第3話「廊下の攻防戦」後半
十一日目の朝。廊下の角を曲がった瞬間、ばったりと鉢合わせした。
(……っ!)
反射的に踵を返そうとした。足が、動きかけた。
「……また、会ったな」
静かな、けれど妙に通る声。ぴたりと足が止まる。
ゆっくりと振り返った。フェルドラク様が立っていた。漆黒の制服。整った顔立ちに、いつもの無表情。けれど今日は――金の瞳の奥に、どこか不器用な、子供みたいな何かが宿っている。思わず、その瞳を見つめてしまった。
(……っ、い、いけない)
慌てて視線を床に落とした。心臓が、やけにうるさい。
長い沈黙。フェルドラク様は何も言わなかった。私も何も言えなかった。廊下に、朝の光が差し込んでいる。二人の間に、ただ静かな空気だけが流れていた。
それでも。今日は、逃げなかった。それだけで、空気が少しだけ変わった気がした。
やがてフェルドラク様は、何も言わずに私の横を通り過ぎていく。
すれ違う瞬間――ほんの一瞬だけ、視線が合った気がした。
気のせいかもしれない。でも。
(……今日は、「行け」って言わなかった)
背中が遠ざかっていく。
」
「……アル。今日は追いかけなかったんだな」
くしゃっとした茶髪が視界の端に入った。セドリック様だった。
「……うるさい」
「いや、成長じゃん。素直に褒めるよ俺」
ハンスが静かに二人の後ろを歩きながら、小さく頷いていた。
(……セドリック様とハンス様もいたんだ)
慌てて前を向いた。頬が、なぜか少し熱かった。
教室に入ると、カトリーヌ様が、こちらを見ていた。笑顔だった。いつもの、目が笑っていない笑顔。その隣に立つ令嬢が、小声で耳打ちした。
「特待生最下位の方が、フェルドラク様と……?」
カトリーヌ様の口元に、静かな笑みが広がった。廊下でのことを、見ていたのだろうか。冷たい視線が背中に刺さる感覚がして、眼鏡を押し上げた。手首のブレスレットが、袖からわずかに覗く。
(……大丈夫。隠せている)
その時、胸の奥で何かがわずかに揺れた気がした。水の魔力が、感情に引っ張られそうになる。
(……落ち着け。落ち着け、リアネ)
深く息を吸うと、揺れがおさまった。
その日の昼休み。旧図書室に滑り込むと、テオ様がいつもの梯子の上で古文書を広げていた。
「……今日は気配が違うな」
本から視線を上げることなく、静かに言う。
「……え?」
「廊下の方から。いつもより落ち着いていた」
窓からの光を受けた銀髪が、冷たく輝いている。細い指先が、ゆっくりとページをめくった。
「……逃げなかったんだろう」
「…………はい」
「そうか」
それだけ言って、また本に視線を戻す。でも、その一言がなぜか少しだけ、温かかった。
昼休みが終わる少し前、旧図書室を出た。廊下を歩きながら、無造作に結んだ亜麻色の髪が頬にかかるのを、そっと耳にかけた。
(……なんで、こんなに、心臓がうるさいんだろう)
ふと、手首のブレスレットに触れる。兄様の「隠しておけ」という声が、耳の奥で響いた。
(……大丈夫。毎日顔を合わせていれば、誰だって慣れる。それだけのことだ)
そう自分に言い聞かせながら、教室へと歩き出した。わかってる。わかってるのに、今日も、なぜか足取りが軽かった。
教室に戻ると、最後列の窓際から、じりりと「熱」が届いた気がした。
(……見てる)
振り返らなかった。振り返ったら、きっと、また心臓がうるさくなるから。
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