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第15話「静かな予兆」後半①



夕暮れの貴族棟最上階のサロンに、橙色の光が斜めに差し込んでいた。


磨かれた大理石の床が、その光を低く返している。壁一面の書架。開いた窓から、夏の終わりの夕風が、低く流れこんでいた。天井のシャンデリアはまだ灯されていない。今日のような夕暮れには窓からの自然光だけで十分だった。


アルフォンスは暖炉の前の深い緑のソファに腰を下ろしていた。


セドリックはもう一つの一人がけの緑のソファでタルトを片手に頬張っている。普段なら今朝の廊下のあの場面のことを、ここで何度もからかい倒すはずの男だった。けれど今夕のセドリックは何も言わなかった。「アル」とも「お前」とも声をかけずに、ただ自分の分のタルトを黙々と齧っている。


——気を遣われている。


それを、アルフォンスは知っていた。


今朝の廊下で「カトリーヌ嬢」と平らに名を呼んだ瞬間から、セドリックの中で何かが切り替わったのだろう。アルフォンスがこれまで一度も誰かに対してそういう声を出したことがなかったということを、セドリックは物心ついた頃からの付き合いの中で知っていた。だからいま軽口を投げてこない。


その距離の取り方を、アルフォンスは黙って受け取った。


    


暖炉の前で、アルフォンスは目を伏せた。


今朝の廊下のカトリーヌのことは、もう、終わった。釘を刺すべきことは刺した。「教室では、外せ」——あの一言で、ルミエール公爵家令嬢の側に、何かが伝わったはずだった。


——けれど。


今夕の暖炉の前で、アルフォンスがもう一度確かめたかったのは、別のことだった。


昨日の、あの後ろ姿のことだった。


    


——昨日の午後。


実技授業が終わった後の教室棟の北廊下で、アルフォンスは一人、窓辺に立っていた。


午後の終わりの光が、磨かれた石の床に斜めに降りていた。実技棟から教室棟へ向かう生徒たちの足音が、廊下の遠くで疎らに散っていく。その背中の中に、亜麻色の髪を一つに束ねた見慣れた猫背気味の背中があった。


——リアネ。


寮の方へゆっくりと歩き出していた。


アルフォンスは廊下の窓枠に手を置いたまま、その背中をしばらく見ていた。午後の実技でカトリーヌの星型髪飾りから細く滲み出た光の式のことも、リアネ自身が自分の意志でその水を抑え込んだことも——ぜんぶ見ていた。


リアネは自分の足で寮へ歩いている。


それで、いい。


——アルフォンスは窓枠の上で、ひと度、息を整えた。


その時。


視界の端で、何かが動いた。


    


学院の中庭。


生垣の影から、ひと筋の人影がゆっくりと立ち上がるところだった。アルフォンスの立っている廊下からは、ちょうど斜めに見下ろせる位置。生垣の影の中にいた間は気づかなかった。その影を離れて外壁の方へ歩き出した、その瞬間。


——緩く束ねた金茶の髪。


アルフォンスの指先が、窓枠の上でひと粒だけ止まった。


後ろ姿だった。顔は見えない。けれどその髪型と肩幅と歩き方——夏のフェルンハイムの井戸端で土まみれの手のひらをズボンで拭いてからこちらへ顎をしゃくった男の、それと同じだった。


——ゼノ・フェルシーア。


リアネの兄。


その男が昨日、学院の中庭の生垣の影から外壁の方へ歩き去ろうとしていた。


アルフォンスは動かなかった。


呼びかけることもしなかった。追うこともしなかった。ただ廊下の窓枠の上で、その背中が外壁の影の中に消えていくのを見ていた。


——なぜ、ここに。


——なぜ、今日、ここに。


その問いがアルフォンスの胸の内側で、ゆっくりと形を持ち始めた。


そしてその問いと一緒に、別の記憶がふと胸の底から浮かび上がってきた。


——あの夏休み前の夕方。


実技棟の外でリアネに声をかけたと、ハンスが報告してきた「見知らぬ青年」。


その時のアルフォンスの中での輪郭は、「男」「リアネに声をかけた」「ハンスは詳しくは存じませんと言った」——その三つだけだった。


——あの「見知らぬ青年」も、ゼノだったのではないか。


その繋がりが昨日アルフォンスの中で、半分だけ立った。


半分だけ、というのは、まだ確かめていなかったからだった。確かめるためには、ハンスに聞かなくてはならない。今夕サロンに戻ったら、聞こう——昨日の夕方、アルフォンスはそう決めた。


けれど昨日の夜は、まずカトリーヌのことを内側で整える時間が必要だった。今朝の廊下で「教室では、外せ」と釘を刺すための言葉を、一晩かけて選んだ。


そして今朝、それを終えた。


——今夕、ようやくその時が来た。


    


壁際の柱時計が、こつりと時を刻んだ。


アルフォンスは暖炉の前で、ゆっくりと目を上げた。


「ハンス」


アルフォンスは暖炉の前で静かに名を呼んだ。


壁際に控えていた長身の青年が、いつも通りの整然とした足取りでソファの脇まで歩いてきた。黒髪を撫でつけた切れ長の目の侍従。フェルドラク家代々の侍従の家系に生まれて、アルフォンスが物心つく前からその傍に置かれてきた男。


「はい、アル様」


ハンスの声はいつもと寸分変わらなかった。


「座れ」


ハンスの眉が動いた気がした。けれどそれは本当に一瞬で、次の瞬間にはもういつもの無表情に戻っていた。


「……失礼いたします」


ハンスは暖炉を挟んだ向かい側のもう一つの深い緑の一人がけソファに、慎重に腰を下ろした。背筋を伸ばしたまま、礼の角度ぎりぎりまで身を引いた姿勢。それでも、座った。


——主が座れと言った。


——その意味を、ハンスは知っていた。


セドリックがタルトを齧る手を止めた。止めたが、何も言わなかった。


    


「ハンス」


アルフォンスはもう一度その名を呼んだ。


「昨日、学院の中庭で見た」


ハンスは答えなかった。答える前にアルフォンスの続きを待っていた。それが、ハンスの侍従としての流儀だった。


「緩く束ねた金茶の髪の男だ。生垣の影から外壁の方へ歩いていった」


「……はい」


ハンスの声は平らだった。


「夏のフェルンハイムの井戸端で会った、リアネの兄だった」


——口に出して、初めて輪郭が立った。


ハンスはしばらく何も言わなかった。夕暮れの光が磨かれた大理石の床の上を、ゆっくり別の角度に滑っていった。


そして。


「ハンス、あの時の男は」


アルフォンスは続けた。


「あの夏休み前の夕方、お前が実技棟の外で見知らぬ青年がリアネに声をかけていたと報告してきた——あの男のことだが」


ここでアルフォンスは一度息を整えた。


「あの男も、リアネの兄だったのか」


    


ハンスはすぐには答えなかった。


夕暮れの光が磨かれた大理石の床の上を、もう一段別の角度に滑っていった。セドリックはソファの上で、もうタルトを齧っていなかった。


「……はい」


ハンスの声は平らだった。


「井戸端でお会いになった時には、もう繋がっておりました」


——繋がっていた。


ハンスの中ではもう繋がっていた。


それを、アルフォンスはいま知った。


「いつから、知っていた」


「夏休み前の夕方からでございます」


ハンスはすぐに答えた。


「実技棟の外であの方がリアネ嬢様にお声をかけられた——その夜にお調べいたしました。緩く束ねた金茶の髪、母譲りの深い水色の瞳、平民の特待生リアネ・フェルシーアの実兄。フェルシーア家の長子ゼノ・フェルシーア。十二歳の春に帝国の魔法学院をドロップアウトしております」


「俺には、言わなかった」


「はい」


「なぜ」


——アルフォンスはその問いを平らに置いた。


責める声ではなかった。ただ聞きたかった。アルフォンスが物心つく前から仕えてくれた侍従が、なぜその情報を主の自分に上げなかったのか。それを、アルフォンスはいま自分の口で確かめたかった。


ハンスはしばらく答えなかった。


    


「……アル様が」


ハンスの声がいつもよりほんの一瞬低かった。


「ご自身で、気づかれるべきことかと、思いました」


——その「思いました」の中に、ハンスの侍従としての長い年月がぜんぶ置かれていた。


主が自分で言葉にするまで決して口にしない。それが、ハンス・エーデルの侍従としての流儀だった。アルフォンスが幼い頃から「これは何だ」と問わなかったものをハンスから先に教えたことは、一度もなかった。


ハンスはいつも待っていた。


待って、アルフォンスが自分の足で輪郭を持つのを後ろで見ていた。


そして昨日、アルフォンスはようやく自分の目で中庭のゼノを見つけ、今夕、自分の口で「あの男も、リアネの兄だったのか」と問うた。それを問うために、あの夏休み前の夕方から夏を越え、いま秋になるまでの時間が必要だった。その季節のあいだハンスは何も言わずに待っていた。


——「ご自身で、気づかれるべき」。


その言葉の重さがアルフォンスの中で、低く沈んでいった。


「……そうか」


アルフォンスはそれだけ応えた。


応えて、しばらく何も言わなかった。


セドリックも何も言わなかった。


ハンスもソファの上でただ静かに座っていた。


夕暮れの光がサロンの空気の中で、もう一段低く降りていく。


    


「ハンス」


アルフォンスはもう一度名を呼んだ。


「あの方は、いま、どこにいる」


ハンスは間を置かずに答えた。


「ヴェンタリアにいる、と聞いております」


「……ヴェンタリア」


その地名を、アルフォンスは口の中でもう一度確かめた。


大陸の北の自由連邦。王も貴族もいない、魔力の強さで階級が決まらない、たぶん大陸で唯一の場所。情報と諜報の都市。フェルドラク家の情報網にも、その名前は届いていた。


——リアネの兄が、いま、そこにいる。


「帝都の片隅にも、時々戻っておられるようでございます」


ハンスは続けた。


「正確な所在はわたくしの調べでも、はっきりとは掴めておりません」


「……そうか」


アルフォンスは暖炉の前でしばらく動かなかった。


リアネの兄。あの夏のフェルンハイムの井戸端で土まみれの手のひらをズボンで拭いてからこちらへ顎をしゃくった男。水車の修繕の日に歯車に油を差しながら「妹を、泣かせるなよ」と一言だけ低く投げてきた男。


そして昨日。


学院の中庭の生垣の影から外壁の方へ静かに歩き去った男。


リアネのためにフェルドラク家の情報網にも掴めない場所で何かを動かしている男。それも、アルフォンスは肌で知っていた。


    



「ハンス」


アルフォンスは暖炉の前で低く続けた。


「いつか、俺から、訪ねる日が来るかもしれない」


——口に出して、初めてその輪郭も立った。


ヴェンタリアへ自分から行く。その輪郭がいまアルフォンスの中で形を持った。今日明日のことではなかった。フェルドラク家の跡取りが簡単に大陸の北の自由連邦まで行ける立場ではないことを、アルフォンスは知っていた。


——けれど、いつか。


リアネのために自分が動くべき場所が、いつか、そこにある。あの夏のフェルンハイムの井戸端で「妹を、泣かせるなよ」と言った男に自分から会いに行く日が、いつか来る。


その輪郭を、アルフォンスは声にした。


ハンスの口の端が、ほんの一瞬緩んだ。


——着実に、とハンスはこれまで何度も呟いてきた。アルフォンスがフェルンハイムへ向かう前、井戸端から戻った時、誕生日会の後、今朝廊下でカトリーヌに釘を刺した後。


——その「着実に」がいま、もう一段先へ進んだ。


「……着実に、でございますな」


ハンスはいつものその一言を低く置いた。


その声はいつもと寸分変わらなかった。寸分変わらなかったからこそ、その下にハンス自身の長い年月の何かが沈んでいるのが、アルフォンスにも伝わった。


    



サロンの空気がしばらくただ静かだった。


夕暮れの光が磨かれた大理石の床の上を最後にもう一筋滑って、外の景色の中に消えていった。窓の外で誰かが学院の中庭を歩いていく足音が、遠く低く聞こえた。


セドリックがようやく口を開いた。


「……アル」


「ん」


「お前、明日からもう少し怖い顔やめろよ」


——いつもの軽口だった。


その軽口がいま、サロンの空気の温度を少しだけ戻してくれた。


「うるさい」


アルフォンスは低く返した。


その「うるさい」もいつもと寸分変わらなかった。けれどセドリックは何かに納得したように、もう一度ソファの背に体を預けた。タルトを齧る音がまた始まった。


——日常がひと粒戻った。


それがセドリックの仕事だった。今朝の廊下で別の場所へ踏み出した、その重さの後で、こちらへ「日常の温度」を引き戻してくれる男。


    



「ハンス」


アルフォンスはもう一度名を呼んだ。


「下がっていい」


「はい」


ハンスはソファから立ち上がって、いつもの整然とした角度の礼をした。


「……アル様」


立ち上がりかけたところで、ハンスはひと言だけ付け足した。


「今夕、お訊きくださり、ありがとうございました」


——その言葉の温度がいつもより低かった。


その温度を、アルフォンスは自分の中で低く受け取った。


ハンスはもう一度整然とした礼をして、壁際の元の位置に戻っていった。


サロンにまた、夕暮れの最後の光が満ちた。


    


アルフォンスは暖炉の前でしばらく動かなかった。


胸の内側にふたつのものが置かれていた。


ひとつは今朝の廊下のカトリーヌに対する(……渡さない)の余韻。


もうひとつは昨日自分の目で中庭のゼノを見つけ、今夕自分の口で「あの男も、リアネの兄だった」と繋げた、その輪郭。


——どちらもまだ終わっていない。


(……渡さない)と、その先の名前のあいだには、まだ、距離があった。「リアネの兄に、いつか会いに行く」もまだ「いつか」のままだった。


けれど昨日と、今朝と、今夕。


アルフォンスは自分の口でふたつとも形にした。


それだけで、長い年月の何かがひと粒動き出した。


——着実に、とハンスは言った。


その「着実」の意味を、アルフォンスはいま自分の内側で確かめていた。


窓の外で夕暮れが、ゆっくり夜に変わっていった。







※本作はnoteでも掲載中です。noteでは第1部全15話完結しています。

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