第3話「廊下の攻防戦」前半②
授業が終わり、西の空が橙色に染まり始める頃。貴族専用サロンのソファに、セドリックがどっかりと腰を下ろしていた。
「……アル。お前それ絶対ダメだから」
セドリックが額を押さえながら言った。
「なぜだ。会話は成立している」
」
「会話になってないから!! 毎回一言だけ言って『行け』ってなんだよ! それ命令だから!会話じゃない!」
「……命令ではない。許可だ」
「どっちでも怖いんだよ!!」
セドリックが叫ぶ横で、ハンスが静かに紅茶を注いだ。
「……アル様。よろしければ、笑顔をお見せになってはいかがでしょう」
「…………笑えばいいのか?」
「はい」
ほんの僅かに口角が上がる。だが、目は全く笑っていない。
「……アル様、それは笑顔ではなく威圧です」
「同じではないのか?」
「全く異なります」
「……そうか」
セドリックが卓上に突っ伏した。
「……俺、もう知らない……」
しばらくの沈黙。セドリックが、ふと顔を上げた。
「……あのさ、アル。一個だけ言っていいか」
「……なんだ」
「あの子、平民だぞ」
アルフォンスの手が、止まった。
セドリックが、タルトを置いた。珍しく、真剣な目でアルを見ている。
「俺さ、お前のこと昔からずっと見てきたじゃん。魔力が強すぎて誰も近づけなくて、友達って俺だけで、それでも誰かに怖がられるのが当たり前だと思って生きてきただろ。俺もずっとそれが普通だと思ってた」
「……」
「でもさ、あの子、廊下で足止めて、ちゃんとお前の声聞いて、眼鏡押し上げて前向いてる。お前の『火』の中で、唯一凪いでいる子だろ。そんな子、生まれてから一人もいなかったじゃないか」
「……」
「だから俺は、お前が怖がらせたくないって思った気持ち、本物だと思うよ。お前が誰かにそう思ったの、初めてだろ」
アルフォンスは、何も言わなかった。
「……でもさ、だからこそ聞いてくれよ」
セドリックが、少しだけ声を落とした。
「身分が違うってのは、魔力の差よりずっと深い壁なんだ。お前がどんなに近づいても、あの子の方は笑えないかもしれない。平民がフェルドラク家の侯爵令息に構われるって、それだけで周りからどう見られるか、あの子はわかってるはずだから。お前が怖いのは、魔力だけじゃないんだ」
長い沈黙が落ちた。
「……お前を傷つけたくて言ってるんじゃないからな」
セドリックが、ぽつりと付け加えた。
「ただ、お前が本気なら、それくらい覚悟しておけって話だよ」
珍しく、真剣な顔だった。
ハンスは静かに、三杯目の紅茶を注いだ。
長い沈黙が落ちた。アルフォンスは、そっと自分の掌を見つめた。
(……天気がいいな、か)
(違う)
(あれでは、距離は縮まらない)
あんな言葉しか出てこなかった自分に、少しだけ眉を寄せる。
(違う)
言いたかったのはあれではない。
(……もっと、別の)
(……また、あの顔を見たい)
(あの、警戒していない時の顔を)
(俺の言葉で、ほんの少しだけ)
うまく言葉にならないまま、思考だけが空回る。練習した。「おはよう」という一言を、鏡の前で何度も。
けれど――あの水色の瞳を見た瞬間、頭の中が全部まっさらになる。
だから、近づきたい。ただそれだけなのに、なぜこんなに難しいんだ。
(……怖がらせたくない)
そう思っていた。ずっと、そう思っていたのに。
(……俺が近づくこと自体が、脅威なのか)
「……それでも、今日は逃げなかった」
ぽつりと呟いた言葉を、セドリックは聞こえないふりをした。ハンスは静かに、四杯目の紅茶を注いだ。
その横でアルフォンスは、ほんのわずかに指を握る。
(次は、もう少しだけ)
(……近づく)
幼い頃の記憶がある。
母が、寝室の扉越しに子守唄を歌っていた。部屋に入れないのは、アルフォンスの「火」が強すぎて、近づくと火傷してしまうからだ。だから母は、いつも扉の向こうから、そっと声だけを届けてくれた。
「……おやすみなさい、アル」
その声は、いつも少しだけ、泣いているように聞こえた。
父は違った。
「火を制御できないのは、まだ弱い証拠だ」
フェルドラク侯爵・エルハルトは、息子に向かってそう言い切った。感情のない、冷徹な声で。
「フェルドラクの血は、強さのためにある。お前はその中でも選ばれた存在だ。誇れ」
誇れ、と言われても。
アルフォンスの「火」は、幼い頃こそ制御の限界で揺れていた。今は多少は抑えられるようになった。それでも、触れれば火傷する。感情が揺れれば、周囲の空気が焼ける。誰もが一定の距離を置いて、畏怖と羨望の眼差しを送ってくる。
使用人たちは決められた距離を保ちながら仕えてくれた。同世代の貴族たちは、畏怖の眼差しを向けながらも、決して近づこうとはしなかった。そんな中で、セドリックだけが「友達」として傍にいてくれた。それがアルフォンスにとって、当たり前の「世界」だった。
(……ずっと、それだけだと思っていた)
アルフォンスは、自分の掌を見つめた。
あの子の「凪」の感覚が、まだ手の中に残っている気がした。あの水晶のそばに立った瞬間。初めて、自分の「火」が静かになった。
(……怖がらせたくない)
そう思ったのも、初めてだった。誰かに、怖がられたくないと思ったのは。なのに。
(……どう話せばいいのか、分からない)
あの水色の瞳を見た瞬間、言葉が全部、どこかへ消えてしまう。
窓の外で、夜風が揺れた。
「……アル様」
ハンスが、静かに口を開いた。
「……なんだ」
「一つだけ、申し上げてもよろしいでしょうか」
アルフォンスは答えなかった。それを肯定と受け取って、ハンスはゆっくりと続けた。
」
「アル様はずっと、誰かに怖がられることを当たり前だと思ってきた。火傷するから近づけない。怖いから距離を置く。この12年、それが当然の世界でございました」
「……」
「でも、リアネ様は、アル様の『火』を恐れながらも、そこに留まろうとしている。それがどれほど稀なことか、アル様はまだ、おわかりでないかもしれませんが」
暖炉の火が、ぱちりと小さく爆ぜた。
「……俺が、近づくことで」
「……はい」
「あいつが、傷つくかもしれない」
ハンスは少し間を置いてから、静かに言った。
「……アル様がどれほど近づいても、リアネ様が笑えない理由は、魔力ではございません。魔力の強さがそのまま階級となるこの帝国で、フェルドラク家の侯爵令息と平民の特待生では、立っている場所が違いすぎる。それはアル様のせいでは、ございません」
「……でも?」
「焦らなくてよろしいかと存じます。ただ、消えないでいてください。あの方の視界から」
長い沈黙。
アルフォンスは、ただ静かに自分の掌を見つめていた。
(……消えない)
(……もう少しだけ、近づく)
ハンスは音もなく、五杯目の紅茶を注いだ。その湯気が、夜の空気の中で、ゆらりと揺れた。
六日目の夕暮れ。一週間が経とうとする頃のことだ。
学園の外壁の陰に、一人の青年が立っていた。
緩く束ねた黒髪。母親譲りの深い水色の瞳。彫刻のように整った顔立ちは、一切の飾り気もなく野晒しにされている。眼鏡もない。魔力を遮断するものも何もない。
ゼノはただ腕を組んで、学園の中を眺めていた。その周囲には、かすかに水の魔力が揺れている。抑えてもいない。隠してもいない。まるで空気を吸うのと同じように、自然に、当たり前に。
(……相変わらず、騒がしい学園だな)
今日ここに来たのは、理由がある。夕方、帝都の部屋にいた時のことだ。胸の奥で、何かがざわりと揺れた。水の、共鳴。リアネの魔力が、乱れている。
(……何かあったか)
母様に言われている。「リアネのことを、遠くから見守ってほしい」と。リアネは知らない。知らなくていい。ただ――今日は、自分でも来たかった。それだけだ。
(……シスコンじゃない。念のための確認だ)
ゼノの視線が、中庭を横切る一つの人影を捉えた。不格好な黒縁眼鏡。無造作に束ねた亜麻色の髪。猫背気味に歩く、地味な平民の少女。
(……あの眼鏡は相変わらず似合わないな)
眼鏡の奥に隠れている素顔を、ゼノは知っている。あれを外せば、母親の面影をそのまま宿した、ため息が出るほど美しい顔がある。
そしてもう一つ、ゼノが知っていることがある。リアネの魔力は、この帝国の誰も見たことがない種類のものだということだ。
(……水属性の中でも、特別な質を持つ。密度が高く、感情と深く連動する。共鳴系の特性を持ちながら、単独でも規格外の出力を持つ)
だから隠せと言った。眼鏡をかけて、ブレスレットをして、最下位の特待生のフリをして、目立たずに卒業しろと。それだけでいいはずだった。
ゼノの目が細くなった。リアネの数歩後ろを、さりげなく歩く人影がある。漆黒の制服。近づきたいのに近づけない、不器用な距離感。そして――
(……あの熱量は、並じゃないな)
ゼノはゆっくりと手を持ち上げた。指先から、薄い水の膜が広がる。空気に溶けるように展開された、極薄の術式。魔力を「読む」ための、感知の術式だ。
(……干渉系の、しかも無意識発動か)
火の魔力を持つ者は多い。けれどあの「熱」は、ただの火魔法じゃない。周囲の魔力を巻き込んで燃え広がる、制御しきれていない「何か」だ。それが、リアネの「凪」に触れた瞬間だけ――静まっている。
(……面白い)
ゼノは術式を静かに引き戻した。水の膜が、夕暮れの空気に音もなく溶けていく。しばらくの間、その光景を無言で観察していた。
「……リアネ」
ゼノは静かに呟いた。
「お前、また厄介なものに目をつけられたな。……あいつの魔力は本物だ。帝国で俺が見てきた中でも、間違いなく上位に入る。感情が揺れれば周囲が焼ける。無意識に圧を放ち続ける。そういう種類の『災害』だ」
一拍置いて。
「ただ――お前の側だけで、静まっている。それは俺も、見たことがない現象だ。お前の水が、あいつの火を凪かせている。……面白い」
夕日が、外壁を赤く染めていく。ゼノは腕を組み直した。
「まあいい。俺がいる。あの子が水を滲ませた時は、すぐに動ける」
その端正な顔に、静かな笑みが広がった。
「……シスコンじゃない。これは義務だ」
外壁の向こうで夕日が落ちていく。
周囲に揺れる水の魔力が、夕暮れの風にさらりと溶けた。
ゼノは誰にも気づかれないまま――いや、気づかれていても気にしない様子で――帝都の方角へ消えていった。
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