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第14話「おめでとう、が言いたかった」後半②



どれくらいそこに立っていたのか、アルフォンスにも分からなかった。


廊下の窓の外で篝火が相変わらず揺れずに燃えていて、大広間の喧騒が遠く低くまだ続いている。

誰も、アルフォンスがここにいることに気づいていなかった。

気づかれないように選んだ場所だった。


「——アル!」


その声だけは、別だった。


廊下の向こうから、セドリックが早足で近づいてくる。

正装の襟を少し緩めて、息をわずかに弾ませながら、手に小さな何かを握っていた。


「探したぞ。こんなとこにいたのか」


アルフォンスが答えずに視線だけをその手元へ落とすと、セドリックは、握っていたものを両手でそっと差し出した。

やわらかい布にくるまれた、手のひらに収まるくらいの、小さなもの。


「これ、預かってきた」


アルフォンスは、すぐには受け取らなかった。


「……誰から」


「言わなくても、分かるだろ」


セドリックはそれ以上説明せず、布にくるまれたそれを、もう一度アルフォンスの方へ押し出した。

その押し出し方に、めずらしく、茶化すような色がなかった。


アルフォンスの手が、動いた。両手で、それを受け取る。


——軽かった。そして布越しに、わずかに温かかった。


アルフォンスは、廊下の窓辺で、その布をゆっくり開いた。


中から出てきたのは、透明な雫のかたちをした、ひとつの結晶だった。

篝火の揺れない火が窓の外から照らすと、透明な体の中で、その光がいくつもの細い筋になって屈折していく。


——氷。


そう思ったけれど、手のひらの上のそれは、溶けなかった。

氷であれば、とうに指の熱でにじんでいるはずなのにその雫は形を保ったままほのかに温かい。


アルフォンスがその結晶を目の高さまで持ち上げると、雫のいちばん深い中心に、小さな火が灯っているのが見えた。


深紅で、中心だけが黒い。


アルフォンスは、その火を知っていた。

あの夏、フェルンハイムの水路のほとりで、自分の掌の上に生んだ火。

あの子の指先が触れるその直前に、音もなく消えた、小さな火。

それと同じ火が、この透明な雫のいちばん奥で、消えずに灯っていた。


(……あいつ、覚えていたのか)


あの夏の、たった一度。

一瞬で消えた火を、あの子は見ていて、覚えていて——こうして消えない形に閉じ込めてよこした。


アルフォンスは、指先に、ごく小さな熱を生んだ。

火属性の魔術師なら誰にでもできる、いちばん小さな火。

それを雫の表面にそっと近づけると、雫の中心の火が、その熱に応えるようにわずかに揺れた。

同じ律動で、同じ深さで。

まるで、ふたつの火がひとつの呼吸をしているように。


アルフォンスは、長いあいだ、その雫を見ていた。


今夜この屋敷の中で自分を取り囲んでいたものの、どれとも、この雫は繋がらなかった。

広間に満ちた家どうしの思惑も、半歩横に立った令嬢の白い装束も、机の上に置かれたままの銀の封蝋も——その何ひとつとも。

これはただ、あの子があの夏の火を覚えていて、自分の手で消えない形に変えてよこしたものだった。


そんなものが、今夜この屋敷の中で、いちばん重かった。


アルフォンスは、その雫をもう一度やわらかい布でくるんで、正装の胸の内側にしまった。

胸の内側で、布越しのかすかな温かさが伝わってくる。


——渡さない。


口には、しなかった。誰に、何を、とも言わなかった。

ただ、その言葉だけが、アルフォンスのいちばん底で形を持った。


廊下の向こうの端から、足音が聞こえてきた。


低く重い、ひとつの足音。アルフォンスは、その歩き方を知っていた。父の足音だった。


セドリックがわずかに身を硬くしても、アルフォンスは動かなかった。

胸の内側の、布にくるんだ雫の上に片手を軽く当てたまま、廊下の向こうを見ていた。


足音は、ゆっくりと近づいてきて——廊下の途中の角で、止まった。


ほんの、一拍。


それから、向きを変えた。


近づいてくるはずだった足音が、別の方へゆっくりと遠ざかっていく。


アルフォンスは、振り返らなかった。

振り返らなくても分かった。

父は、この廊下の先に息子がいることを知っていながら何も言わずに向きを変え、去ったのだった。


(……見透かして、いる)


父は、いつも、そうだった。

息子が何を抱え、今夜何を胸の内側にしまったのか——たぶんその全部を見透かしていながら、決して問わない。

書状を机の上に置いたまま、廊下の角で、静かに向きを変えるだけだった。


足音が完全に遠ざかると、廊下に、また静けさが戻ってきた。


アルフォンスは、胸の内側の雫に当てた手を、ゆっくり下ろした。


「……行くか」


低く、それだけ言った。


セドリックは何か言いたそうな顔をしたが、結局、何も言わずに頷いた。

ふたりは、大広間の喧騒に背を向けて、静かな廊下を歩き出した。


アルフォンスの胸の内側で、布にくるまれた雫が、まだかすかに温かかった。

その温かさだけが、今夜この屋敷の中で、たったひとつアルフォンスの側にあるものだった。







※本作はnoteでも掲載中です。noteが最新話となります。

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