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第15話「静かな予兆」後半②



夕方の北廊下を、私は旧図書室の方へ向かって歩いていた。


放課後、教室棟を出て本校舎の北の最奥へ。重い石造りの扉の旧図書室まで、いつものこの距離が、今日は少しだけ長く感じた。


——昼休みのことを、思い出していた。


私は左の手首のブレスレットに、もう一度だけそっと触れた。薄水色の石は、いつもの温度に戻っていた。


胸の中で確かめた。




——午前最後の授業の終わりの鐘が鳴った後。


私はいつものように旧図書室へ足を向けた。昼休みのこの時間、テオ様はたいてい食堂の方に向かわれることが多くて、旧図書室はしばらく静かなままだった。私はそのしばらくのあいだの空気の中で、いつも一人で本を読んでいた。


旧図書室の重い石造りの扉の前まで来た時。


扉が、向こうからゆっくりと開いた。


——あ。


漆黒の制服の人が、扉の内側に立っていた。


「……アルフォンス様」


私は、扉の前で、小さく頭を下げた。


アルフォンス様は扉の内側で立ったままだった。私が顔を上げると、午後の昼休みの光が旧図書室の北の窓から斜めに差し込んで、アルフォンス様の漆黒の髪のいちばん高いところをわずかになぞっていた。


——あの時、アルフォンス様がここにいた。


それが、いまでも、私の中ではっきりとあった。


「リアネ」


低い、よく通る声だった。


「……はい」


「……今日の夕方、もう一度、ここに来てほしい」


——夕方、ここに。


私は一度、その言葉の意味を測れなかった。けれど、すぐに頷いた。


「……はい」


アルフォンス様は頷きもしなかった。ただしばらく、私の左の手首のブレスレットの場所をまっすぐに見ていた。


それから、扉の外へゆっくりと歩き出した。すれ違いざま、アルフォンス様の漆黒の制服の袖が私の左の手首の高さをほんの一瞬かすめた気がした。


——かすめた、というよりも、近づいた、というだけだったかもしれない。


けれど、その一瞬。


ブレスレットの薄水色の石が、昼休みの光の中で、わずかに温かくなった気がした。


それだけが、昼休みの旧図書室で私の中に置かれた、いちばん確かなことだった。




——午後の授業のあいだ。


私はその温かさのことを胸の奥に置いたまま、先生の声を聞いていた。


何の授業だったかは、もうよく思い出せなかった。ノートは取った。質問もされなかった。けれど、私の心臓はいつもよりほんの少しだけ速く打ち続けていた。


——夕方、また、あの場所で。


なぜ夕方なのか。


なぜまた、なのか。


その問いの答えは、いまの私には、まだ見えなかった。ただ、アルフォンス様の声の温度の中に何か別のものがあるのだ、ということだけは、肌で知っていた。昼休みの短い対話の中では言えなかった何かが。


午後の授業の鐘が、何度か、廊下の遠くで鳴った。




放課後の北廊下の上を、夏の終わりの夕方の光がゆっくり橙色に染まり始めていた。


私はもう一度、旧図書室の重い石造りの扉の前に立った。


——テオ様の場所。


そう、長いあいだ私の中で形を持っていた場所。けれど今日のこの扉の向こうには、別の人が待っているということを、私は知っていた。


私は、扉に手をかけた。


ゆっくり、開けた。




旧図書室の北の窓辺に、アルフォンス様が立っていた。


夕方の橙色の光が窓から斜めに差し込んで、アルフォンス様の漆黒の制服の輪郭をなぞっている。長机の上には、誰も使っていない古文書がいつもの場所に閉じたまま置かれていた。


——テオ様のいない、今日の旧図書室。


そして、アルフォンス様がその場所に立っていた。


「……アルフォンス様」


私は、扉を後ろ手にそっと閉めた。


「リアネ」


アルフォンス様は振り返らずに低く名を呼んだ。窓の外の中庭の方を見たまま、しばらく何も言わなかった。


「……来てくれて、ありがとう」


それが、アルフォンス様の最初の言葉だった。


私は長机の手前で、立ったまま頭を下げた。


「……いえ」


それ以上の言葉は出てこなかった。出てくる前にアルフォンス様が窓辺から振り返って、私の方を見たからだった。


——金の瞳。


その色が夕方の橙色の光の中で、いつもよりも、深かった。




「リアネ」


「……はい」


「……昨日、大丈夫だったか」


——昨日。


その「昨日」が何を指しているのかを、私はすぐにわかった。


昨日の午後、実技棟であったこと。カトリーヌ様の星型の銀の髪飾りから細く滲み出た、あの増幅系の魔道具の光属性の式が、私の内側を乱しかけたこと。私が自分の意志でその水を抑えたこと。


ぜんぶ見ていたということを、いまその声の温度で、私は知った。


「……はい」


私はブレスレットの上に左の手のひらをそっと重ねた。


「……大丈夫、です」


「そうか」


アルフォンス様はそれだけ応えて、それ以上は続けなかった。


長机を挟んだ向こう側の窓辺で、ただ、夕方の光の中に立っていた。私はその距離のままがいまの私にはちょうどよかった。近づくことも離れることも、どちらも、できない距離だった。




「……アルフォンス様は」


私は、自分でも思わない言葉を口に出していた。


「あの時、教室に、いらしたんですね」


その問いを置いて、私は自分の心臓の音が少し速くなったのを知った。


アルフォンス様はひと拍だけ間を置いた。


「……ああ」


低い、平らな声だった。


「……最後列の窓際から、ぜんぶ見ていた」


——最後列の窓際から。


私は、声に出さずに、ひと度息を呑んだ。


同じ教室の中にアルフォンス様がいらしたことは、もちろん知っていた。けれど「ぜんぶ見ていた」というその一行が、私の中に置かれた重さは、知っていることとは別だった。


カトリーヌ様が髪飾りに触れる前から。私の内側で水が乱されかけた瞬間も、抑えきった瞬間も。ぜんぶアルフォンス様は最後列の窓際の席から見ていてくださった、ということだった。


「……」


何も言えなかった。


ありがとうございます、とも、見ていてくださってありがとう、とも、何も言えなかった。ただブレスレットの上の手のひらの温度が、私の中で確かに上がった。




「リアネ」


アルフォンス様がまた低く名を呼んだ。


「……あの髪飾りのことは、もう、いい」


——あの髪飾り。


私は、その意味を測りかねた。


「……もう、いい、というのは」


「……気にするな、ということだ」


アルフォンス様の声は低く、平らだった。


「今朝、しかるべきところに釘を刺した」


——今朝、しかるべきところに、釘を刺した。


私の中で、その一文がゆっくりと形を持ち始めた。


今朝。朝の廊下のどこかでアルフォンス様は私の知らない場所で、何かを動かしてくれていたということだった。


——告発、ではなかった。


その言葉だけが、私の中でなぜかはっきりとあった。アルフォンス様はカトリーヌ様を告発するような派手な動き方はしていない。ただ、釘を刺した。フェルドラク侯爵令息の流儀で静かに、けれど確かに。


「……アルフォンス様」


私はもう一度、小さく顔を上げた。


「……ありがとう、ございます」


その言葉が、自分でも思っていたよりも、低い声で出た。


アルフォンス様は頷かなかった。ただその金の瞳の中の温度が、夕方の光の中で、別の場所に動いた気がした。




旧図書室の北の窓の外で、夕方の光がもう一段、橙色を深くした。


長机の上の閉じた古文書の革の背表紙が、その光を低く返している。窓の外の中庭の木々がゆっくり夕暮れの中に沈んでいくのを、私はアルフォンス様の肩越しに見ていた。


——テオ様のいない、今日の旧図書室。


——けれど、いま、ここに、別の人がいる。


それが今日の夕方、私の中で初めて形を持った輪郭だった。


「リアネ」


アルフォンス様がまた低く名を呼んだ。


「……はい」


「……今夜、寮の窓辺に、いるか」


——窓辺に。


私はその問いの意味を、すぐには測れなかった。


「……はい。いつもは、窓辺で、本を、読みます」


「そうか」


アルフォンス様はそれだけ応えた。


応えて、それ以上は何も続けなかった。何のために窓辺にいるかを聞いたのか、その答えはいまの私には、まだ見えなかった。けれどアルフォンス様の声の温度の中に、今夜何かが起きる、というその気配が薄く置かれていた。


「……アルフォンス様も、何か、ご用事が」


「……ない」


アルフォンス様は低く返した。


「……ただ、今夜、月が出るらしい」


——月が、出る。


私の中でその一行が、夕方の橙色の光の中に静かに置かれた。


それ以上のことは、アルフォンス様は何も言わなかった。だから、それ以上のことを、私も問わなかった。ただ今夜、寮の窓辺にいよう、とそれだけ自分の中で決めた。




アルフォンス様は、窓辺から、ゆっくり長机の方へ歩いてきた。


長机の上の閉じた古文書のひとつに、指先で一度だけ触れた。テオ様がいつも読んでいた、あの古文書だった。革の背表紙の上をアルフォンス様の指先が、ひと粒、なぞった。


その指先の動きは、何かに敬意を払うようでもあり、何かを引き継ぐようでもあった。


——アルフォンス様は、テオ様のことを、わかっていらっしゃる。


それが、私の中で、ゆっくり置かれた。


声にはしなかった。




「……では」


アルフォンス様は長机の前で、私に向けて軽く頭を下げた。


「失礼する」


「……はい」


私も、頭を下げた。


アルフォンス様の漆黒の制服の背中が、私の横をゆっくりと通り過ぎていった。すれ違いざま、昼休みの時と同じように、アルフォンス様の漆黒の制服の袖が私の左の手首の高さをほんの一瞬かすめた気がした。


けれど今度は、その温かさがブレスレットの薄水色の石の中に、もう一段深く置かれた気がした。


私は、振り返らなかった。


振り返らずに、長机の前でしばらく立っていた。アルフォンス様の革靴の音が、旧図書室の扉の向こうの北廊下の上を、いつもの低さで遠ざかっていった。




旧図書室の扉が、向こうから、静かに閉まる音がした。


私はようやく、長机の上の閉じた古文書をもう一度見た。


——テオ様の古文書。


——アルフォンス様がなぞった革の表紙。


その二つが、いま私の中で静かに重なった。


ただ、左の手首のブレスレットを見た。薄水色の石の中に、アルフォンス様の火の温度の名残がまだ薄く残っていた。


それは、私の奥のいちばん静かなところが知っている、誰かの魔力の温度——アルフォンス様の火属性のいちばん深いところの温度に、似ていた。


(……アルフォンス様の、火の温度)


私の中で確かに受け取った。それだけだった。




旧図書室の北の窓の外で、夕方の光がもう一段、低く降りていった。


——今夜、月が出るらしい。


アルフォンス様の声が、私の中で低く形を持ち直した。




旧図書室を出て、北廊下を寮の方へ歩き出した時には、廊下の橙色の光は、もう夜の藍色に変わり始めていた。


私はもう一度、左の手首のブレスレットを確かめた。


——温かい。


ほんの一瞬の名残のような温度が、薄水色の石の中に、まだ薄く残っていた。


——アルフォンス様は、見ていてくださった。


それだけが、今日の旧図書室で私の中に置かれた、いちばん確かなことだった。


ただ、廊下の窓の外の空がゆっくり夜の色に変わっていくのを、私はしばらく見ていた。


夏の終わりの夜がもうすぐ来る。


その夜の窓辺で何が起きるのかを、私はまだ、知らなかった。



※本作はnoteでも掲載中です。noteでは第1部全15話完結しています。

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