第14話「おめでとう、が言いたかった」後半③
誕生日会の、翌日の夕方だった。
旧図書室の重い木の扉を押すと、北の窓から差し込む光は、もう夕暮れの色に沈みかけていた。古い本の匂いの中に、その薄い橙の光が、書架の谷間を斜めに渡っている。
長机に、テオ様の姿はなかった。
——今日は、いない。
それが、テオ様なりの何かなのだと、私にはわかった。
呼ばれるかどうかは、リアネ次第だ。
そう言ってくれた人は、こういう時、決まっていない。問わず、何も言わず、ただ場所だけを空けてくれる。
長机のいつもの位置に、アルフォンス様が座っていた。
学院の制服の、漆黒の上着。
その肩に、夕暮れの光が低く落ちている。
本は開かれていない。ただ、卓の上に置いた自分の手元に、視線を落としていた。
私の足音で、その視線が、こちらへ上がった。
「……来たか」
低く、迷いのない、いつもの声だった。
「……はい」
私は、扉を後ろ手で閉めた。閉めた音が、いつもより自分の耳に大きく響いた。
アルフォンス様が、ゆっくりと立ち上がった。
長机を回って、私の方へ、まっすぐ歩いてくる。
その手に、見覚えのある、やわらかい布の包みが握られていた。
——あれは。
私の心臓が、低く鳴った。あれは、私が、セドリック様に託したもの。
どうか、アルフォンス様に渡してほしい、と。届いたかどうかも、私には、わからないままだった。
アルフォンス様は、私の前で、足を止めた。そして、その布の包みを、両手で私の方へ差し出した。
「……これ」
低い声が、ひとつ、落ちた。
「お前、だろう」
私は、その包みを、見た。それから、アルフォンス様の金の瞳を、見た。
——届いて、いた。
声が、出なかった。ただ、その包みを受け取ろうと、私は手を伸ばした。
その時、布越しに——私の指先とアルフォンス様の指先が、ほんの一瞬だけ重なった。
ほんの一瞬だった。
布の薄い厚みを隔てて。それなのに、その温度が、私の指先から腕へとゆっくり伝わっていった。
私はその温度を、自分の体の中にそっと置いた。
包みは、私の手に、戻ってきた。
けれど、アルフォンス様は、それを返すために持ってきたのではなかった。
「……開けて、みせてくれ」
そう、言ったから。
——いま、だ。
私は、布を、ゆっくりと開いた。
中から、透明な雫が現れる。
夕暮れの光が、その透明な体を通って、いくつもの細い筋に屈折した。
そして、その雫のいちばん深い中心で——深紅で中心だけが黒い、小さな火が揺れていた。
私は、その雫を両手に載せたまま、顔を上げた。
そして、その人の金の瞳を、まっすぐに見た。
「アルフォンス様」
その名を、口にした。
夏休み前の旧図書室で初めて笑ったあの日。
「アルフォンスだ」と訂正された、あの日から、私はずっとそう呼んできた。
けれど、迎えに来なかった日のあと、私の口はまた「フェルドラク様」に戻っていた。距離が、戻っていた。
その距離を、いま、私は自分の意志で超えた。
「アルフォンス様。お誕生日、おめでとうございます」
旧図書室の夕暮れの空気の中に、その言葉を置いた。
アルフォンス様の金の瞳が、わずかに見開かれた。そして——固まった。
何かを言おうとして唇がわずかに開いて——でも、声は出てこなかった。
その瞳が、揺れていた。いつも凪いでいるその金の瞳が、いま、はっきりと揺れていた。
「……これは」
ようやく、絞り出すような低い声だった。
「お前が」
「……はい。私が」
「……作ったのか」
「……はい」
アルフォンス様は、その雫を、長いあいだ見ていた。
私は、知らなかった。その人がもう昨夜、これを見ていたことを。セドリック様が届けてくれていたことを。私はいま、初めて見せるのだと思っていた。
だから、その人がもう一度初めてのようにその火を見つめてくれたことを、私はまっすぐに受け取った。
「……もう一度」
アルフォンス様が、低く言った。
雫から視線を上げて、その金の瞳が、まっすぐ私を見た。
「もう一度、呼べ」
私は、その瞳を見返した。
「……アルフォンス様」
「もう一度」
「……アルフォンス様」
その時だった。
アルフォンス様が——笑った。
口の端が、わずかに上がって。金の瞳のいちばん奥の、強張っていたものが、ふっとほどけて。それは、私がこれまで一度も見たことのない顔だった。怒っているのでも、呆れているのでも、困っているのでもない。ただ、その人が生まれて初めて何かにほどけたような、そういう笑い方だった。
私の胸の奥が、その笑顔を見た瞬間、温かくなった。
(……こんな顔を、する人だったんだ)
声には、しなかった。
ただ、その温かさを、私は自分の体の中に置いた。
「……俺も」
アルフォンス様が、雫を見ていた視線を、自分の右手に移した。
「見せたい、ものがある」
その人は、右手を自分の胸の前に持ち上げた。
——指先に、何かが、生まれようとしていた。
私は、息を止めた。
アルフォンス様の指先に、小さな火が灯った。
握りこぶしより少し小さいくらいの、球。
深紅で、中心だけが黒い。
あの夏、フェルンハイムの水路のほとりで見た、あの火と同じ。
けれど、あの時よりずっと、形が定まっていた。
揺らがず、にじまず、完璧な球のかたちを保っている。
それでいて、その火は揺れていた。灯火が呼吸をするように、低く、深く。
「……綺麗、です」
その言葉が、自然に、私の口からこぼれた。
アルフォンス様は答えなかった。ただ、その火を私の方へ、少しだけ近づけた。
私は、手のひらの雫を長机にそっと置いて、その火に指先を伸ばした。
あの夏は、触れるその直前で、火が消えた。だから今度も消えるのだと、思っていた。
——でも。
私の指先が火に届く、その手前で。アルフォンス様の指先も、その火の反対側から伸びてきた。
火を、真ん中に挟んで。
私の指先と、アルフォンス様の指先が——触れた。
布越しでは、なかった。今度は、何も隔てるものがなかった。火を挟んだその向こうで、その人の指先の熱が、私の指先にまっすぐ伝わってきた。
火は、消えなかった。
私たちの指と指のあいだで、その火が、ひとつの脈動になった。私の側の水と、その人の側の火が、ひとつのリズムで鼓動している。揺れて、また揺れて。同じ深さで。同じ律動で。
「……俺たち」
アルフォンス様が、低く言った。
「似てるんじゃ、なくて」
その金の瞳が、火越しに、まっすぐ私を見ていた。
「繋がってる、のかも、しれない」
火が、消えた。
ふたりの指の熱が、最後にひとつ混ざり合って——そして、音もなく消えた。
——けれど。
火が消えても、アルフォンス様の指先は、すぐには引かれなかった。
私の指先に、触れたまま。火のなくなった場所で、その人の指先の熱だけが、まだ私の指に残っていた。
私が、その熱の意味を考えるより、先に。
アルフォンス様の手が、動いた。私の腕を引いて——その人が、私を抱き寄せた。
一瞬の、ことだった。
学院の制服の、その胸に、私の頬が触れた。その人の腕が、私の背に回されていた。火属性の、その人の体は熱かった。その熱が、私の頬から体じゅうに伝わってくる。私は、何が起きたのか、わからなかった。わからないまま、ただ、その熱の中にいた。
「……渡さない」
その人の声が、私のすぐ上で、低く落ちた。
——渡さない。
何を。誰に。
私には、わからなかった。その言葉には、主語も目的語もなかった。
ただ、その人のいちばん底から絞り出された、たったひと言だった。
それは、数秒のことだった。
次の瞬間、アルフォンス様の腕が、ほどけた。
自分でも驚いたように。自分の手が何をしたのか、自分でもわからなかったように。
その人は、私から半歩、身を引いた。引いて、視線を、私から外した。
私は、動けなかった。
その人の体の熱が、まだ私の頬に残っていた。背に回された腕の、その重さの輪郭が、まだ私の背に残っていた。私はその温度を、ただ自分の体の中に置いた。置くことしか、できなかった。
旧図書室の夕暮れの光が、長机の上の透明な雫を、橙に染めていた。
その雫の中で、火が、まだ揺れていた。
——けれど、私はまだ、何も知らなかった。
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