第15話「静かな予兆」前半①
旧図書室で雫を渡し、抱き寄せられたあの夕方から、二日が経っていた。
朝、寮の自室で目を覚ますと、頬の高さにまだ熱の残響があった。
私の頬ではない、誰かの胸の漆黒の制服の上着の質感。
背に回された腕の重さの輪郭。火属性のあの人の体の温度。
——いまでも、思い出せる。
寝台の縁に座って、私は自分の頬に片手をそっと当てた。
指先はいつもの自分の体温だった。けれどその下の頬の奥に、別の熱が薄く灯っているような気がした。
(……渡さない)
その人が私のすぐ上で低く落とした、たったひと言。
主語も目的語もない言葉。あの言葉が何を意味していたのか、私にはまだ、わからなかった。
考えるたびに、頬の熱が、もう一段深くなる。
——だめだ。
私は立ち上がって眼鏡をかけ、ブレスレットを留め直した。
鎖の冷たさが手首にひやりと触れ、レンズの向こうの世界がいつもの薄いぼやけ方に戻った。それで、ようやく私は自分の体を、自分の輪郭の中に収め直した。
教室に入ると、空気がいつもと少し違った。
貴族令嬢たちの座る後列のあたりで、いくつもの声が薄くひそひそと絡み合っている。私が扉を開けた瞬間、その声のいくつかがふっと止まった。それから、何事もなかったように、また続いた。
——聞こえる。
聞こえないふりで、私は自分の席に向かった。最前列の廊下側の端、貴族令嬢たちが嫌う席の余り物。私の指定席。
「……ねえ。本当に、もう、お決まりなんですって?」
「フェルドラク侯爵家、お返事はまだみたいですけれど」
「あちらの公爵家を、あまりお待たせはできませんでしょう」
「お気の毒。あの平民さん、平気な顔ね」
「気づいていらっしゃらないのでしょう」
——気づいて、いた。
ひと粒、ひと粒の声が、薄く私の背に届いていた。
私はそれを何も聞かなかった顔で、机の上のノートを開いた。
縁談。
その言葉が二日のあいだ、学院の中でどこまで広がったのか、私にはわからなかった。
けれどたぶん、もう留めようのない速さで広がり始めている。
あの誕生日会でふたつの家の当主が広間の中央で向き合った——その音を、貴族たちが聞きそびれるはずがなかった。
私はノートのいちばん上にその日付を書いた。書きながら最後列のほうへ視線を流さないように努めた。
それでも、わかった。
後列の窓際、いつもの位置にアルフォンス様が座っていた。漆黒の髪が朝の光を低く返している。視線は教壇のほうへまっすぐに向けられていた。いつも通りの、無表情。
——けれど。
その金の瞳のいちばん奥のほうに、揺れずに燃える小さな炎を、私の中の何かが薄く感じ取っていた。たぶんそれは、私の側の水だけが感じ取れる温度だった。
(……アルフォンス様も、お聞きになっているんだ)
声には、しなかった。アルフォンス様は、こちらを見なかった。私も、見返さなかった。
それで、十分だった。
休み時間の廊下の窓辺で、私は別の声を拾った。
水属性の女子生徒たちが三人、寄り集まって話していた。私は、その輪のすぐ脇を通り過ぎようとしていた。
「ご存じ? アクアニアから、もう一人、留学生が来るそうよ」
「……もう一人?」
「氷魔法の研究、ですって。テオドール様とは、別のお方らしいわ」
「あら。テオドール様、お留学はお続けにならないの?」
「来月いっぱいで、一度ご帰国とか」
「まあ。せっかく、慣れていらしたのに」
——テオ様が、帰る。
足が、廊下の真ん中で止まりかけた。止まりかけて、私はまた歩き出した。後ろの三人の輪は、もう別の話題に移っていた。氷晶草の砂糖菓子の話だった。
廊下の角を曲がってから、私は壁にそっと背を預けた。
帝国に来てから、テオ様だけが、知っていてくれた人だった。眼鏡の奥の私を薄く見通したまま、それでもひと言も問わずに、隣に座っていてくれた人。
——その人が、帰る。
噂を、私はまだ本人から確かめていなかった。けれど廊下の三人の声には、もう決まったことを話す響きがあった。たぶん、もう本当のことだった。
縁談と、テオ様の帰国。
ふたつの噂が私の中で、別々の方向から別々の重さを置いた。片方は、頬の奥のあの熱の上に冷たい影を落とす重さ。もう片方は、私のいちばん近くに座っていた人を、私からひとつぶん遠ざける重さ。
私はブレスレットの冷たい鎖に、指先で触れた。
——昼休み、旧図書室に、行こう。
テオ様に、確かめなくては。
昼休みの始まり、私は本校舎の北廊下を歩いていた。
旧図書室は、その廊下のいちばん突き当たり。誰も近づかない古い書架と低い長机だけがある、私とテオ様だけの場所。
廊下の真ん中、向こうから誰かが歩いてきた。
プラチナブロンド。完璧な姿勢。歩き方のひと音ひと音までが、整っていた。カトリーヌ・ド・ルミエール様だった。
すれ違うその手前で、私は軽く頭を下げた。いつもの、廊下での平民の特待生の礼。カトリーヌ様もいつもなら、こちらを見もせずに通り過ぎる人だった。
——けれど。
その日、カトリーヌ様は足を止めた。
「リアネさん、ごきげんよう」
私は、顔を上げた。
カトリーヌ様の笑みは、いつもと同じ完璧な角度で結ばれていた。星型の銀の髪飾りが、廊下の窓から差し込む昼の光を受けて、硬質にひと粒輝いていた。
「……ごきげんよう、カトリーヌ様」
私はもう一度頭を下げた。下げながら、頭の中で別の音が低く響いていた。
——リアネさん。
初めて、名前で、呼ばれた。
これまでカトリーヌ様の口から、私の名前が出たことは一度もなかった。「特待生さん」か、「あの平民の方」か、そのどちらかだった。それが今日、はっきりと「リアネさん」だった。
カトリーヌ様はそれ以上、何も言わなかった。
完璧な角度の笑みのまま、私の脇を静かに通り過ぎていった。
私は、しばらく廊下の真ん中に立ち尽くしていた。
——何かが、動き出している。
それはたぶん、ひとつではなかった。
縁談の噂、テオ様の帰国、そしていまカトリーヌ様の唇が初めて私の名前を口にしたこと。
それぞれが別々の方角から、別々の重さで、私のほうへゆっくり近づいてきている。
私はブレスレットの鎖に、もう一度指先で触れた。冷たい銀の感触が、いつもより薄く頼りなく感じた。
旧図書室の重い木の扉が、廊下の突き当たりで、私を待っていた。
その扉を、私は開けに行った。
旧図書室の重い木の扉を、私はゆっくりと押した。
古い本の匂いと、北の窓から差し込む昼の薄い光が、書架の谷間を斜めに渡っていた。空気はいつも通り低く沈んでいた。
テオ様は、いつもの長机の端にいた。
——けれど、いつもと少しだけ違った。
テオ様の前に、見慣れない深い藍の革表紙の本が五冊か六冊、几帳面に積まれていた。
——あの積み方は、読むためのものではなかった。
いずれ別の誰かに椅子を譲ろうとする者が、自分の使ってきた本をひとつにまとめている、その手の積み方だった。
私が後ろ手で扉を閉めた音の余韻が、書架の隙間に薄く吸い込まれていった。それで私の足は、長机の前でいつものように動かなくなった。
「……来たか」
テオ様の声はいつもと同じ低く落ち着いた声だった。けれどその低さの底に、別の重さが沈んでいた。
——本当に、なんですか。
長机の上の本の積み方が、その問いにもう答えていた。
「……特待生」
テオ様が、私を呼んだ。
ふいに、その呼び方が胸の奥に冷たく落ちた。「リアネ」と名前で呼んでくれていた人が、いま、初めての場所のような距離で、私を呼び直した。
「……はい」
私は、長机の向かいのいつもの席に、ゆっくり腰を下ろした。
テオ様は、しばらくこちらを見なかった。積まれた本のいちばん上の革表紙に、指先をそっと置いていた。
それから、薄水色の瞳を上げた。
「来月、アクアニアに、一度、戻ることになった」
——本当だった。
「……戻るんですか」
「ああ」
テオ様は短く、間を置いた。
「留学を、いったん、やめる」
「いったん」、とテオ様は言った。「次の任務」とも、「王家の命令」とも言わなかった。ただ「いったん、やめる」と。
——その言い方が、低い重さで私の中に置かれた。
王家のことなら、それは私とテオ様の世界の外側の話だった。けれど「留学をいったんやめる」と言われると、それは自分の意志でここを離れる、テオ様自身の声だった。
「……どうして」
唇が、勝手に動いた。
訊いたあとで、私は気づいた。自分はもう、答えを知っていた。
積まれた本。「特待生」呼び。「いったん」。それらの全部がひとつの方向を指していた。
テオ様もしばらく、答えなかった。代わりに、いちばん上の革表紙に置いた指を、ゆっくり横にずらした。
「お前を見つけて、確かめた」
低い声だった。
「俺の留学の表向きの目的は、いったん終わる」
——確かめた。
運動会の翌日の旧図書室で、テオ様は自分を「アクアニア第二王子」と打ち明け、私を「深海の魔女の娘」と告げた。あの日から、テオ様は私を「探し当てた者」になった。そして、探し当てた者はもう、ここにいる必要がなかった。
知らずに私は、その物語の中でテオ様に、いくつもの場所をもらってきた。長机の向かいの席。氷晶草の砂糖菓子の透明な冷たさ。「リアネ」と呼んでくれる声。誰にも問わずに隣に座っていてくれた、その沈黙。
その全部が来月、いなくなる。
声には、しなかった。膝の上で握り合わせた両手が、自分の体の冷えの輪郭を、私に教えてくれた。
「お前は、知っているな」
テオ様が低く言った。
「お前の母上は、アクアニアで——『深海の魔女』と、呼ばれていた」
——知っていた。運動会の翌日のあの昼、テオ様から、すでに聞いていた。
けれどあのときのテオ様は、それを「水魔力の質が、深海の魔女の系譜と同じ」という説明として言った。今日のテオ様は違った。母様の名前をまっすぐ「深海の魔女」と呼び、その娘をまっすぐ「お前」と。
——別れの前の、儀式の言い方だった。
「……はい」
それしか答えられなかった。けれどその「はい」の中に、私は初めて自分の意志を置いていた。最初は、その血を「もらってしまったもの」のように受け取っていた。今日は、初めて自分の意志でその「はい」を返した。
テオ様は、それを見ていた。任務として、ではなかった。いなくなる人の、見方だった。
「……それから、もうひとつ」
テオ様が低く続けた。
「俺の留学が終わるのと、入れ違いに——アクアニアから、もう一人、留学生が来る」
「……もう一人」
「ああ」
「年は、十五。学院の最終学年級だ」
私は息を止めた。
——十五歳。学院に居られる、上限の年だった。
「アクアニアの中央魔導院から派遣される」
「中央魔導院……」
その名前は、初めて聞く名だった。
「俺のような王家直属の『学術留学生』とは、立場が違う」
テオ様の声が、わずかに低くなった。
「中央魔導院は、王家とは別の権力体だ。アクアニアには、王家と中央魔導院、ふたつの力がある。常に同じ方向を見ているとは、限らない」
私の中でいままで、ひとつの輪郭でしかなかった「アクアニア」が、ふたつに薄く割れた。
「これだけ若い者を中央魔導院が学術留学に出すのは——異例だ」
「俺の留学は予定で二年だった。だが、奴は——半年で、結果を出すために来る」
「半年……」
「卒業を待たずに、帰る予定らしい。結果が出れば、いつでも引き上げる」
——半年。一年生の途中のその半年のあいだ、その留学生は私と同じ学院にいる。
「『古代水術式の応用研究』という名目で、選択授業を開講する予定だ」
テオ様が続けた。
「水属性の生徒はほぼ全員、その授業を取らされる。お前が取らないわけには、いかない」
——逃げ場が、ない。
「女子だ」
ふいに、テオ様がそう付け足した。
「年は、お前より、少し上だ。けれど、性格は優しい類いではないと、聞いている」
「……」
「俺と、同じ目的で来るとは、限らない」
テオ様の声が、もう一段低くなった。
「俺は王家からの命令で、お前を確かめにきた。そして——お前を、王家へ連れていく決断は俺の中で、止まっている」
私は両手を、膝の上で握り直した。
——止まっている。
旧図書室で「……違う」と言ってくれたあの声を、テオ様は今日もう一度、別の言葉で私に渡してくれていた。
「だが、中央魔導院から来る者が何を目的に来るのかは——俺にも、まだ、わからない」
「……だから」
「ああ」
「だから、一度、戻る。アクアニアで何が起きているのか、確かめなくてはならない」
テオ様もしばらく何も言わず、私も何も言えなかった。
旧図書室の北の窓から、午後の薄い光が長机の上を斜めに渡っていた。その光の中に、積まれた本の革表紙が並んでいた。
「……お前は、何も、急がなくていい」
テオ様が低く言った。
「ただ、一つだけ」
積まれた本のいちばん下の一冊に、指先を置いた。
「地図に載らぬ国のことを、お前はいずれ、知ることになる」
「……地図に載らぬ、国」
その言葉を、私は口の中で薄く繰り返した。
地理の授業で習った大陸の五ヵ国は、帝国・公国・連邦・王国・盟約。それで五つで、全部だったはずだった。
「もう、ひとつ、ある」
テオ様はそれだけ言った。
「どの地図にも、載っていない」
「いずれ、自分で見つけろ」
——それが、テオ様の最後の優しさだった。問わずにひとつ、置いていく言い方。
「……はい」
テオ様がゆっくり立ち上がり、積まれた本をもう一度几帳面に整えた。それから、いちばん上の革表紙を片手で持ち上げた。
「……これは、お前に置いていく」
私の前に、その本が置かれた。長机に触れる音もないほど、静かに置かれた。
「読まなくて、いい」
テオ様が言った。
「ただ、お前のそばに、置いておいてくれ」
私はその革表紙に指先を伸ばしかけて、止めた。開く準備が、まだできていなかった。
代わりにテオ様が、もう一度、長机の縁に片手の指先を置いた。
——その指先からふっと、薄い、白い光が立ち上がった。
氷の結晶だった。
握りこぶしより小さい。氷晶草の砂糖菓子のあの透明な冷たさと、同じ色をしていた。けれど砂糖菓子よりも硬く、静かに凝った結晶だった。
その小さな氷の結晶が、私の前の長机の上にぽつりと置かれた。
「……溶けない」
テオ様が低く言った。
「夏の盛りまでは、もつ」
「……夏の盛り」
「俺が戻る頃には、消える」
——別れの、儀式だった。
その小さな結晶が、テオ様がここにいた時間の形だった。夏の盛りにそれが消える頃、テオ様はアクアニアにいる。それがたぶん、テオ様の「そばに置いていく」だった。
私はその結晶を、しばらく見ていた。
それから、もう一度、テオ様の薄水色の瞳を見上げた。
「……ありがとうございます」
「……来月までは、まだ、ここにいる」
テオ様が、扉のほうへ向きを変えながら言った。
「いつもの長机で、いつもの本を読んでいる。会いたければ、来ればいい」
「……はい」
扉の前で、テオ様が一度、足を止めた。
「リアネ」
——最後の「リアネ」だった。
「お前は、自分が何者か、もう知っている。それを、忘れるな」
扉が低く小さく鳴って、閉まった。
私は、長机の前にひとり残された。
目の前に、氷の結晶と、深い藍の革表紙の本。
——テオ様が、いなくなる。
その事実が初めて、胸の底に落ちた。氷の結晶の薄い白い肌が、午後の光をわずかに屈折させていた。
※本作はnoteでも掲載中です。noteでは第1部全15話完結しています。




