第15話「静かな予兆」前半③
学院の中庭の生垣のいちばん影になる場所で、ゼノは腕を組んだままじっと動かなかった。
夏の終わりの午後の光が、生垣の上を斜めに渡っている。
実技棟の高い窓の輪郭が、ここからはちょうどよく見えた。中の生徒たちの動きまでは見えないが、それで十分だった。ゼノが今日ここに来たのは、目で確かめるためではない。
指先に、水の膜を薄く張る。
帝都の片隅で素性を隠して暮らす男の指の上で、感知系の術式がふわりと立ち上がった。
空気に溶け込むほどの薄さに展開した水の膜が、実技棟の壁の石ひとつ向こうから起きていることをゼノの指の腹にまっすぐ伝えてくる。
——リアネが、自分で水を抑えた。
潤いの手の逆向き。母様譲りの術式を自分の意志で内側に折りたたんだのだ。
ゼノの片方の口の端が、わずかに上がった。
(……お前、いつのまにかそんなことができるようになったのか)
声には、出さない。
そして、もう一つ。
実技棟の中の空気に薄く溶け込んだ、別の術式の触感があった。
光属性の増幅系の魔道具。星型の銀の細工に刻まれた術式が夏の終わりの薄い光に紛れて、リアネの内側を乱しにかかっている。
気づかれにくいよう細く丁寧に刻まれた術式で、証拠は残らないやり方だった。
ゼノの目が、細くなった。
「……あんた、相変わらず、いいご趣味だな」
呟いたのは誰に対してでもなく、生垣の影の夏の風の中に置いただけだった。
実技棟の中の魔力の輪郭を、ゼノはもう一度なぞってみた。
いま生徒たちの前で術式を見ている教官の魔力の流れも、感知の水の膜の上に薄く乗ってくる。
低く落ち着いた、よく訓練された火属性の輪郭だった。
あの教官にはたぶん、星型髪飾りの表層の光までは見えている。
けれど深いところに刻まれた感情誘導の式は、光属性の精密な構築式まで読み解けないと、その魔力の手触りからゼノには察しがついた。
見えていても、言葉にはできない。証拠を残さない式というのは、そういうふうに作られている。
「……ふん。出所はノクティスだな、それ」
帝国製でもアクアニア製でもない、独特の式の組み方。
これはヴェンタリアの情報網でも何度か聞いた話だった。
南の闇の国が表に出ない方法で各国の貴族の中に静かに種を蒔いていて、そのひとつがいま、リアネの内側で芽を出しかけている。
ゼノの指の上で、水の膜が薄く震えた。
それを、ゼノは抑えなかった。抑える理由がなかったからだ。
帝都の片隅とヴェンタリアを、ゼノはこの二年ほど行き来して生きていた。
帝都の片隅は表向きの居場所で、妹の様子を見られる場所。
ヴェンタリアは本当の活動拠点——大陸の北の自由連邦だった。
王も貴族もいない国。魔力の強さで階級が決まらない、たぶん大陸で唯一の場所だった。
情報と諜報の都市。母様の才能を濃く受け継ぎすぎたゼノのような男が表に出して生きられる、いまのところそれだけの場所だった。
帝国の魔法学院をままごとと吐き捨ててドロップアウトした十二歳の春のことを、ゼノはいまでも覚えている。
あの時、父様も母様も何も言わなかった。
「あそこには俺の居場所はない」と低く言ったゼノを、母様の蒼の瞳が深い海の底の温度で一度だけ揺れて見送ってくれた——あれだけだった。
——母様は、ぜんぶ知っていた。
息子の魔力が隠して暮らすには大きすぎることを。
帝国の中ではいずれ目立ってしまうことを。だから母様は何も言わずに、息子の選択を見送った。
ゼノが行き着いたのは大陸の北のヴェンタリアで、あそこの情報網に潜り込んで何年もかけて一本ずつ自分の糸を張ってきた。
——その糸がぜんぶ、今日のような日のために張られてきた。
リアネが入学した時から、ゼノは動き出す準備をしてきたのだ。
いつかこうなる日がヴェンタリアの情報網から見えていた。
妹の魔力を完全に隠しきるのはいずれ限界が来る。眼鏡もブレスレットもゼノが一晩かけて刻んだ術式も、いつまでも妹の底を抑えきれるわけではない。その日が来た時にすぐ動ける場所へ自分の足場を作っておく——それが、ゼノが帝都とヴェンタリアを行き来してきた理由だった。
声には、出さない。
実技棟の中の空気が、また動いた。リアネの水が内側で凪いだ証拠だった。
ゼノは水の膜をふっと引いて、指の上の薄い水を夏の終わりの風の中に解いた。
これで、リアネの番は終わる。あとはこの増幅系の魔道具の術式を、いま剥がしておくだけだった。
——ヴェンタリアの流儀でいく。
剥がして、同じ強度で同じ場所に返す。気づかれない方法で。本人が自分の術式を自分で受ける構造だ。
ゼノは、ふたたび指先に水を呼んだ。
今度は感知系ではなかった。剥がす方の術式——学院全体を覆える規模の、ヴェンタリアの諜報術式の最高位。空気に溶けるほどの薄さに広げた水の膜が、実技棟の中の星型髪飾りに刻まれた光の式の縁を一本ずつほどいていく。
ほどいた術式の輪郭を、ゼノは星の形に組み直した。
あの令嬢が自分の髪に挿している星と、同じ形に。
「……お返しだ」
ふっと、口の端で笑った。
剥がした術式は誰にも気づかれないまま、その持ち主の襟元のあたりに星の形で静かに戻っていく。今日の夕方か明日の朝か——あの令嬢が次に魔力を動かした時、自分の感情誘導の式が自分の内側に芽を出す。
それが、ヴェンタリアの流儀だった。派手なことはしないし、証拠も残さない。ただ、やられた分をやった本人に返すだけだ。
水の膜を、ゼノは完全に引いた。
実技棟の中の空気はもう、いつもの夏の終わりの温度に戻っていた。
リアネの番は終わっただろう。次の生徒の術式が淡々と続いている。
あの白髪の教官が「下校までに忘れ物のないように」と言う声が、生垣の影の中まで薄く届いてきた。
あとは妹が自分の足で寮まで戻るのを、見届けるだけだった。
ゼノは生垣の影の中で、わずかに姿勢を変えた。
リアネが実技棟から廊下に出てくる気配が、感知の余熱でまだゼノの指の腹に薄く残っている。
ふっと、こちらの方を振り返るような気配があった。
(……気づかれた、か)
ゼノの口の端が、また上がる。
リアネの共鳴系は知っている水の気配を、いまでは肌で読めるようになってきていた。
今日のブレスレットの温かさがたぶんゼノの水のせいだとは、妹はまだ気づいていない。
ただ、知っている誰かの気配を薄く感じているだけだ。
それで、いい。正面から会いに行く日はまだ先だ。
——フェルドラクの坊や、か。
ふと、ゼノの中で別の名前が浮かんだ。
夏のフェルンハイムの井戸端で初めて顔を合わせた、漆黒の制服の少年。
アルフォンス・カシウス・フォン・フェルドラク。
あの坊やの火が、今日もたぶんリアネの近くで凪いでいる。
学院のどこかで、リアネの番を遠くから見ていたはずだった。
ヴェンタリアの情報網にも、フェルドラク侯爵家の跡取りの噂は届いていた。黒炎の獅子。同い年の他のどの貴族の子息より頭ひとつ抜けた火力を持つ、災害級の構築系。
——それでも。
「……妹を捕まえに来ているわけじゃ、ねえな」
ゼノは生垣の影の中で、低く言った。
夏のフェルンハイムで井戸端に立ったあの坊やの背筋の伸び方も、リアネの父様の前で深く一礼する角度も、母様の蒼の瞳を真正面から受けた時の首筋の硬さも——あれは捕まえに来ている男の所作じゃなかった。妹の側にいたいだけ、らしい。
家格の差は簡単には超えられない。けれどそれはあの坊やが自分の家とどう戦うかの話で、ゼノが口を出すところじゃなかった。今のところは、放っておく。それが、ゼノの結論だった。
——テオドール。
ゼノの中で、もう一つの名前が浮かんだ。
帝都の北のはずれにある古い書店で、何度か顔を合わせているアクアニア人留学生。
氷魔法の精度が高くて律儀で、口数の少ない男だった。
あの書店の奥にはアクアニアの古文書を扱う棚があって、ゼノがヴェンタリアから帝都に戻った時に時々足を運ぶ場所だった。
あの留学生も同じ棚の前で、何度か立っていた。
ゼノとテオはその棚の前で短い言葉を交わすうちに、互いに立場の核心は明かさないままの薄い信頼関係を結んでいた。
ゼノはテオが何者なのかを表向き以上には知らないし、テオもゼノが何者なのかを表向き以上には知らない。
それでよかった。
お互い相手が「妹を王家に売る気はない」ことだけは、もう確認している。
——あいつも、リアネの側で何かを止めた男だ。
それは、あの古い書店の棚の前で何度か言葉を交わすうちにゼノが受け取った温度だった。
「……あんたが学院から離れるなら、こっちが動く番、ってことか」
呟いて、ゼノは軽く肩をすくめた。
生垣の影の上を、夏の終わりの風がひと吹きで抜けていった。
ゼノは生垣の隙間から、もう一度学院の中庭の方を見やった。
実技棟の重い木の扉が、ちょうど開いたところだった。
生徒たちがぽつりぽつりと、夏の終わりの光の中に出てくる。その中に亜麻色の髪を一つに束ねた、見慣れた猫背気味の背中があった。
——リアネ。
ゼノはそれ以上、近づかなかった。
(……自分の足で、歩け)
声には、出さない。
リアネの背中が寮の方へゆっくりと歩き出していった。
ゼノはそれを生垣の影の中から、しばらく見ていた
。リアネの左の手首のブレスレットが夏の終わりの光の中で、薄く一度光ったような気がした。
——ゼノが十二歳の春に、一晩かけて刻んだ術式。
あれは母様譲りの底の深さを隠すための魔道具だった。
けれど今日、あのブレスレットは別の仕事もしてくれた。
妹が知っている水の気配を、薄く感じ取れるように。遠くから見守る側の術式に、なっている。
ゼノはその事実を、自分の中で低く受け取った。
生垣の影を、ゼノはようやく離れた。
学院の外壁の方へゆっくりと歩きながら、懐の革の地図に指の腹で触れた。ヴェンタリアの裏ルートで仕入れた、大陸の五ヵ国の地図。帝国、公国、連邦、王国、盟約。
——ただその地図の縁の余白に、ゼノはずっと前から目をつけていた。
地図の作り手が明らかにそこから先を描かなかった、細い余白。
古い注釈がその余白の縁に、ひと言だけ書いてある。
——この地図に載らぬ国が、一つある。
ゼノは革の地図の上から、指の腹でその余白に触れた。
「……お前のことも、いずれ調べる番だな」
呟いたのは誰に対してでもなく、夏の終わりの風の中に置いただけだった。
リアネのこと、母様のこと、テオの国のこと——そして、この余白の向こうの国のこと。ヴェンタリアの情報網も古い書店の棚の前の薄い繋がりも、フェルドラクの坊やの存在も——ぜんぶいつかどこかで一筋に繋がる日がたぶん来る。
その日のために、ゼノはもう何年も準備してきた。
学院の外壁の影で、ゼノはふっと足を止めた。
振り返らないまま、低く自分にだけ聞こえる声で言った。
「——動き出す理由は、もう、ここにある」
夏の終わりの風が外壁の上を、もう一度抜けていった。
※本作はnoteでも掲載中です。noteでは第1部全15話完結しています。




