表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
51/59

第14話「おめでとう、が言いたかった」後半③



誕生日会の、翌日の夕方だった。


旧図書室の重い木の扉を押すと、北の窓から差し込む光は、もう夕暮れの色に沈みかけていた。古い本の匂いの中に、その薄い橙の光が、書架の谷間を斜めに渡っている。


長机に、テオ様の姿はなかった。


——今日は、いない。


それが、テオ様なりの何かなのだと、私にはわかった。

呼ばれるかどうかは、リアネ次第だ。

そう言ってくれた人は、こういう時、決まっていない。問わず、何も言わず、ただ場所だけを空けてくれる。


長机のいつもの位置に、アルフォンス様が座っていた。


学院の制服の、漆黒の上着。

その肩に、夕暮れの光が低く落ちている。

本は開かれていない。ただ、卓の上に置いた自分の手元に、視線を落としていた。


私の足音で、その視線が、こちらへ上がった。


「……来たか」


低く、迷いのない、いつもの声だった。


「……はい」


私は、扉を後ろ手で閉めた。閉めた音が、いつもより自分の耳に大きく響いた。


アルフォンス様が、ゆっくりと立ち上がった。


長机を回って、私の方へ、まっすぐ歩いてくる。

その手に、見覚えのある、やわらかい布の包みが握られていた。


——あれは。


私の心臓が、低く鳴った。あれは、私が、セドリック様に託したもの。

どうか、アルフォンス様に渡してほしい、と。届いたかどうかも、私には、わからないままだった。


アルフォンス様は、私の前で、足を止めた。そして、その布の包みを、両手で私の方へ差し出した。


「……これ」


低い声が、ひとつ、落ちた。


「お前、だろう」


私は、その包みを、見た。それから、アルフォンス様の金の瞳を、見た。


——届いて、いた。


声が、出なかった。ただ、その包みを受け取ろうと、私は手を伸ばした。


その時、布越しに——私の指先とアルフォンス様の指先が、ほんの一瞬だけ重なった。


ほんの一瞬だった。

布の薄い厚みを隔てて。それなのに、その温度が、私の指先から腕へとゆっくり伝わっていった。

私はその温度を、自分の体の中にそっと置いた。


包みは、私の手に、戻ってきた。

けれど、アルフォンス様は、それを返すために持ってきたのではなかった。


「……開けて、みせてくれ」


そう、言ったから。


——いま、だ。


私は、布を、ゆっくりと開いた。


中から、透明な雫が現れる。

夕暮れの光が、その透明な体を通って、いくつもの細い筋に屈折した。

そして、その雫のいちばん深い中心で——深紅で中心だけが黒い、小さな火が揺れていた。


私は、その雫を両手に載せたまま、顔を上げた。


そして、その人の金の瞳を、まっすぐに見た。


「アルフォンス様」


その名を、口にした。


夏休み前の旧図書室で初めて笑ったあの日。

「アルフォンスだ」と訂正された、あの日から、私はずっとそう呼んできた。

けれど、迎えに来なかった日のあと、私の口はまた「フェルドラク様」に戻っていた。距離が、戻っていた。


その距離を、いま、私は自分の意志で超えた。


「アルフォンス様。お誕生日、おめでとうございます」


旧図書室の夕暮れの空気の中に、その言葉を置いた。


アルフォンス様の金の瞳が、わずかに見開かれた。そして——固まった。


何かを言おうとして唇がわずかに開いて——でも、声は出てこなかった。

その瞳が、揺れていた。いつも凪いでいるその金の瞳が、いま、はっきりと揺れていた。


「……これは」


ようやく、絞り出すような低い声だった。


「お前が」


「……はい。私が」


「……作ったのか」


「……はい」


アルフォンス様は、その雫を、長いあいだ見ていた。


私は、知らなかった。その人がもう昨夜、これを見ていたことを。セドリック様が届けてくれていたことを。私はいま、初めて見せるのだと思っていた。


だから、その人がもう一度初めてのようにその火を見つめてくれたことを、私はまっすぐに受け取った。


「……もう一度」


アルフォンス様が、低く言った。


雫から視線を上げて、その金の瞳が、まっすぐ私を見た。


「もう一度、呼べ」


私は、その瞳を見返した。


「……アルフォンス様」


「もう一度」


「……アルフォンス様」


その時だった。


アルフォンス様が——笑った。


口の端が、わずかに上がって。金の瞳のいちばん奥の、強張っていたものが、ふっとほどけて。それは、私がこれまで一度も見たことのない顔だった。怒っているのでも、呆れているのでも、困っているのでもない。ただ、その人が生まれて初めて何かにほどけたような、そういう笑い方だった。


私の胸の奥が、その笑顔を見た瞬間、温かくなった。


(……こんな顔を、する人だったんだ)


声には、しなかった。

ただ、その温かさを、私は自分の体の中に置いた。


「……俺も」


アルフォンス様が、雫を見ていた視線を、自分の右手に移した。


「見せたい、ものがある」


その人は、右手を自分の胸の前に持ち上げた。


——指先に、何かが、生まれようとしていた。


私は、息を止めた。


アルフォンス様の指先に、小さな火が灯った。


握りこぶしより少し小さいくらいの、球。

深紅で、中心だけが黒い。

あの夏、フェルンハイムの水路のほとりで見た、あの火と同じ。

けれど、あの時よりずっと、形が定まっていた。

揺らがず、にじまず、完璧な球のかたちを保っている。

それでいて、その火は揺れていた。灯火が呼吸をするように、低く、深く。


「……綺麗、です」


その言葉が、自然に、私の口からこぼれた。


アルフォンス様は答えなかった。ただ、その火を私の方へ、少しだけ近づけた。


私は、手のひらの雫を長机にそっと置いて、その火に指先を伸ばした。


あの夏は、触れるその直前で、火が消えた。だから今度も消えるのだと、思っていた。


——でも。


私の指先が火に届く、その手前で。アルフォンス様の指先も、その火の反対側から伸びてきた。


火を、真ん中に挟んで。


私の指先と、アルフォンス様の指先が——触れた。


布越しでは、なかった。今度は、何も隔てるものがなかった。火を挟んだその向こうで、その人の指先の熱が、私の指先にまっすぐ伝わってきた。


火は、消えなかった。


私たちの指と指のあいだで、その火が、ひとつの脈動になった。私の側の水と、その人の側の火が、ひとつのリズムで鼓動している。揺れて、また揺れて。同じ深さで。同じ律動で。


「……俺たち」


アルフォンス様が、低く言った。


「似てるんじゃ、なくて」


その金の瞳が、火越しに、まっすぐ私を見ていた。


「繋がってる、のかも、しれない」


火が、消えた。


ふたりの指の熱が、最後にひとつ混ざり合って——そして、音もなく消えた。


——けれど。


火が消えても、アルフォンス様の指先は、すぐには引かれなかった。


私の指先に、触れたまま。火のなくなった場所で、その人の指先の熱だけが、まだ私の指に残っていた。


私が、その熱の意味を考えるより、先に。


アルフォンス様の手が、動いた。私の腕を引いて——その人が、私を抱き寄せた。


一瞬の、ことだった。


学院の制服の、その胸に、私の頬が触れた。その人の腕が、私の背に回されていた。火属性の、その人の体は熱かった。その熱が、私の頬から体じゅうに伝わってくる。私は、何が起きたのか、わからなかった。わからないまま、ただ、その熱の中にいた。


「……渡さない」


その人の声が、私のすぐ上で、低く落ちた。


——渡さない。


何を。誰に。


私には、わからなかった。その言葉には、主語も目的語もなかった。

ただ、その人のいちばん底から絞り出された、たったひと言だった。


それは、数秒のことだった。


次の瞬間、アルフォンス様の腕が、ほどけた。


自分でも驚いたように。自分の手が何をしたのか、自分でもわからなかったように。

その人は、私から半歩、身を引いた。引いて、視線を、私から外した。


私は、動けなかった。


その人の体の熱が、まだ私の頬に残っていた。背に回された腕の、その重さの輪郭が、まだ私の背に残っていた。私はその温度を、ただ自分の体の中に置いた。置くことしか、できなかった。


旧図書室の夕暮れの光が、長机の上の透明な雫を、橙に染めていた。


その雫の中で、火が、まだ揺れていた。


——けれど、私はまだ、何も知らなかった。




※本作はnoteでも掲載中です。noteが最新話となります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ