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第15話「静かな予兆」前半④



朝の北廊下を、アルフォンスは一人で歩いていた。


漆黒の制服の襟元の釦のひとつだけが、留め忘れたままだった。

直す気にはならなかった。直すために指先を動かせば、また熱が寄る。寄った熱は、布の繊維を焦がす。そういう朝だった。


——昨日の午後。実技棟。


教室の最後列の窓際から、アルフォンスはぜんぶ見ていた。

中列の中央のカトリーヌ・ド・ルミエールが、廊下で星型の銀の髪飾りに指先で触れた瞬間。

そこから細く滲み出た光属性の増幅系の魔力が、最前列の廊下側のリアネの内側を乱しかけた瞬間。

そして、リアネが自分の意志でその水を抑え込んだ瞬間も。


ぜんぶ、見ていた。


——あの時。


アルフォンスの教室の机の縁が、焦げた。ほんのひと粒。

指先からひとりでに溢れた熱が、机の木目をひと筋黒く焼いた。アルフォンスは奥歯を噛み締めて、その熱をすぐに抑えた。動けば、暴れる。動けば、教室の机のひとつぶんでは済まない。


だから、動かなかった。


昨日は、動かなかった。




朝の廊下を歩きながら、アルフォンスはその時の指先の感触を、もう一度確かめていた。


感情が揺れた時、アルフォンスの火はいつも、外へ向かった。机を焦がし、窓ガラスを軋ませ、周囲の空気の温度を数度跳ね上げる。十三年間、誰もアルフォンスの隣に立てなかった理由だった。「黒炎の獅子」と呼ばれる所以だった。


——けれど、今朝の火は、違った。


外へ暴れる火を、アルフォンスは構築系で押し固めていた。深紅の縁で外に逃げようとする熱の輪郭を、中心の黒に向かって凝らせる。十二歳のあの夏に、フェルンハイムの水路のほとりで初めて見せた「黒き太陽」の構造を、今朝は内側でだけ作っていた。


外には、出さない。


出さないために、構築する。


——それは、いつもの暴れる火とはまるで別の種類の制御だった。


(……渡さない)


その言葉が、靴の底で、低く形を持った。


十三歳の誕生日の夕暮れ、旧図書室でリアネを抱き寄せた時に、初めて外へ出た言葉。

あの時は、声に出した。声に出して、自分でも驚いた。あの夕暮れから胸の内側に住み着いたその言葉が、毎朝起きるたびに少しずつ別の重さを持ち始めている。


——今朝、その重さが、行動の温度に変わった。




北廊下の中ほどで、アルフォンスは足を止めた。


廊下の窓から朝の光が斜めに差し込んで、磨かれた石の床に白い帯を落としている。

光の帯の向こうに、プラチナブロンドの背中が見えた。


カトリーヌ・ド・ルミエールが、令嬢たちと話していた。

三人ほどの取り巻きを引き連れて、いつもの完璧な角度の笑みを保ったまま、何かを軽く笑っている。その髪に挿された星型の銀の髪飾りが、廊下の光をひと粒、硬質に弾いた。


——あの髪飾り。


昨日、リアネの内側を乱しかけた、増幅系の魔道具。


アルフォンスは、ゆっくりと一歩、踏み出した。




「カトリーヌ嬢」


低く、よく通る声で、アルフォンスはその名を呼んだ。


廊下の空気が、揃って止まった。


カトリーヌが振り返る前に、取り巻きの令嬢たちが先に振り返って、揃って息を呑む音がした。

プラチナブロンドの背中が、ゆっくりとこちらを向く。

完璧な角度の笑みは、いつも通りそこにあった。


「……アルフォンス様」


カトリーヌの声は、いつも通り、優雅で、よく通って、刃物のように線が細かった。

アルフォンスに向ける時だけ、その声の温度がほんのわずかに別の色を帯びる癖は、相変わらずだった。


「ごきげんよう」


「……ああ」


短く、アルフォンスは応えた。


応えて、それ以上はすぐには続けなかった。続けるための呼吸を、整える時間が必要だった。指先の熱を、構築系の黒い中心にもう一段深く押し込める。押し込めて、声の温度を、平らに整える。


——感情で話せば、暴れる。


——感情を込めずに話す。


それが、アルフォンスが十三年かけて学んだ、唯一の方法だった。


カトリーヌは、笑みを保ったまま、こちらを見ていた。アルフォンスから声をかけられたこと自体が、彼女にとって既に勝ち筋の一つだった。それを、アルフォンスは知っていた。知っていて、それでも、ここで言わなくてはならない。




「その髪飾り」


アルフォンスは、平らな声で、続けた。


「よくお似合いだ」


廊下の空気が、もう一段、低く張りつめた。


カトリーヌの笑みが、ほんの一瞬、止まった。

止まったというよりも、いつもの完璧な角度を、保ち損なった瞬間があった。

アルフォンスから髪飾りに言及されること自体が、彼女にとって予想の範囲を超えていたのだ。

それも、よく似合うと、肯定の言葉で。


「……まあ。ありがとうございます」


カトリーヌは、すぐに笑みを立て直した。立て直したその速度に、わずかな焦りの輪郭が滲んでいた。それを、アルフォンスは見ていた。


そして、間を置かずに、続けた。


「——けれど」


廊下の空気が、止まった。


「教室では、外せ」




廊下に、長い沈黙が降りた。


朝の光が、磨かれた石の床の上を、ゆっくり別の角度に滑っていった。取り巻きの令嬢たちが、互いに目を見合わせる気配があった。誰一人、何を言われたかを正確には理解していない。けれど、空気の温度が変わったことだけは、皮膚で感じている。


カトリーヌの笑みは、まだ、保たれていた。

保たれていたが、目の奥の温度だけが、確かに別のものに変わっていた。


「……どういう、意味でしょうか」


その声は、優雅さを保つために、平らに整えられていた。

整えるための努力が、声の縁にわずかに滲んでいた。


アルフォンスは、答えなかった。


答えるための言葉は、もう、用意していなかった。

「どういう意味か」を説明すれば、それは告発になる。

告発をすれば、ルミエール公爵家との縁談はその場で終わる。終わらせるための手は、まだ早かった。


ここでは、釘を刺すだけでいい。


「お似合いの場所と、そうでない場所がある」


アルフォンスは、平らな声で、それだけ言った。


その「だけ」の中に、すべてを置いた。「気づいているぞ」も、「次は許さない」も、「リアネに二度と近づくな」も——その全部を、平らな言葉の下に低く沈めた。


カトリーヌの笑みが、もう一度、ほんの一瞬止まった。


——届いた、と、アルフォンスは知った。


彼女の口元のひと粒の動きを、アルフォンスは見ていた。

理解した者の動き方だった。完璧な角度を保つために、いまカトリーヌの体は別の場所で軋んでいた。


「……ご忠告、痛み入りますわ」


カトリーヌは、笑みを保ったまま、それだけ応えた。


応えるための声は、いつもより、ほんの一瞬低かった。




アルフォンスは、それ以上、何も言わなかった。


カトリーヌの背中に向けて、軽く頭を下げる。形式的な礼。礼の角度に、感情はひと粒も込められていなかった。けれどその礼の中に、ひとつだけ、別のものが置かれていた。


——侯爵家から、公爵家令嬢へ。


格下から、格上への、形式的な敬意の礼。


その礼の角度が、いつもの貴族の挨拶と寸分変わらなかった。寸分変わらなかったからこそ、フェルドラク家がルミエール公爵家との縁談をまだ正式には拒んでいないことが、廊下の取り巻きの令嬢たちにも伝わった。


伝わった、というその事実だけを、アルフォンスは置いていく。


——拒まないが、許しもしない。


その輪郭を、平らな礼の角度に込めて、アルフォンスは踵を返した。




廊下を、アルフォンスは歩き出した。


歩きながら、自分の指先の熱を、もう一度確認した。


——焦げていない。


革手袋の指先は、いつもの黒のままだった。誕生日会の夜のように内側へ向かって燃えていたあの熱は、いまは構築系の黒い中心に押し込めて、平らに整えられていた。


(……渡さない)


その言葉が、靴の底で、もう一度形を持った。


十三歳の誕生日の夕暮れに胸の中で生まれた言葉が、今朝、行動の温度になった。「渡さない」は、心の中で繰り返すだけの言葉ではなくなった。けれどまだ、その先の言葉ではなかった。「渡さない」とその先のあいだには、まだ、距離がある。その距離を、アルフォンスは越えなかった。


越えなかったことを、自分で知っていた。


——まだ、その時ではない。


廊下の窓から差し込む朝の光が、アルフォンスの漆黒の制服の上を、低く滑っていった。




廊下の角を曲がる、その手前で——


アルフォンスは、ふと、足を止めた。


一組の教室の扉が、その先にある。扉の向こうに、亜麻色の髪を一つに束ねた見慣れた猫背気味の背中が、いつもの最前列の廊下側の席に座っているはずだった。


リアネは、まだ知らない。


朝の廊下で、いまアルフォンスがカトリーヌに釘を刺したことを、リアネは知らない。知らせるつもりも、なかった。


知らせるための言葉は、まだ、選んでいない。


アルフォンスは、教室の扉の方を見ていた。


扉の向こうのリアネに、声には出さないまま、ひと言だけ置いた。


(……お前のために、動いた)


その「お前のために」が、平らな言葉の下で、別の温度を持っていた。けれどその温度の名前を、アルフォンスはまだ、自分でも知らなかった。


知らないままで、いま、足を動かす。


——焦るな。


——まだ、その時ではない。


——けれど、今日は、動いた。


アルフォンスは、廊下の角の手前で、もう一度息を整えた。


整えてから、扉のほうへ歩き出した。革靴の音が、磨かれた石の床の上で、いつもより低かった。


その低さの中に、ひとつだけ、別のものがあった。


——胸の底の(……渡さない)が、今朝、確かに、動き出した。


その事実だけを、アルフォンスは胸の内側に置いて、教室の扉に手をかけた。


朝の鐘が、廊下の遠くで、鳴り始めた。




※本作はnoteでも掲載中です。noteでは第1部全15話完結しています。

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