空中に弧を描いた。
指の軌跡に沿って、金色がかった光の術式文字が次々と浮かび上がる。それが薄い光の膜となって、彼女の周囲にふわりと広がった。
プラチナブロンドの髪が、その光を受けてきらきらと輝く。
精密で、美しくて、無駄がない。
「……さすがルミエール公爵家の令嬢ですわ」
「光魔法があそこまで制御できるなんて……」
令嬢たちの囁きが、教室に溶けていく。
「……よくできています。カトリーヌさん、干渉系と構築系を組み合わせた複合術式ですね。光魔法でここまで精密に展開できる生徒は、なかなかいない」
ヴァルター先生が、静かに頷いた。
(……すごい)
思わず、その術式に見入ってしまった。
あの光の膜は、ただの防御術式じゃない。干渉系と構築系を組み合わせた、複合術式だ。
(……しかも、周囲の空気まで、なんか、変わった気がする)
なんとなく、教室全体がカトリーヌ様に向いている。引き寄せられるように、視線が集まっていく。
(……これが、光魔法の「感情誘導」なのかな)
「……先生」
前方の窓側の席から、静かな声が上がった。
テオ様だった。 窓からの光を受けた銀髪が、冷たく輝いている。
本を持ったまま、左手の指先をわずかに動かした。
空中に、青い術式文字が一瞬だけ浮かんで、すぐに消える。
「……あの術式には、感情誘導の成分が混じっています。意図的なものですか、それとも無意識ですか」
教室が、一瞬静まり返った。
ヴァルター先生が、わずかに目を泳がせた。
「……そうですね。テオさんは鋭いですね。光魔法には確かにそういった副次効果が出る場合もあって……ただ、今回は防御術式の精度を見ていたので……」
歯切れが悪い。
カトリーヌ様の頬が、わずかに強張った。
「……テオ様、それは」
「事実の確認です。答えたくなければ、別に構いません」
テオ様はそれだけ言って、また本に視線を戻した。
後方の窓際席では、セドリック様がこっそり口を開いた。
「……アル、今のテオの発言やばくない?」
「……黙れ」
「いや黙れって言いながらお前も気づいてたでしょ」
フェルドラク様は答えなかった。 けれど金の瞳が、一瞬だけ鋭くカトリーヌ様を見てから、静かに逸らされた。
「では次に、ペアを組んで互いの術式に干渉する練習をしましょう」
ヴァルター先生の声が響いた瞬間、教室がざわめいた。
令嬢たちが、競うように視線をフェルドラク様の方へ向ける。
(……ペア)
私はそっと俯いた。誰も組んでくれなければ、先生と組むことになる。
それでいい。目立たなくて済む。
「……特待生さん」
やわらかい声が、真上から降ってきた。
顔を上げると、カトリーヌ様が立っていた。
プラチナブロンドの髪を美しく揺らしながら、完璧な笑顔で。
「わたくしとペアを組んでくださらない?」
(……え?)
笑顔だった。けれど、その目は笑っていない。
(……断れない)
身分が違う。魔力も違う。何もかもが、違う。
「……は、はい」
絞り出すように答えると、カトリーヌ様の口元がわずかに緩んだ。
「ありがとう。では、わたくしが攻撃術式を展開しますわ。特待生さんは防御してくださいね」
向かい合う形で立つ。カトリーヌ様が、再び右手を持ち上げた。
指先が空中を滑るように動き、金色の術式文字が次々と展開されていく。
今度は防御膜ではない。細く鋭い光の線が、私に向かって静かに伸びてくる。
(……来る)
私は手首のブレスレットにそっと触れながら、できるだけ小さく、水の防御術式を展開した。
指先で空中に小さな弧を描くと、薄い水色の膜がほんのわずかだけ滲む。
カトリーヌ様の光の術式が、私の防御膜に触れた瞬間——。
(……っ)
光の中に、何かが混じっている。ただの攻撃術式じゃない。感情誘導の成分が、じわりと私の意識に滲んでくる。
(……怖い。ここにいてはいけない)
その感覚が、脳の奥に直接流れ込んでくるようだった。
(……違う。これは、術式だ)
私は奥歯を噛みしめた。手首のブレスレットが、冷たい。
(……落ち着け)
深く息を吸うと、水の魔力が静かに凪いだ。防御膜が、揺れながらも形を保つ。 カトリーヌ様の目が、わずかに細くなった。
「……まあ。思ったより、しっかりしていますのね」
「……ありがとうございます」
「……特待生、今日は安定していますね」
ヴァルター先生が通り過ぎながら、静かに言った。
(……今日は、という言い方)
先生の言葉の端に、ほんの少しだけ、引っかかるものがある。
けれど先生は何事もなかったかのように次のペアへと歩いていった。
「……ありがとうございます」
最後列の窓際から、じりりと「熱」が届いた気がした。
(……見ていたのかな)
そっと、息を吐いた。
変化に気づいたのは、その翌日からだった。
教室に入った瞬間、いつもと空気が違う気がした。
廊下ですれ違う令嬢たちが、なぜか視線を逸らす。
授業中、隣の席の子が、なぜか話しかけてこなくなった。
(……気のせいかな。もともと友達なんていなかったし)
でも三日、四日と経つにつれて、「気のせい」では済まなくなってきた。
挨拶しても、返ってこない。
手を上げても、誰とも目が合わない。
教室の空気が、私の周りだけ、じわじわと薄くなっていく。
昼休み。今日も旧図書室に向かいながら、私は寮の食堂で受け取った包みを抱えていた。
特待生用の簡素な昼食。ライ麦パンと野菜のスープが入った小瓶。
貴族の生徒たちが豪華な食堂でコース料理を楽しんでいる時間に、私はいつも旧図書室でこれを食べる。
(……まあ、これで十分だ)
故郷の農家と比べれば、ライ麦パンだって十分すぎるくらい豊かだ。
父様が丹精込めて育てた麦で焼いたパンの方が、ずっとおいしかったけれど——それでも、ここにいられることには変わりない。
廊下を歩きながら、ふと自分の姿を思う。
無造作に束ねた亜麻色の髪、黒縁眼鏡、猫背気味に俯いて歩く地味な平民の特待生。授業中に見た、カトリーヌ様とは正反対だ。
プラチナブロンドを美しく結い上げ、背筋を伸ばして堂々と歩く人。光の術式が、彼女の周囲をほんのりと輝かせていた。
(……魔法を、常に纏っているのか)
(……別の世界の人だな)
そんなことを思いながら廊下を歩いていると——。
曲がり角の向こうから、カトリーヌ様の声が聞こえた。
「……平民の特待生さんとは、身分が違うのだから、配慮が必要よ。特待生最下位の方が一組にいらっしゃるだけでも、皆さん戸惑っていらっしゃるでしょう?」
やわらかい声だった。
誰かを傷つけているようには、全く聞こえない声。
「フェルドラク様のお気持ちを考えると……ね。わたくしたちが、しっかりしてあげなければ」
思わず、足が止まった。
角を曲がったところで——カトリーヌ様の視線が、ほんのわずかに長く、こちらへ留まった。
プラチナブロンドの髪が廊下の光を受けて輝いていて、その口元に静かな笑みが広がっている。
(……見えていた)
聞こえていると、わかっていて言ったのだ。
令嬢たちが神妙な顔で頷いていて、その視線が一斉に私へと向いた。
私は壁に背を押しつけながら、息を潜めた。
カトリーヌ様の言葉は、誰も傷つけていない。
誰かに何かを命令しているわけでもない。
ただ「あの子とは距離を置いた方がいい」という空気を、やわらかく静かに周囲に広げているだけだ。
(……これが、感情誘導なのかもしれない)
昨日の授業で、テオ様が言っていた。
光魔法には感情誘導の成分が混じることがある、と。言葉に乗せて意識に刷り込む。
命令ではなく「そう思わせる」だけ。
だから誰も気づかないし、証拠もなく、訴えることもできない。 手首のブレスレットに、そっと触れた。
——目立たず、静かに。それだけでいい。
※noteでも掲載中です。noteが最新話となります。




