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第15話「静かな予兆」後半③



夜の南方寄宿舎の自室の窓辺で、アルフォンスは一人、外に目を向けていた。


夜の中庭の上に、雲の隙間から月の光がひと筋、低く降りている。夏の終わりの夜の空気が、貴族棟の高い窓ガラスの向こうで、夜の温度に沈み始めていた。


セドリックは、もう、自分の部屋に戻っていた。ハンスは夕暮れのサロンでの対話のあと、夕方アルフォンスが旧図書室から戻るのを見届けて、侍従の部屋へ下がっていた。


——一人になった。


それを、アルフォンスは確かめた。


夜の自室の空気の中で、自分の指先の熱が、いつもよりも内側で深く凝り続けていた。誕生日会の夜の暴れる火でも、今朝の廊下の構築系で押し固めた火でもなかった。今夜の火は、もう一段別の温度をしていた。


——預ける火。


その輪郭が、夕方の旧図書室で初めて、アルフォンスの中に立ったかたちだった。




——今日のうちに、四つ。


アルフォンスは、自室の窓辺で、自分の中の輪郭を確かめた。


今朝の廊下で、カトリーヌに釘を刺した。「教室では、外せ」。あの一言が、ルミエール公爵家令嬢の中に確かに届いた。それが今日の最初の動きだった。


夕暮れのサロンで、ハンスに問うた。「あの男も、リアネの兄だったのか」。ハンスは、「井戸端でお会いになった時には、もう繋がっておりました」と返した。「いつか、俺から、訪ねる日が来るかもしれない」。リアネの兄の所在を、自分の口で輪郭にした。それが今日の二つ目だった。


夕方の旧図書室で、リアネに告げた。「昨日、見ていた」「今朝、しかるべきところに釘を刺した」。

それから、「今夜、寮の窓辺に、いるか」「今夜、月が出るらしい」。

声に出して「これから何をする」とは言わなかった。

リアネはたぶん、その意味を全部は受け取れていなかった。

けれど「窓辺にいよう」と頷いた。それで、十分だった。それが今日の三つ目だった。


——そして、今夜。


最後の四つ目が、夜の中庭にある。


アルフォンスは旧図書室から自室に戻ったあと、しばらく窓辺で月の出を待っていた。日が完全に落ちて夜の中庭の上に月の光が降りるまで、自室の空気の中で自分の指先の熱を、内側で凝らせ続けていた。


——預ける火を、作る。


その時間が、必要だった。




アルフォンスは、自室の窓辺から離れた。


漆黒の制服の上着を、きちんと留め直した。革手袋の指先を確かめた。今夜の熱は、内側で凝り続けていて、外には漏れていなかった。「黒き太陽」の構造が、もう、自分の中でしっかりと組まれていた。


部屋を、出た。


南方寄宿舎の最上階の角部屋から、廊下を一段ずつ降りていく。革靴の音が、夜の寮の廊下の上で、いつもより低かった。寮母さんの部屋の灯りは、もう消えていた。誰にも、見つからない。


寮の正面の扉を、静かに開けた。


夜の中庭の風が、ふっとアルフォンスの漆黒の制服の上を抜けていった。




南方寄宿舎を出て、夜の中庭の石畳の上を、アルフォンスは歩き出した。


中庭の中央の小さな噴水のあたりまで来ると、夜の静寂の中で水音だけが薄く立っている。学院の本校舎の建物の影は、夜の藍色の中に低く沈んでいた。月の光が、雲の隙間からひと筋、石畳の上を斜めに渡っていた。


——北方寄宿舎の方へ。


その方角を、アルフォンスは知っていた。


特待生寮。リアネが住む場所。フェルドラク侯爵家の跡取りが、本来、近づく場所ではなかった。けれど今夜、アルフォンスはそこへ向かって歩いていた。


夜の中庭を抜けて、本校舎の北の側へ。それから、北方寄宿舎の建物の影の中へ。


——蔦の絡んだ古い石造りの建物。


そこに、リアネの部屋があった。三角屋根の三階の角の部屋。


アルフォンスは、北方寄宿舎の正面の小さな門の手前で、足を止めた。


それから、建物の側面へ静かに回り込んだ。




北方寄宿舎の建物の真下、夜の小さな木の影の中で、アルフォンスは見上げた。


三階の三角屋根の角の部屋の窓。月の光の中で、薄く灯りが漏れていた。誰かが起きている灯りだった。


——リアネ。


アルフォンスの口の中で、その名前が、低く形を持った。


声には出さなかった。出せば、夜の中庭にすべてが響く。


少しのあいだ、アルフォンスは小さな木の影の中で、ただ見上げていた。三階の窓の灯りは、しばらく動かなかった。それから、ふっと、窓の向こうで何かが動く気配があった。


——気配。


アルフォンスの肌の感覚が、ガラスの向こうのリアネの魔力の輪郭の動きを、薄く拾っていた。共鳴系ではない火属性のアルフォンスにも、それくらいは、察せた。リアネは今夜、窓辺の椅子から立ち上がって、いまこちらへ近づいてきている。


その気配を、アルフォンスは下から見上げて、待っていた。




三階の窓の向こうに、亜麻色の髪を一つに束ねた人影が、立った。


ガラス越しに、上から、リアネがアルフォンスを見下ろした。


アルフォンスも、下から、見上げた。


——七メートルほどの距離。


声を届けるには、夜の中庭にすべてが響く。だから、声は使わない。リアネがその意味をすぐに察するだろうことを、アルフォンスは知っていた。


ガラスの向こうのリアネが、ひと度、息を呑む気配があった。「窓を開けるか」と問うような視線が、上から、こちらへ降りてきた。


アルフォンスは、わずかに、首を横に振った。


——このまま、でいい。


その意味を、リアネはすぐに受け取った。リアネの動きが、窓を開けようとする方向からガラスに片手を置く方向へ、静かに変わった。それが、下からも見えた。


それで、いい。


——ここからが、今夜の仕事だった。




アルフォンスは、右手を、ゆっくり持ち上げた。


革手袋の指先の上で、内側で凝り続けていた火が、ふわりと外へ出てきた。


赤い縁、その中心に黒。


——黒き太陽。


あの夏のフェルンハイムの水路のほとりで、初めて見せた構築系の魔術。誰よりも頭ひとつ抜けた火力を持つ、災害級の構築系。けれど今夜のアルフォンスは、その火力を、たった一粒の小さな核として作っていた。


指先の上で、黒き太陽の核は、夜の中庭の風の中で揺るがなかった。


——ここから。


アルフォンスは、その核の中に、別のものを込めにかかった。


火に、声を込める。


構築系の最高位の応用だった。父様も、ハンスも、この応用までは知らないはずだった。アルフォンスがあの夏から、ひとりで磨いてきた、自分だけの技術。誰のためでもなく、いつかこういう夜のために磨いてきた。


——リアネ、と。


アルフォンスは火の核の中に、その名前を最初に込めた。


それから、もう一行。


——お前ひとりの力じゃ、足りない時に。


——俺の火が、お前の水と、繋がる。


その一行を火の核の中に、低く、深く、置いた。


声は、外には出さなかった。火の核の中で、その声は、確かに形を持っていた。




アルフォンスは、火の核を空中へ押し上げた。


夜の中庭の風の中を、黒き太陽の小さな核が、ふわりと上昇していった。北方寄宿舎の蔦の絡んだ古い石壁の縁をひと筋ずつ撫でるように、まっすぐに三階の窓の方へ。


七メートルの距離を、その核は焦らずにゆっくり上がっていった。


——届け。


アルフォンスは、地上から、見上げていた。


火の核が、三階の窓ガラスの前まで、来た。


——ガラスを、通り抜ける。


構築系の最高位の応用がもう一つ、ここで効いた。火の核は、ガラスを溶かさず、軋ませず、ふっとガラスの表面を抜けて、向こう側のリアネの左の手のひらの中に降りていった。


ガラスのこちら側の遠い下から、アルフォンスはそれを確かめていた。


リアネの左の手のひらの中で、火の核がもう一度ふわりと震える気配が、アルフォンスにも下から伝わってきた。それから火の核は、リアネの左の手首のブレスレットの薄水色の石の中へ降りていった。


降りていって、そこに、定着した。


——届いた。


その瞬間、ガラスの向こうの遠い上で、リアネの左の手のひらがガラスにそっと置かれるのが見えた。共鳴系のリアネが、火の核を確かに受け取った、という仕草だった。




ガラスの向こうの遠い上で、リアネがしばらく、その手のひらをガラスに置いたままにしていた。


その手のひらの場所を、アルフォンスは下から見ていた。共鳴系のリアネが、こちらへ意思を返しているのが、肌で伝わってきた。「届きました」と、声にはしないけれど、確かに返事がそこにあった。


アルフォンスは、わずかに、頷いた。


それから火の核の中に、最後の声をもう一行だけ込めた。


——いつか、その「時」が来たら。


——俺の火が、応える。


その一行がブレスレットの中の火の核の温度に、もう一段深く沈んだのが、下からのアルフォンスにも察せた。


それで、十分だった。


——今夜は、ここまで。


アルフォンスは、最後にもう一行だけ、火の核の中に置いた。


——おやすみ、リアネ。


ガラスの向こうの遠い上で、リアネの肩のラインが、わずかに動いた。「おやすみなさい」を返す動きだった。アルフォンスには、それが届いた。




アルフォンスは、右手を下ろした。


指先の上の黒き太陽の核はもう、ブレスレットの中に降りて定着していた。


——預けた。


その輪郭がアルフォンスの中で、初めてはっきりとした。


「(……渡さない)」は、十三歳の誕生日の夕暮れに胸の中で生まれた言葉だった。それが今朝、行動の温度になった。そして今夜、行動そのものになった。


——預ける。


——繋がる。


——いつか応える。


その三つの輪郭がいま、アルフォンスの中でそれぞれの場所に置かれた。「(……渡さない)」は、もう、心の中で繰り返すだけの言葉ではなくなった。けれどまだ、その先の言葉ではなかった。「預ける」「繋がる」「応える」と、その先の言葉のあいだには、まだ、距離があった。


その距離を、アルフォンスはまた、今夜も越えなかった。


越えなかったことを、自分で知っていた。


——まだ、その時ではない。


——けれど、今夜は、ここまで、動いた。


その事実だけを、アルフォンスは胸の内側に置いた。




夜の中庭の小さな木の影から、アルフォンスは、もう一度だけ、見上げた。


ガラスの向こうの遠い上で、リアネがまだこちらを見ていた。月の光のひと筋が、その亜麻色の髪のいちばん高いところを、薄くなぞっていた。


声には、出さずに、アルフォンスは踵を返した。


革靴の音が、石畳の上で、いつもより低かった。北方寄宿舎の蔦の絡んだ古い石壁の影が、アルフォンスの背中の後ろで、夜の藍色の中に静かに沈んでいった。




南方寄宿舎の自分の部屋に戻る頃には、夜の中庭の月の光はもう、いつもの場所に戻っていた。


アルフォンスは自室の窓辺で、外を見た。


——夜の中庭。


——北方寄宿舎の方の、三角屋根の三階の窓。


そこに、薄く灯りがまだ残っていた。リアネが、まだ、窓辺にいる気配だった。


「……おやすみ」


低く、自分にだけ聞こえる声でもう一度置いた。


それから、革手袋を、ゆっくり外した。


——お前のところに、いま、ある。


ブレスレットの薄水色の石の中で静かに灯っている、自分の火の温度。それを、アルフォンスは遠くから、肌で知っていた。


それで、今夜は、十分だった。




窓の外の夜の中庭で、夏の終わりの夜の風が、ひと吹きで抜けていった。


——今夜、動いた。


——朝廊下で、夕暮れのサロンで、夕方の旧図書室で、そして今夜の中庭で。


——着実に。


ハンスの声がアルフォンスの中で低く形を持った。


「(……渡さない)」と、その先の言葉のあいだの距離は、まだ、越えていなかった。けれど、その距離が今日、ひと粒ぶんだけ確かに縮まった。


——明日もまた、リアネと同じ教室で過ごす。


——けれどそれは、明日の話だ。


アルフォンスは、ようやく、窓辺から離れた。


革手袋を机の上に置いて、自分のベッドの方へ歩いていった。革靴を脱ぎ、漆黒の制服の上着の釦をひとつずつゆっくり外した。今夜は、もう、焦がさなくていい釦だった。


——今夜、お前のところに、預けた。


ベッドの縁に腰を下ろして、アルフォンスは、ふっと息を吐いた。


夜の中庭の上を、月の光がもう一筋、低く降りていた。





※本作はnoteでも掲載中です。noteでは第1部全15話完結しています。

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