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第15話「静かな予兆」前半②



旧図書室を出て、私は本校舎の北廊下を、午後の授業のほうへと歩いた。


旧図書室の長机の上に残してきた氷の結晶と、深い藍の革表紙の本のことが、ずっと胸の底で揺れていた。けれど、それを抱えたまま実技棟に入っていく勇気は、まだなかった。ブレスレットの鎖に指先で触れて、自分の足元だけを見て歩いた。


実技棟の重い木の扉を押すと、夏の午後の薄い光が、高い天井の窓から斜めに差し込んでいた。


ヴァルター先生は、いつものように教壇の前で、薄い銀縁の眼鏡をひとつ押し上げた。


「今日は、属性ごとに、自由術式を、一つずつ見せてください」


低く落ち着いた声だった。


「実用的なものでも、装飾的なものでも、構いません。お一人ずつ、前へ」


教室の空気が、少し改まった。


私は最前列の廊下側の端に座って、ノートを開いた。最後列の窓際から、漆黒の制服の上着の角度だけが、いつもの位置で見えていた。アルフォンス様。視線は、こちらへ向かなかった。私も、向けなかった。


——カトリーヌ様が、最初に立った。


カトリーヌ様の白い式典装束の裾が、ひとつ、教室の床を撫でた。


中列の中央の席から教壇の前まで、その歩みには、ひと音の乱れもなかった。プラチナブロンドが午後の光を受けて、薄い金色に揺れている。星型の銀の髪飾りは、いつもの位置にあった。


教壇の前に立つと、カトリーヌ様は、ゆっくり両手を開いた。


——その瞬間。


実技棟の天井の高い窓から差し込んでいた光が、ねじれた。


夏の午後の白い光が、空中で角度を変えて、カトリーヌ様の掌の上に集まっていく。光が、引き寄せられていた。光は、本来、掴めないもののはずだった。けれどカトリーヌ様の掌の上で、光は、ゆっくりと形を取り始めていた。


——白い、花の形に。


教室の空気が、薄く明るくなった。


カトリーヌ様の掌の上で、光の花弁がひとつ、またひとつほどけていく。重なって、深くなって、ひとつの大きな花の輪郭になっていく。


——白百合だった。


完璧な白百合の光の彫像が、カトリーヌ様の掌の上で、ゆっくりと咲いていた。ルミエール公爵家の紋章の花。私は、それを、初めてまっすぐに見た。


美しかった。


美しすぎるほどに。


教室の誰も、声を出さなかった。光の白い肌が、午後の光を屈折させて、薄く揺れていた。


「……お見事です」


ヴァルター先生が、低く言った。


「光属性は、本来、形にすることが、最も難しい属性です。手で掴めぬものを、術式の意志だけで、形に留める」


ヴァルター先生はいつもよりも、わずかに長く、その光の彫像を見ていた。


「その光属性で、これほどの精度の彫像を、作れる者は——この学院でも、ほんの数人です」


教室の空気が、もう一段、静まった。


——光属性は、本来、形にするのが、最も難しい。


私は、それを、今日のヴァルター先生の言葉で、初めて知った。

家庭教師についていた人なら、たぶん子どもの頃から知っていた話だった。私は、知らなかった。


——その難しい光を、カトリーヌ様は、あの精度で。


「光属性チーム先頭」と呼ばれていた意味が、ようやく、私の中で立った。


——なのに、なぜ。


その問いが、ふっと、口の中で薄く動いた。

けれど、声には出さなかった。代わりに私は、ブレスレットの鎖にもう一度、指先で触れた。


カトリーヌ様は、ふっとその光を消した。掌の上の白百合は、夏の風に吹かれた本物の花のように薄くほどけて、空に戻った。


「お粗末さまでした」


カトリーヌ様の声に、いつもの陰湿さは、なかった。

ただ、公爵家令嬢の、誇り高い声だった。



完璧な角度の礼をして、カトリーヌ様は中列の自分の席へ戻っていった。


それから、何人かが順番に術式を見せて、私の番が来た。


「次、リアネさん」


ヴァルター先生に名を呼ばれて、私は立ち上がった。眼鏡を一度押し上げ、ブレスレットの鎖の感触を手首で確かめた。教壇の前へ歩く足が、いつもより少し冷たかった。


——いつもの水球。


それで終わるはずだった。


私は両手を前に差し出して、ブレスレットの中の術式の許す範囲で薄い水球を一つ、空中に浮かべた。

手のひらに収まるほどの大きさ。透明。表面に午後の薄い光が、ひと滑り流れた。


それで、十分のはずだった。


その瞬間、私の背後で、何かが、薄く軋んだ。


私の右手首のブレスレットの中の術式が、ふっと震えた。

眼鏡のレンズの奥で、世界の輪郭がほんのわずか深く色を持った。


——前と、同じだった。


これまでにも廊下で、昼休みで、実技棟の外で——ずっと感じてきた軋みだった。

空気に薄く溶け込んだ、外からの術式の触感。


ふっと、視線を流した。


中列の中央のカトリーヌ様の星型の銀の髪飾りが、午後の光を受けて冷たく光っていた。さっき白百合の光彫像を作ったのと、同じ顔。完璧な角度の笑み。


——けれど、その瞳の奥に、別の温度が戻ってきていた。


私の前で水球が、意思に反してふっと膨らみかけた。


——抑える。


私の中で、低く声がした。


抑えなくては。


——けれど今日の私は、これまでとは違った。


今朝、教室で縁談の噂を聞いた時から——廊下でテオ様の帰国の噂を聞いた時から——カトリーヌ様に「リアネさん」と初めて呼ばれた時から——そしてついさきほど、旧図書室で氷の結晶を渡された時から——私はずっと自分の中の水を意識し続けてきた。


水は、私の内側にあった。深く、低く沈めて、ただの私の温度の中に。


その水を、自分の意志でもう一度、形に閉じる。


——潤いの手の、逆。


私は左手をブレスレットに当てて、右手で水球の輪郭を、内側に折りたたんだ。父様が畝に水を流すときの、あの優しい線の流れ。今度は、外へではなく、自分の内側へ。


水球が、ふっと、戻った。


膨らみかけた縁が、ぎりぎりのところで、もとの大きさに戻る。誰の目にも、術式は崩れていなかった。教壇の前の私はいつもの薄い水球を、いつものまま空中に浮かべていた。


「……結構です」


ヴァルター先生の声が、低く落ちた。


——その「結構です」が、いつもより、わずかに長かった。


ヴァルター先生の薄い銀縁の眼鏡の奥の目が、一度、私を見ていた。さっきカトリーヌ様の白百合の光彫像を見たのと同じ目だったけれど、その視線の長さが違っていた。先生は何も言わずに、ただ見ていた。


——気づかれた。


私は水球をふっと消して、軽く礼をした。教壇の前を離れて、最前列の自分の席へ戻る。指先が、まだ薄く震えていた。


席に着いて、ようやく息を吐いた。


カトリーヌ様の方を見なかった。けれど、共鳴系の私の体には、伝わっていた。中列の中央の席から空気の薄い揺れが、私の方へ低く届いていた。


——カトリーヌ様の笑みが、いま、凍りかけている。


そう感じた。


「今日は、抑えられた」と、カトリーヌ様も気づいたのだ。前は、簡単に乱せたのに。今日のリアネは、もう、簡単には乱れなかった。


——その事実が、カトリーヌ様の中で、別の温度を呼んでいた。


それが何の温度なのかは、私にはわからなかった。ただ、共鳴系の私の体に伝わってくる空気の揺れが、いつものカトリーヌ様の冷たさとはわずかに違う色をしていた。


——私の奥のいちばん静かなところだけが、それを聞き取れた。


授業が終わるまで、私は最前列の自分の席でノートを開いたまま、何も書かなかった。


ヴァルター先生は、最後まで何も言わなかった。けれど授業の終わりに「下校までに忘れ物のないように」と言ったあと、教壇を片付けながらもう一度ほんの一瞬だけ、こちらを見た。


その視線が、低く、私の中に置かれた。


私は静かに席を立って、実技棟の扉のほうへ歩いた。廊下に出ようとして、ふっと、視線を窓のほうへ向けた。


——実技棟の外の、夏の光の中。


その光の向こうに、誰かの影がひと拍、揺れたような気がした。中庭の生垣のあたりで、午後の薄い光が、いつもよりわずかに濃く陰っていた。


それは、たぶん、目の錯覚だった。私はそう思って、廊下のほうへ視線を戻した。


それでも、ブレスレットの鎖が手首の上で、いつもよりほんのわずか温かかった。


その温かさの底に、知っている水の気配が薄く沈んでいるのを、私は感じた。


——誰の、水なのか。


声には、しなかった。


廊下に出て、私は寮のほうへ歩き出した。長い影が、午後の光の中で、私の足元から後ろへ伸びていた。






※本作はnoteでも掲載中です。noteでは第1部全15話完結しています。

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