表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
59/59

第15話「静かな予兆」後半④



寮の自室の窓辺の椅子に、私は座っていた。


夜の藍色がもう、窓の外の空を完全に覆っていた。

北方寄宿舎の最上階の小さな部屋。三角屋根の三階の角の部屋。

石壁の片側に古い木の本棚、もう片側に古い木のベッド、窓辺に木の机と木の椅子。窓辺の木の人形が、夜の藍色の中で、いつもの場所に立っていた。


机の上の本はずっと開いたままだった。けれど、私の目はその一行も追っていなかった。


——今夜、月が出るらしい。


アルフォンス様の声が、夕方の旧図書室の橙色の光の中で私の中に置かれた一行。

その「月が出る」が何を意味するのかを、私はまだ知らないままだった。ただ知らないままで、窓辺にいよう、と決めて、いま、こうして座っていた。


右の手首のブレスレットはいつもの温度に戻っていた。けれどその薄水色の石の奥にアルフォンス様の火の温度の名残がまだ薄く置かれたままだった。




窓の外の中庭の方で、何かが動いた気がした。


私は窓辺の椅子から立ち上がった。


夜の風が窓ガラスの向こうから、私の方へ流れてくる温度を変えていた。共鳴系の私の肌が、その温度の中に、知っている誰かの魔力の輪郭を感じ取っていた。


——アルフォンス様。


私は、窓に近づいた。


窓ガラス越しに、三階の真下の中庭を見下ろした。


北方寄宿舎の建物の下、夜の小さな木の影に、漆黒の制服の人が立っていた。月の光が雲の隙間からひと筋、その人の漆黒の髪のいちばん高いところをなぞっていた。


——アルフォンス様。


私は、息を呑んだ。


なぜここに、という問いが胸の奥で形を持ち始めた。北方寄宿舎は特待生の寮で、貴族棟の人がここまで来ることは本来ない。けれどアルフォンス様は今夜、三階の窓の下の中庭まで来ていた。


下からアルフォンス様がこちらを見上げた。


窓のこちら側の私と、窓の向こうの七メートルほど下のアルフォンス様の視線が、月の光の中で、ひと度まっすぐに合った。




——窓を、開けるべきか。


私はひと拍だけ迷った。


けれど窓の向こうのアルフォンス様がわずかに首を横に振った。


——このまま、でいい。


その意味を、私はすぐに知った。窓を開ければ夜の中庭の方へ音が広がる。誰かに見つかる。

アルフォンス様はそれを避けたいということだった。


私は窓ガラスに右の手のひらをそっと置いたままで、窓を開けずに、下のアルフォンス様の方を見ていた。


——けれど、これでは話せない。


七メートルほどの距離。声を届けるには夜の中庭にすべてが響く。届かない方が、いまの私たちにはふさわしい距離だった。


その時。


下のアルフォンス様が、右手の指先を持ち上げた。




アルフォンス様の指先の上で、小さな火の核がふわりと立ち上がった。


赤い縁、その中心に黒。


——黒き太陽。


私はその輪郭を知っていた。フェルンハイムの水路のほとりで十二歳のアルフォンス様が初めて見せた構築系の魔術。それをいまアルフォンス様は、指先の上でたった一粒の小さな核として作っていた。


火の核は夜の中庭の風の中で揺るがなかった。


アルフォンス様の指先がその火の核を空中へと押し上げた。


——上がってくる。


その火の核が北方寄宿舎の壁伝いに、三階の私の窓の方へふわりと上がってきていた。重力に逆らうように、けれど焦らずにゆっくり夜の中庭の風の中をまっすぐに。


七メートルの距離が、その火の核の上昇のあいだに縮まっていった。




火の核が、私の窓ガラスの前まで来た。


ガラスの向こうの夜の闇の中で、その火の核がひと粒、ガラスに触れた。


——ガラスを通り抜ける。


赤い縁の核がガラスの表面に触れた瞬間、ガラスを溶かすこともなく、軋ませることもなく、ふっとこちら側の私の右の手のひらの中へ降りてきた。


その火の核から、火の温度よりも先に、別のものが私の中に届いた。


——声。


アルフォンス様の、声。


「リアネ」


低い、よく通る声だった。火の核の中に確かに込められていた。私の耳には聞こえない。けれど私の奥のいちばん静かなところに、まっすぐに響いた。


——アルフォンス様は、火に、声を、込められる。


その能力を、私はいま初めて知った。構築系の最高位。指先の火をただの熱ではなく、意図と声を運ぶ器に変えてしまう、アルフォンス様の魔術。


私はガラスに置いた右の手のひらを、そっと胸の前へ引き寄せた。


火の核は私の右の手のひらの上でもう一度ふわりと震えた。それから、右の手首のブレスレットの薄水色の石の底へ降りていった。


降りていって、そこに小さな火の核として定着した。




「リアネ」


アルフォンス様の声が、もう一度、私の内側で低く響いた。


「……はい」


私は声に出さずに、心の中で応えた。共鳴系の私の体が、その「はい」を窓の向こうのアルフォンス様まで届けたかは、わからなかった。けれど、応えずにはいられなかった。


「……お前ひとりの力じゃ、足りない時に」


——足りない時に。


「……俺の火が、お前の水と、繋がる」


——俺の火が、お前の水と、繋がる。


その一行が、夜の中庭の月の光の中で、私の内側に、ゆっくりと置かれた。


窓の向こうの遠いアルフォンス様の金の瞳が、夜の中でいつもよりも深い色をしていた。月の光のひと筋がその瞳の奥を、まっすぐに通り抜けていた。


——独占欲の印、というには、まだふさわしくない言葉だった。


ただ繋がる、という一行だけが私の中に確かにあった。お前ひとりの力じゃ足りない時に、俺の火が、お前の水と、繋がる——その輪郭がいま、ブレスレットの薄水色の石の奥に、火の核として置かれていた。





「リアネ」


「……はい」


「……今夜は、ここまでだ」


——ここまで、だ。


アルフォンス様の声は低く、平らだった。けれどその平らな温度の下に、別のものが置かれていた。


「……いつか、その『時』が来たら」


——いつか。


「……俺の火が、応える」


それだけ込めて、アルフォンス様の声は火の核の中から消えた。


窓の向こうの下のアルフォンス様は、右手を下ろした。指先の上にあった黒き太陽の核は、もうなかった。


「……おやすみ、リアネ」


最後の声が夜の中庭の風の中で、私の内側に低く届いた。


——おやすみなさい、アルフォンス様。


声には出さなかった。代わりに、私はガラスにそっと置いた右の手のひらの場所を、ほんのわずかに動かした。お辞儀のように、肩のラインも、わずかに傾けた。


その動きを、下のアルフォンス様は見ていた。


アルフォンス様は夜の中庭の月の光の中でわずかに頷いた。


それから、漆黒の制服の背中が夜の小さな木の影からゆっくり離れていった。月の光がふたたび、その漆黒の髪のいちばん高いところをなぞった。それから、影の向こうの貴族棟の方へ遠ざかっていった。




私はガラスに片手を置いたままで、しばらく動かなかった。


窓の向こうの夜の中庭は、もういつもの夜の温度に戻っていた。けれど私の右の手首のブレスレットの中で、アルフォンス様の火の核が、薄水色の石の奥で静かに灯り続けていた。


——アルフォンス様の、火。


——私の、水。


——いつか、その「時」が来たら、繋がる。


その輪郭を、私は自分の中で受け取った。




ガラスから指を離した私はもう一度、窓辺の椅子に座った。


机の上の本はまだ開いたままだった。けれど私の目は、もうその一行も追えなかった。追う必要もなかった。今夜、私の中に置かれたものの方が、本に書かれた何よりも深かったからだった。


——母様。


ふと、その名前が胸の奥で形を持った。


母様。アクアニア出身の、深海の魔女と呼ばれた人。その頃の母様のことを、私はまだ何も知らない。私の中では輪郭の薄い、けれど確かに私の血の半分を作った人。


母様もいつかどこかで、こういう夜を過ごしたことがあるのだろうか。


知っている誰かの火を、ガラス越しに受け取る夜を。


——わからなかった。


けれど、わからないことをわからないままで、私は今夜、ブレスレットの中の小さな火の核を受け取った。母様にもこんな夜があったのかは、知りようがない。でもいまこの夜は、確かに私のものだった。


その違いだけが、私と母様のあいだにはっきりとあった。




——その時。


寮の廊下の方から、足音が聞こえた。


夜のこの時間に北方寄宿舎の廊下を歩く人は、めったにいない。寮母さんの足音とも、警備の人の足音とも違った。もう少し軽い。けれど確かな足取りで、誰かが寮の廊下を歩いていく音だった。


その足音の前で、誰かが立ち止まる気配があった。


廊下のもう一つの足音と合流する気配。


「……アクアニアから参りました」


女性の声が廊下の向こうから届いた。


——アクアニアから。


私は窓辺の椅子の上で、息を呑んだ。


「テオドール様にお取り次ぎを」


女性の声は優雅で、よく通って、けれどどこか夜の藍色の底と同じ温度をしていた。テオ様にお取り次ぎを、というその一文の中に、私の知らない何かが置かれていた。


寮母さんの返事の声がして、それから足音は、廊下の奥の方へ遠ざかっていった。


——アクアニアから、誰かが来た。


私はその事実だけを、自分の中で受け取った。


顔は見ていない。名前も知らない。けれど夜の寮の廊下で、その人がアクアニアの誰かであり、テオ様に取り次ぎを求めたということだけは確かにあった。


——あの人が、テオ様の言っていた「もう一人」だ。


その輪郭が、私の胸の奥で、静かに立ち上がった。


昼休みの旧図書室でテオ様が告げた一行。「俺の留学が終わるのと、入れ違いに——アクアニアから、もう一人、留学生が来る」。あの「もう一人」が、いま、夜の寮の廊下を歩いている。


「年は、十五。学院の最終学年級だ」——テオ様の声。


「アクアニアの中央魔導院から派遣される」——テオ様の声。


「俺と、同じ目的で来るとは、限らない」——テオ様の声。


その声のすべてが、いま、胸の奥で、もう一度かたちを持った。




私は、右の手首のブレスレットを見た。


薄水色の石の中で、アルフォンス様の火の核が静かに灯っていた。


——アルフォンス様の、火。


——私の、水。


——そして、アクアニアから来た、知らない誰か。


その三つが今夜、私の中でそれぞれの場所に置かれた。


窓の向こうの夜の中庭は、もう月の光だけがひと筋、低く降りていた。窓辺の椅子の上で、私はゆっくり右の手のひらを胸の前に置いた。


ブレスレットの上に。


火の核の上に。


そして、その下のいちばん深いところに——。




——私は、深海の魔女の、娘だ。


声には、しなかった。


ただ、いちばん深いところに、戦う覚悟として、置いた。




夜の中庭の上を、夏の終わりの夜の風がひと吹きで抜けていった。


明日がもうすぐ来る。


その明日が何を運んでくるのかを、私はまだ知らなかった。けれど、知らないことを知らないままで、私は今夜、ブレスレットの中の小さな火の核と一緒に明日を待つことに決めた。


それで、いい。


それで、いま、十分だった。


窓の外の月が、雲の隙間からもう一筋、夜の中庭の上に光を落とした。




※本作はnoteでも掲載中です。

ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

第1部は、この15話で完結いたしました。

(続編は、新作として近日始動予定です。)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ