第2話「焦土と氷の七日間」前半
特待生に与えられた北方寄宿舎の小部屋は、三階のいちばん端にある。
石造りの古い建物で、外壁には蔦が絡まっていて、春先の隙間風が刺すような質素な部屋だった。
小さな木製のデスクと、軋む椅子と、薄い毛布が一枚。
故郷の農家の小屋と比べれば、十分に「学院らしい」。
それでも私には、もったいないくらい上等だった。
入学から二日目の朝。
亜麻色の髪を手早く束ねて、黒縁眼鏡を押し上げる。
鏡の前には立たなかった。
眼鏡の奥の顔は、母様に似すぎていて、見るたびに胸が痛むから。
猫背気味に肩を落として、なるべく存在感を消すように廊下へ出る——
寮の扉を開けた瞬間、思考が、ぴたりと止まった。
石畳の小道の入口に、磨き上げられた漆黒の馬車が停まっている。
その脇で、朝日を浴びて神々しいほどに輝く制服の影が一つ。
周囲の空気だけが、朝靄をジュッと蒸発させるような異様な熱気をまとっていた。
——アルフォンス・カシウス・フォン・フェルドラク。
昨日、入学式で代表挨拶をした、侯爵令息様。
(……なんで、こんなところに)
北方寄宿舎から正門まで続くこの小道は、普段は教師と一部の生徒しか通らない、人気の少ない通路だ。
そこに、まるで最初から何時間も待っていたかのように、フェルドラク様と馬車が佇んでいる。 彼が、私を見た。
鋭い視線がすっと細められて、整った顔の筋肉が、ピキリと強張る。
「……お……」
静かな、けれど妙によく通る声。
一歩、こちらへ踏み出した、その瞬間——
私の生存本能が、最大音量で警報を鳴らした。
(殺される)
謝る暇も、悲鳴を上げる余裕もなかった。
私は弾かれたように、学院とは真逆の方向へ全速力で走り出していた。
石畳を叩く自分の足音が、心臓の鼓動よりも速く響く。
背後からは、明らかに人間のものとは思えない凄まじい「熱」が追いかけてくる。
石畳が焦げるような匂いと、逃げ場を許さない、確かな足取りの音。
(なんで、私なんかを)
涙目で一度だけ振り返ると、そこには——無表情のまま猛烈な勢いで迫ってくる「焦土の主」の姿があった。
その隣を、なぜか涼しい顔で並走する豪奢な馬車まで見える。
(私、今日ここで人生が終わるんだわ)
死に物狂いで学院の正門を潜り抜け、中庭の噴水の陰に滑り込んだ。
肩で息をしながら、ガタガタと震える手で眼鏡を直す。
そう思った時、視界が、ふっと暗くなった。
巨大な影が、私を飲み込むように落ちる。
「……おい」
頭上から降ってきたのは、底冷えするような、静かな声だった。見上げると、逆光の中に立つ彼が、ゆっくりと手を伸ばしてくるところだった。
「す、すみません、今すぐ消えますっ、存在しててごめんなさいっ」
私は頭を抱えて、地べたに丸まった。彼が何かを言いかけた、その時。
「あら」
聞き覚えのある、高くて甘い声が、背後から飛んできた。
昨日の入学式で見かけた、プラチナブロンドの令嬢だった。
取り巻きの令嬢たちを引き連れて、朝の散歩でもしていたのか、中庭の小道からこちらへ歩いてくる。
——けれど、フェルドラク様の姿を認めた瞬間、彼女の頬が、ほんのわずかに赤く染まったのが見えた。
(……この時間に散歩していたのは、偶然じゃない)
考えかけた私の思考は、次の瞬間、令嬢の甘い声にかき消された。
「フェルドラク侯爵令息様、こんな朝早くからお散歩ですの? まあ、ご一緒できるなんて、光栄ですわ」
うっとりとした声が、途中で、ぴたりと凍った。
視線が、フェルドラク様の足元にしゃがみ込む私を捉えた瞬間、口元に、じわりと嘲笑が広がっていく。
「……あら。こんなところで、何をなさっていますの? まさか、侯爵令息様に、道を譲らなかったのかしら? わたくしたちがお仕置きして差し上げましょうか?」
普段なら関わりたくない人種だけれど、今の私にとっては、たとえ処刑台への案内人であっても、第三者がいるだけで救いだった。
「……何でもない」
地の底から響くような、低い声だった。
フェルドラク様の冷たい視線が、私ではなく令嬢たちを、まっすぐに射抜いた。
「何でもないと言ったんだ。——邪魔だ。どけ」
その瞬間、周囲の温度が、一気に跳ね上がった。
あまりの威圧感に、令嬢たちは「ひっ」と短い悲鳴を漏らし、弾かれたように道を空ける。
プラチナブロンドの令嬢だけが、一瞬、フェルドラク様の背中を名残惜しそうに見つめてから、視線を私に戻した。
その目が、今度は、さっきまでとは別の温度を帯びていた。
(……まずい)
フェルドラク様が、もう一度、私を見た。
その瞳の奥に何が宿っていたのか、眼鏡が曇ってしまった私には、読み取ることができない。
「行くぞ、ハンス」
「——かしこまりました、アル様。……賢明なご判断でしたな。あちらの令嬢、今にも泡を吹いて倒れそうでしたから」
一度も振り返ることなく、フェルドラク様は大股で校舎へと歩き去っていく。
嵐が過ぎ去った後の中庭で、私はしばらく、噴水の水を浴びて冷えていく空気の中、震えを止められずにいた。
助かったのか、助かっていないのか。
理由もわからないまま追いかけられて、最後は怒鳴るように去っていった——けれど、彼は結局、一度も私を傷つけようとはしなかった。
手首のブレスレットに、そっと触れる。 兄様の「隠しておけ」という声が、耳の奥で響いた。
——この人は、私の「何か」に、気づいているのだろうか。
逃亡劇から何とか教室に滑り込んだ私は、できるだけ気配を消しながら、教室の様子を確かめた。
ここは一組——聖アステリア魔導学院の中等部において、魔力上位者だけが配属される特別クラスだ。
魔力の強さがそのまま階級を決めるこの帝国で、一組への配属は「選ばれし者」の証とされている。
そして今年の一組には、なぜか、私がいる。
特待生十名のなかで、公式には最下位の魔力量しか持たないはずの、私が。
(……絶対に、おかしい)
入学後にこっそり集めた噂によると、一組への配属基準は「魔力の出力量」だけではないらしい。
「魔力の質と密度」も評価される——らしい。
選抜試験の時、水晶に小さな亀裂を入れてしまった。
わざと絞ったはずの出力でも、私の魔力の「密度」までは、隠しきれなかったのかもしれない。
(……まずい。これは、本当に、まずい)
眼鏡を押し上げながら、教室の中をぐるりと見渡した。
一番後ろの列、窓際の席に、漆黒の制服を纏ったアルフォンス・カシウス・フォン・フェルドラク侯爵令息様が、静かに座っていた。
(……よりによって、同じクラスなんですか……?)
今朝、全力で追いかけてきたあの人が、よりによって私と同じ一組にいる。周囲の生徒たちが無意識に距離を取るなか、その隣の席だけが、ぽっかりと空いていた。
朝の逃亡劇がなかったかのように、彼はただ、窓の外を見ていた。 彼が座っているだけで、肌がじりじりと焼ける。
共鳴系の私には、あの「熱」が、距離があっても直接届いてくる。
その斜め前——後ろから二列目の席には、茶髪をくしゃっとさせた快活そうな少年が座っている。
セドリック・ヴァン・クロイツ。
フェルドラク様の幼なじみと噂の、伯爵家の子息だ。
授業が始まる前から、すでにフェルドラク様に何か話しかけては、完全に無視されていた。
「……アル、聞いてる? アル?」
「……うるさい」
「返事した! 生きてた!」
(……なんか、普通だ)
思わず、力が抜けそうになる。
あの「焦土の主」に、こんなに気軽に話しかけられる人がいる
——そのことだけで、少しだけ、教室の空気が柔らかくなった気がした。
フェルドラク様の席のすぐ隣の壁際には、ハンスが控えていた。
生徒でもないのに誰も咎めないのは、フェルドラク家の権力ゆえだろうか。直立不動のまま、表情ひとつ変えずに主君を見守っている。
そしてもう一人——教室の前方、窓側の席に、一人だけ異質な雰囲気を放つ少年がいた。
緩く編まれた銀髪に、知的な眼鏡。
開いている本は、どう見ても授業の教科書ではない。
(……あの人は)
「テオ・アクアニア様ですわ」
隣の席の令嬢が、小声で教えてくれた。
「入学式で首席として名前を呼ばれた方。アクアニアから留学していらっしゃる、貴族のご子息よ。氷魔法の使い手で、あの魔力の精度は貴族でも滅多にいないそうね。——だから一組に配属された、という話ですわ」
テオ様は、こちらに視線を向けることなく、黙々と本のページをめくっている。
整った横顔には、一切の感情が浮かんでいない。
アクアニア——母様の、故郷の国の名前。
その単語が胸のどこかに、小さな棘のように引っかかった。
そして、もう一人。 最前列の中央の席に、プラチナブロンドの髪を美しく結い上げた少女が座っていた。
カトリーヌ・ド・ルミエール様。
ルミエール公爵家の令嬢にして、入学からわずか数日で、一組の女子たちの頂点に立った少女。
今朝の中庭で、フェルドラク様に追い払われた、あの人。
その視線は、今も、教室の後方——窓際のフェルドラク様に向けられていた。
頬がほんのわずかに赤く染まっている。
ああ、と、胸のどこかで、静かに納得した。
今朝怒っていたのは、私のせいだったのか。
フェルドラク様のそばに、平民の私が転がっていたから。
その視線が、すっと、私へと移ってきた。
口元に、じわりと、冷たい笑みが広がる。
(……まずい)
肌が、総毛立った。 怖いのとは、少し違う。
今朝までの私は、あの光の中の令嬢を「きれいな人」だと思っていた。
今は違う。——あの笑顔の奥に、私を測るような、冷たい温度がある。
残っていた空席は、廊下側の最前列だった。あまり良い席じゃない。でも、ここなら——最後列のフェルドラク様から、いちばん遠い。
(……ここがいい)
そっと手首のブレスレットに触れながら、腰を下ろした。
——目立たず、静かに卒業する。
それだけで、いい。 そう、自分に言い聞かせた。
けれど、教室の空気だけが、今朝までとは、少しだけ違って感じられた。
一方、教室の後方では。
「……アル。あの子だろ? お前が昨日言ってた『変な子』って」
セドリックが、声を潜めながら言った。
アルフォンスは教科書を開いたまま、視線だけを、教室の隅へと向けた。
(……いた)
昨日の入学式で、水晶に亀裂を入れた子。
魔力を隠して、「並」のふりをしていた子。
今朝、挨拶をしようとしたら、全力で逃げた子。
「……なんで一組にいるんだろうな」
セドリックが首を傾げる。
アルフォンスは、黙ったまま教科書に視線を戻した。
(……なぜだろうな)
自分には、なんとなく、わかる気がしていた。
あの水晶の亀裂の一瞬——見えたのは、深海のような濃い青だった。
抑えに抑えた、その奥に、とてつもない密度の魔力が沈んでいる。
それを見抜いた教師が、あの子を一組に入れたのだろう。
けれど、今はそれよりも、別のことが気になっていた。
(……また、凪いでいる)
あの子がこの教室に入ってきた瞬間から、自分の「火」が、不思議と穏やかになっている。
感情が揺れているはずなのに、指先に熱が寄らない。 生まれて初めての感覚だった。
さらに、教室の前方では。
テオは、手元の本から視線を上げることなく、静かに思っていた。
(……水属性)
入学式で、一瞬だけ滲んだ深海の青。あの色を、テオは知っていた。
アクアニアの古い文献に記された、伝説の魔女——その魔力の色と、酷似していた。
(……まさか、ここで出会うとは)
本のページをめくりながら、そう思った。 急ぐ必要はない。まずは、観察だ。
(……でも、面白いことに、なりそうだ)
夕暮れ。
学院の貴族棟、最上階の角部屋。
一組に配属された貴族生徒だけが使用を許される、貴族専用サロン。磨き上げられた木の床に、暖炉の前の深い緑のソファ、壁一面に並ぶ書棚、細工の凝ったシャンデリア。高い窓から差し込む夕日が、大理石の床をゆっくりと黄金色に染めていた。
アルフォンスは窓際に立ったまま、自分の掌を、ただ見つめていた。
「——アル」
深緑のソファに腰掛けながら、セドリックがタルトを片手に声をかけた。蜂蜜色の癖毛を揺らして、明るい茶色の瞳を友人の背中に向ける。
昨夜のサロンでは、アルが珍しく心細そうな声で「俺、あいつと『ともだち』とかいうのに、なれると、思うか」と呟いて——ハンスが「まずは明日の朝、ご挨拶から」と女子寮の場所まで調べ上げた。
そして今朝、結果は——全力疾走で逃げられた。
「……で、どうだったよ。今朝の『ご挨拶』」
セドリックが、にやりと笑う。責めているわけじゃない。ただ、からかいたい顔だった。
アルフォンスは答えなかった。ただ、自分の指先をもうひと呼吸見つめてから、ぽつりと口を開いた。
「……全力で、逃げられた」
「そりゃそうだろ!!」
セドリックが、タルトを持つ手をぴたりと止めた。
「だから昨日言っただろ! お前の『挨拶』は『処刑宣告』だって! 馬車まで待機させて、夜明けから女子寮の前で立ってるとかさ、あの子からしたら恐怖でしかないからな!?」
「……」
「で、それでも教室でずっと凝視してただろ」
「……凝視は、していない」
「してた!! 教室中の皆が、お前の視線の先を目で追ってたぞ!」
「……」
「アル!」
ゲラゲラと笑うセドリックを、アルフォンスは珍しく、言い返さずに黙り込んだ。
暖炉の火が、ぱちりと爆ぜる音がした。
長い沈黙の後、アルフォンスがぽつりと言った。
「……今日、もう一度、感じた」
「……?」
「あの子が教室に入ってきた瞬間、また俺の『火』が、静かになった」
昨夜、一瞬だけ感じたあの「凪」。それが気のせいではなかったことが、今日、はっきりとわかった。感情が揺れているはずなのに、指先に熱が寄らない。あの子が近くにいるあいだ、ずっと——生まれて初めての、穏やかな温度だった。
「……本当に、あの子の側だけ、違うんだよな」
セドリックが、タルトを置いた。
「アル」
「ん」
「でもお前、今朝のやり方じゃ、二度と近づけないぞ」
「……」
「あの子、お前のこと本気で怖がってたぞ。地べたに丸まって震えてた」
アルフォンスは、窓の外の夕日を見ていた。
(……追いかけたりして、怖がらせたのは、俺だ)
今朝、全力で逃げていくあの子の背中が、まだ目の奥に焼きついている。眼鏡の奥で、きゅっと目を伏せて、それでも歯を食いしばって逃げていた、その横顔も。
(……俺は、なんであんなに、追いかけてしまったんだろう)
わからなかった。挨拶をしたかったのだと、昨夜ハンスに言った。実際、そのつもりだった。でも本当は——もう一度、あの凪の感覚を確かめたかっただけかもしれない。
掌を、そっと握ってみる。あの瞬間の、落ち着いた温度が、まだ、残っている気がした。
——また、あの子を見たい。
そう思った瞬間、指先に、ふっと熱が寄った。慌てて、きゅっと握り込む。
(……落ち着け)
誰かに「会いたい」と思うのは、昨日までは、ただの好奇心だった。今日は、違った。もう一度あの凪を確かめたくて、でも、怖がらせたくなくて——その二つが、胸の奥で、せめぎ合っている。
「……セド」
「なんだよ」
「明日は、挨拶は、しない」
「……おっ、わかってきたじゃないか」
「……でも、教室では、見る」
「やめろ!!」
セドリックの絶叫が、サロンに響き渡った。
ハンスが、壁際から静かに歩み出て、アルフォンスの前に新しい紅茶を注いだ。その湯気が、夕暮れの光の中で、ゆらりと揺れる。
「……アル様」
「……なんだ」
「明日は、穏やかな距離感で、お願いいたします」
「……わかっている」
ハンスの口元が、ほんのわずかに緩んだ。
——それは、主君の背中からは、見えない位置で。
※本作はnoteでも掲載中です。noteが最新話となります。




