第3話「廊下の攻防戦」前半
あの日——フェルドラク様に名前を呼ばれた、七日目の朝から。
私は毎日、旧図書室に通うようになった。
理由は単純だ。あそこだけ、あの「熱」が届かない。
正確には、届かないわけじゃない。
午前中、教室で四時間。背中から突き刺さる金の瞳の圧力に晒され続けた肌は、昼休みになっても、まだじりじりと焦げている気がする。
廊下を歩けば、どこからか、あの「熱」を感じる。角を曲がれば、また漆黒の制服が視界に入るかもしれない。
心臓が、ずっと休めない。
(……これが、共鳴なんだろうか)
そう思ったことがある。
魔法理論の教科書に、一行だけ書いてあった。
『共鳴系の術式保有者は、他者の干渉系術式を過剰に受信しやすい』
つまり私は、あの「熱」を感じすぎている。
他の生徒たちが「少し暑い」と感じる程度のものを、私だけが皮膚の奥まで焼かれるように受け取っている。
だからこそ、旧図書室だけが、私にとっての「息継ぎ」だった。
八日目の朝。廊下を歩いていると、令嬢たちの声が聞こえた。
「ねえ、特待生最下位の子、一組でしょ?」
「おかしくない? 魔力量は並なのに」
「コネでもあるんじゃない? 平民のくせに」
聞こえていないふりをして、足を速めた。
わかってる。
私が一組にいるのは、おかしいことだって。
でも、誰にも説明できない。できるはずがない。
前方に、あの漆黒の制服が見えた。
(……っ)
反射的に踵を返そうとした瞬間。
「待て」
静かな、けれど妙に通る声。ぴたりと足が止まる。
振り返ると、フェルドラク様が、なぜかほんの少しだけ息を乱して立っていた。
黒髪が朝の光を受けて、わずかに揺れている。
(……え、走ってきたの? 私を止めるために?)
「……あの、なんでしょうか……っ」
「……」
長い沈黙。
フェルドラク様は何か言おうとして、口を開きかけて、やめた。
そのまま、視線を逸らす。眉間に縦皺。なのに——耳が、ほんの少し赤い。
「……今日は、天気がいいな」
「……え?」
「…………いや、なんでもない。行け」
ぶっきらぼうにそう言って、さっと背を向ける。
そのまま去っていくけれど——一瞬だけ、歩幅が合わずに乱れた。
(……今の、絶対動揺してたよね?)
私は呆然と、遠ざかっていく背中を見送った。
(……天気って何)
九日目の廊下。
「……お前は、毎日この時間に登校するのか」
「……は、はい」
「……そうか」
そこで終わるかと思ったのに。
「……危ない」
「え?」
次の瞬間、ぐい、と腕を引かれた。
すぐ横を、走ってきた生徒が通り過ぎる。
気づけば、フェルドラク様の胸のすぐ前。
制服越しでもわかる体温に、心臓が跳ねた。
こんなに近くで見ると、整った横顔が十二歳らしくなくて、思わず目を逸らした。
「……前を見て歩け」
底冷えするような声。近すぎる距離。
「……す、すみません……」
「…………行け」
ぱっと手を離される。まるで何事もなかったかのように、彼は去っていった。
(……絶対、今の必要以上に近かった)
そして十日目。
私はもう、逃げなかった。
むしろ——少しだけ、待ってしまった。
(……来る)
「……昨日の魔法の授業は、難しかったか」
「…………え、あ、少し……」
「……そうか」
今日は、それだけじゃ終わらなかった。
「……ノートを見せろ」
「え?」
思わず、ノートを胸に抱え込んだ。 フェルドラク様は答えなかった。ただ、金の瞳が静かにこちらを見ている。
(……断れない)
なぜかそう思って、おずおずとノートを差し出した。
差し出したノートを、無言でめくる。
長い指先がページをなぞるたびに、なぜか視線を逸らせない。
筆を走らせる所作が、静かで綺麗だった。
「……ここ、間違っている」
ノートの余白に、細い線で術式の補正式が書き込まれていく。迷いのない、無駄のない筆跡。一度も止まらずに、するすると。
(……え、うま……)
思わず見入ってしまった。
これが、構築系の才能というやつなのだろうか。
「……次からは気をつけろ」
「……は、はい」
「…………もう、行け」
ノートを返される瞬間、指が、少しだけ触れた。
ほんの一瞬なのに、やけに熱い。
これって、フェルドラク様の「熱」なの? それとも——。
また何事もなかった顔で去っていく背中。私は廊下の壁に背を預けながら、心の中で叫んでいた。
(……何がしたいの)
「行け」って何。「そうか」って何。
毎日話しかけてきて、毎回ちょっとだけ距離を詰めて、でも最後は絶対に離れていく。
眼鏡を押し上げながら、自分の心臓の音を聞いた。
怖いのとは違う、落ち着かない感覚。
あの金の瞳が、こんなに近くにあるのに——今日も、逃げなかった。
(……ダメだ。これは絶対ダメなやつだ)
でも、明日も同じ教室で、あの金の瞳と向き合う。 それが、少しだけ怖くなくなってきた。
「……また来たのか」
梯子の上で古文書を広げたまま、テオ様が私を一瞥する。
歓迎でも拒絶でもない、ただ「事実を確認した」という目。
「……お邪魔します」
「別に構わない。ただし騒がしくするな」
それが、私たちの間に生まれた、無言の「契約」だった。
テオ様の張った「気配の遮断」の中に入った瞬間、ふわりと肩の力が抜ける。空間に編まれた青い術式が、外界からの干渉を静かにほどいていくのがわかる。
(……やっと、息ができる)
午前中ずっと強張っていた背中が、ようやく緩む。
焦げついていた肌の感覚が、冷たい空気に冷やされていく。
私は空いた時間に、魔法理論の課題を広げて術式の練習をしていた。
まだ習いたての構築系の術式は難しくて、文字を書くたびに式が歪む。
けれど、私が術式を間違えると、テオ様は無言のまま隣に来て直してくれた。
私の拙い術式の上に、静かに重ねられた青い文字が、音もなく式を整えていく。
私がパンを食べていると、何も言わずに氷晶草の砂糖菓子を一粒差し出してくれる。
(……冷たいのに、なんか温かい人だな)
あの「熱」が届かない、静かな空間。
その中で私は、久しぶりに「普通の学園生活」の欠片を感じていた。
ただ、一つだけ、気になることがある。
テオ様は時々、私の方をちらりと見る。本のページをめくりながら、さりげなく。何かを、考えているような目で。
それが何なのか、私にはまだわからなかった。 ——もっとも、昼休みが終われば、また「熱」の中に戻っていかなければならないのだけれど。
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