第2話「焦土と氷の七日間」後半
翌朝から、私の毎日は、大きく変わってしまった。
教室の最後列の窓際——アルフォンス様の席から、じりりと届いてくる視線の「熱」。
朝礼から、一限、二限、三限、四限。
昼食を取るために立ち上がろうとした瞬間にも、視線は離れない。
授業中、黒板を見ても、教科書をめくっても、背中で「熱」を感じ続ける。 共鳴系の私には、視線の温度がそのまま肌に届いてしまう。
他の生徒は気にもしないであろう微かな視線の揺らぎが、皮膚の奥まで焼きつくように感じられた。
(……今日も、一日中見られていた)
三日目の夕暮れ。
寮に戻って、ベッドに倒れ込む。
共鳴系の副作用で、一日が終わる頃には、背中がじんじん痛むようになっていた。
感情の揺れは抑えられているけれど、それでも視線を浴び続けるだけで、魔力がざわつく。
眼鏡の奥で目を伏せて、奥歯を噛みしめて、ただ時間が過ぎるのを待つ。
四日目の昼休み。
教室から逃げるように廊下へ出た瞬間、プラチナブロンドの髪が視界の端に見えた。
「あら、特待生の方」
カトリーヌ様だった。
完璧な笑顔のまま、令嬢たちを引き連れて、こちらへ歩いてくる。
「フェルドラク様と、ずいぶん親しいのね」
声は、甘くて、やわらかかった。
けれど、その目は笑っていない。
「違います。——私は、何も……」
「あら、違うの? でも、毎日、あんなに見つめられているのに? 平民の方って、礼儀を知らないのかと思ってしまいますわ」
やわらかい声のまま、細い針を、一つずつ、私の内側に刺していく。
(……あ、これが、この人のやり方)
ゆっくりと、静かに気づいた。
直接の攻撃はしない。
ただ、笑顔のまま、言葉を置いていくだけ。
そして、令嬢たちが目配せを交わす。
私の首筋に、ひやりと、冷たいものが走った。
何も「された」わけではない。
だから、言葉にして抗議することもできない。
五日目。
朝の廊下で、すれ違う令嬢たちが、一瞬だけ視線を逸らすようになった。
授業中、隣の席が、なぜか空いたまま埋まらない。
共鳴系の私は、教室の空気が、じわりと薄くなっていくのを、肌で感じ取っていた。
——目立たず、静かに卒業する。それだけで、よかったのに。
ゆっくりと、静かに気づいた。直接の攻撃はしない。
手首のブレスレットに、そっと触れる。冷たい。いつも通り、冷たい。
(……大丈夫。隠せている)
そう、自分に言い聞かせて、私は廊下の端を歩いた。
六日目の昼休み。
どうしても、教室にいられなかった。
最後列の窓際から届く視線と、中列の真ん中から流れてくる冷たい笑み。
その両方に挟まれているだけで、魔力が揺れそうになる。
眼鏡があってもブレスレットがあっても、ぎりぎりのところで、保っている。
私は、弁当の包みを抱えて、ほとんど使われていない古い図書室の扉を開けた。 ——旧図書室。
本校舎の最奥、北廊下の突き当たりにある、重い石造りの扉。
誰も来ないその場所だけが、最後列からの「熱」も、中列からの「冷たさ」も届かない、安全な場所だった。
扉を押し開けた瞬間、ひんやりとした空気と、古い紙と埃の匂いが、流れ込んできた。
高い天井までびっしりと並ぶ書棚。斜めに差し込む昼の光。埃の粒子が、光の中でゆっくりと舞っている。
(……誰も、いない)
ほっと、肩の力が抜けた。
窓際の床に腰を下ろして、ライ麦パンの包みを開けようとした——その時。
「——そこ。君、気配が、うるさい」
頭上から、低く、芯まで冷えた声が降ってきた。
びくりと顔を上げる。
書棚の高いところに渡された梯子の上に、一人の少年が腰掛けていた。
緩く編まれた銀髪が、窓からの光を反射して、冷たく輝いている。
分厚い古文書を膝の上に広げたまま、眼鏡の奥の知的な双眸が、闖入者である私を淡々と見下ろしていた。
(……テオ・アクアニア様)
入学式で、首席として名前を呼ばれた、あの人だった。
「す、すみません、人がいらっしゃるとは思わなくて……!」
慌てて立ち上がろうとした私を、テオ様は本から視線を上げることなく、静かに制した。
「別に、出ていけとは言っていない。——ただ、静かにしろ」
「は、はい……っ」
居心地の悪さを感じつつも、私は窓際の床にもう一度腰を下ろした。
ライ麦パンを小さくかじりながら、横目でちらりとテオ様を窺う。
本当に、微動だにしない。
ただ、指先だけが、ゆっくりとページをめくっていく。
感情の読めない整った横顔は、まるで、この図書室ごと時間が止まっているみたいだった。
しばらくして、テオ様がぽつりと口を開いた。
「——そちらの」
「は、はいっ!」
「そんなに、肩、張るな。気配が重くなる」
「す、すみ——」
「謝るな。疲れる」
淡々と、でも、どこか不愛想ではない言い方だった。
(……不思議な人)
冷たい声なのに、棘がない。毒舌なのに、拒絶ではない。
テオ様は、また本に視線を戻した。
ページをめくる音だけが、静かに続いていく。
少しずつ、肩の力が抜けていく。
旧図書室の空気は、あの「熱」も「冷たさ」もなくて、ただ、古い紙の匂いと、ページをめくる音だけがあった。
「——君」
また、ぽつりと声が降ってきた。
「口を開けて」
「……えっ?」
戸惑いながら口を開けると、梯子の上から、小さな何かが、ひょいと投げ落とされた。
反射的に受け止めた手のひらに乗ったのは、透き通った氷のような砂糖菓子だった。
「氷晶草の砂糖菓子だ。アクアニアの、古い菓子。——水属性の使い手に、よく効く」
「……え」
心臓が、小さく跳ねた。
「……なぜ、私が、水属性だと」
「君の気配が、そう言っている」
それだけ、言った。
私はおずおずと、砂糖菓子を口に入れた。
ひんやりと、舌の上で溶けていく。
ほのかな甘みと、冷たさが、胸の奥まで染み渡っていく。
(……美味しい)
不思議と、魔力の揺らぎが、すっと鎮まっていった。
「——ありがとう、ございます」
テオ様は答えなかった。ただ、また本に視線を戻す。
それだけ。
それだけだったのに、私はほんの少しだけ、息ができた気がした。
昼休みの終わりを告げる鐘が、遠くで鳴った。
立ち上がりながら、私は、窓の外の空を見上げた。
雲が、ゆっくりと流れている。
(……明日も、ここに来てもいいのかな)
扉を閉める瞬間、梯子の上から、わずかに聞こえた気がした。
「——アクアニア領の北端、凍てつく湖の底に、似た気配だ」
振り返った時には、テオ様は、また黙々とページをめくっていた。
空耳、だったのかもしれない。
七日目の朝。
北方寄宿舎から正門に続く、いつもの人気のない石畳の小道。
いつも通りの時間に寮を出ると——そこに、いた。
漆黒の制服。朝日を受けて神々しいまでに輝く、同い年の少年。
金の瞳が、ただ、まっすぐに私を見ていた。
馬車はない。ハンス様もいない。
ただ一人で、門柱の前に、立っている。
(……また)
背中で、じりりと「熱」が揺れた。
逃げようとした足が、なぜか、動かなかった。
共鳴系の私が、逃げられない理由も、わかっていた。
——あの「熱」は、私を傷つけようとはしていない。
最初の日から、ずっと。
「……おはよう、ございます」
絞り出すように、声を出した。
フェルドラク様は、何も言わなかった。
ただ、金の瞳が、少しだけ、揺れたのが見えた。
長い、沈黙。
それから、ぽつりと、言った。
「……お前のこと、なんと呼べばいい」
(……え)
思わず、顔を上げた。
フェルドラク様は、まっすぐに、私を見ていた。
いつもの威圧感は、今日は、不思議なくらい薄かった。
代わりに——耳の先が、ほんの少しだけ、赤かった。
(……なんで、耳が)
気づかないふりをして、視線を落とす。
「……リアネ、です」
小さく、答えた。
「リアネ」
繰り返された自分の名前が、今朝の空気の中で、やけに澄んで響いた。
「……はい」
「——名前で、呼ぶ」
それだけ言って、フェルドラク様は踵を返した。
漆黒の背中が、朝の光の中を、まっすぐに校舎へ歩いていく。
一度も、振り返らなかった。
私は、しばらく、その場から動けなかった。
手首のブレスレットに、そっと触れる。
朝の石畳は冷たいはずなのに、ブレスレットだけが、今日は、少しだけ温かかった。
(……名前で、呼ぶ)
その言葉が、胸の奥で、静かに反響していた。
(……私は、この人を、どう思えばいいんだろう)
怖いのか。嬉しいのか。戸惑っているのか。わからない。
わからないまま、ただ、今朝の空気が、いつもと少しだけ違っていた。
視線を上げると、校舎の方から、朝の鐘が鳴り始めていた。
私は、眼鏡を押し上げて、ゆっくりと歩き出した。
——目立たず、静かに。それだけでいい。
そう、自分に言い聞かせながら。
けれど、手首のブレスレットは、今朝は、まだ温かかった。
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