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第14話「おめでとう、が言いたかった」後半①



フェルドラク侯爵邸の大広間は、その夜、火の色をしていた。


天井から吊られた魔法のシャンデリアが、無数の火を抱いて燃えている。

火属性の魔術師が組み上げた構築系の灯りは、風にも人の出入りにも乱れず、ただ金と赤の光を磨かれた大理石の床へ落とし続けていた。


壁には、歴代当主の肖像画が並んでいる。

鎧をまとった男たち、剣を提げた男たち。その誰もが、笑っていなかった。

フェルドラク家は、帝国の盾だった。剣ではなく、盾。

守るために在る家の当主は、肖像画の中でも、背後の誰かを守るようにまっすぐ前を見据えている。


アルフォンスは、その大広間の中央に立っていた。


漆黒の正装に、襟と袖の金の細い刺繍。

十三歳の背は同じ年の誰よりも高く、その金の瞳は、広間のどの炎よりも静かだった。


今夜は、アルフォンスの誕生日だった。


「フェルドラク様、おめでとうございます」


声が、次から次へと、アルフォンスの前に差し出された。


侯爵家も伯爵家も子爵家も、名のある家の貴族たちが、今夜この大広間に集まっていた。

誰もが上等な絹をまとい、胸に銀の徽章を光らせ、完璧な笑みを浮かべている。


その一人一人に、アルフォンスは短く礼を返した。


「ありがとうございます」


それ以上は、言わなかった。貴族の挨拶は、言葉の中身ではなく、誰が誰に頭を下げたかという事実だけが意味を持つ。

アルフォンスは幼い頃から、それを知っていた。


令嬢たちが、順に、前へ出てきた。

どの令嬢も美しく、アルフォンスの金の瞳に自分の顔を映そうと、わずかに前傾していた。


アルフォンスは、その誰の顔も覚えなかった。覚えるべき顔は、この広間には、ひとつもなかった。


「アルフォンス様」


その声だけが、ほかと少し違った。


カトリーヌ・ド・ルミエールが、人の輪の中から、まっすぐに歩いてきた。

プラチナブロンドを高く結い上げ、純白の夜会装束をまとっている。

その髪に、小さな星の形をした銀の髪飾りがひとつ。

シャンデリアの火を受けて、その銀は、ほかのどの宝石とも違う硬質な光を返していた。


「お誕生日、おめでとうございます」


カトリーヌは、完璧な角度で頭を下げた。

そして頭を上げたあと——アルフォンスの半歩、横に立った。


その半歩の位置が、意味を持っていた。


広間じゅうの視線が、その半歩を見ていた。

ルミエール公爵家の令嬢が、フェルドラク侯爵家の跡取りのすぐ横に立つ。

それはただ立っているのではなく、家と家とが人々の目の前でひとつの線で結ばれようとしている——その線を、カトリーヌは笑みのまま引いてみせていた。


アルフォンスは、応えなかった。


応えなかったが、そこから動くこともしなかった

。動けば、それも意味になる。フェルドラク家の跡取りがルミエール家の令嬢を人前で払いのけた——その事実が、別の線を引いてしまう。


だから、アルフォンスは、ただ前を見ていた。

カトリーヌはその横で、笑みを保ったまま何も言わなかった

。何も言わないことがいちばん雄弁だと、この令嬢も知っていた。


広間の奥が、ざわめいた。


人の輪が自然に割れて、ひとつの道ができる。

その道の向こうから、白い軍装の男がゆっくりと歩いてきた。


ルミエール公爵だった。


胸の銀の徽章は、ほかのどの貴族のものより大きく、重い。光属性の名門であり、王家の信仰を司る家。その当主が歩くたびに、広間の貴族たちが波のように頭を下げていく。


公爵の向かう先に、ひとりの男が立っていた。エルハルト・フォン・フェルドラク侯爵。アルフォンスの父だった。


ふたりの当主が、広間の中央で向き合った。


公爵が、わずかに鷹揚な笑みを浮かべて、先に口を開いた。


「エルハルト侯。ご子息の誕生、祝着に存じる」


「……過分なお言葉、痛み入ります。ルミエール公爵閣下」


父の応えは低く、抑えられていた。公爵に対する、侯爵の礼。

けれど、その低さの底に、武門の家の矜持が揺るがずに沈んでいた。

へりくだってはいない。ただ、家格の差を、当主として正しく踏まえている——そういう低さだった。


ふたりは短く言葉を交わした。その中身は当たり障りのない祝辞だったが、その下に流れているものを、アルフォンスは聞き取っていた。


光と、武。


ルミエール家は、王家の信仰を司る。言葉と儀礼で人の心を束ねる家。

フェルドラク家は、王家の盾。剣ではなく盾、国の南端で敵の刃を自分の身で受け止める家。

帝国はその両方で立っていた。政が国の形を決め、武がその形を守る。ふたつの家がいま広間の中央で向き合っているのは、ただの社交ではなかった。帝国のふたつの軸が、近づこうとしている——その音を、貴族たちは息をひそめて聞いていた。


「……うちのカトリーヌが、いつも、ご子息に親しくしてもらっているようでな」


ルミエール公爵が、笑みのまま言った。上位の家の当主が、下位の家に向ける、鷹揚な親しさだった。

エルハルト侯爵は、すぐには答えなかった。ただ、その金の瞳がほんの一瞬広間の中央に立つ息子の方へ流れた。


アルフォンスは、その視線を受け止めた。受け止めて、何も表に出さなかった。


「……息子も、もう、十三だ」


エルハルト侯爵は、それだけ答えた

それ以上は言わなかったが、その短い一言が何を含んでいるかを、広間の誰もが理解した。十三。それは、フェルドラク家の跡取りがそろそろ、自分の家のために伴侶を選ぶべき年だという意味だった。


ルミエール公爵の笑みが、ほんの少しだけ深くなった。


アルフォンスは、その全部を見ていた。見ていて、何も言わなかった。


夜が更けて広間の喧騒が緩んだ頃、アルフォンスは父に呼ばれた。


北向きの書斎だった。窓のない壁に、軍略書と歴代の民情録が隙間なく並んでいる。

床には重い絨毯。火属性の家でありながら、この部屋にだけは暖炉の火がなかった。フェルドラク家の当主が、いちばん冷たい頭で物を考えるための部屋だと、アルフォンスは幼い頃から知っていた。


父は、書斎の机の向こうに立っていた。


机の上に、一通の書状が置かれている。封はすでに切られていた。封蝋の色は、白に近い銀。ルミエール公爵家の紋だった。


「……ルミエール公爵家から、正式な書状が届いた」


父は、その書状を、指先で机の中央へ少しだけ押し出した。アルフォンスの方へ。


「縁談だ」


アルフォンスは、その書状を見た。見て、すぐには手を伸ばさなかった。


「……そうですか」


口から出たのは、それだけだった。


父は、アルフォンスに、それを読めとも受けろとも言わなかった。

ただ書状を机の上に置いた。置いたまま、アルフォンスの金の瞳をまっすぐに見ていた。


——これは、命令ではない。


アルフォンスは知っていた。父は命じない。命じれば、それは父の意思になる。そうではなく、父はただ机の上に家の意思を置き、受け取るかどうかを息子自身に選ばせる。それが、フェルドラク家の当主の流儀だった。


「守るべき対象を知らぬ者に、盾は張れない」


低く、そう言った。


父がいつも言う言葉だった。守るべきものを、はっきりと持て。持たぬ者に盾を張る資格はない——そういう意味だと、アルフォンスはずっと思ってきた。


けれど今夜、その言葉は、別の重さでアルフォンスの中に落ちた。


守るべき対象を、知らぬ者に。


——俺は、知っている。


口には、出さなかった。出せば、それは父への答えになってしまう。

まだ、答える時ではなかった。


父は、それ以上、何も言わなかった。

ただ机の上の書状を、下げもしまいもせず、そのままにしておいた。


「……話は、それだけだ」


父の声が、書斎の冷たい空気の底に低く沈んだ。


「行け」


アルフォンスは、短く頭を下げて、書斎の扉へ向かった。

扉に手をかけた時、背中で、父の声がもう一度した。


「アルフォンス」


足が、止まった。


「……お前が、何を考えているかは、聞かん」


アルフォンスは、振り返らなかった。


「ただ、フェルドラクの跡取りであることだけは、忘れるな」


それは叱責でも、釘を刺す声でもなかった。ただ事実をひとつ置いただけの声だった。父の声は、いつも、そうだった。


「……はい」


アルフォンスは、それだけ答えて、書斎を出た。


廊下に出ると、大広間の喧騒が、遠く低く聞こえてきた。


アルフォンスは、その喧騒の方へは戻らなかった。

戻れば、また覚える必要のない顔が次から次へと前に出てくる。

おめでとうございます、と何百回も繰り返される中身のない言葉。

半歩横に立つルミエール家の令嬢。机の上に置かれたままの、白い銀の封蝋。


その全部が、今夜、アルフォンスを囲っていた。


家。家格。政略。盾。跡取り。

フェルドラクの名が、生まれた時からアルフォンスの背に積まれてきたものたち。

今夜それらは、はっきりと形を持って、この屋敷の中に満ちていた。


アルフォンスは、廊下の窓辺で足を止めた。


窓の外は暗い庭で、篝火が点々と灯されている。

その火を、アルフォンスはしばらく見ていた。


どの火も、揺れていなかった。


構築系の火は揺れない。命じられた形を命じられたまま保ち、乱れず、ただ燃える。


——あの火は、違った。


ふいに、そう思った。


あの夏のフェルンハイム。水路のほとりで掌の上に生まれた、深紅で中心が黒い小さな火。

あの火は、灯火が呼吸するように、低く深く揺れていた。

構築系の、命じられた火ではなかった。あれは、あの子の水の側で、初めて穏やかに凪いだ火だった。


アルフォンスは、その記憶を追わなかった。

追えば、この屋敷の中で、それはひどく場違いなものになる。

家格も政略も関係のない場所。眼鏡を外した亜麻色の髪。畑の匂い。井戸の水。

あの夏のすべてが、今夜のこの大広間とは、何ひとつ繋がらなかった。


——だからこそ。


アルフォンスは、窓の外の揺れない篝火を見ながら、ひとつだけ胸の底に低く置いた。


それは、まだ言葉にならなかった。誰に、何を、とも決まっていなかった。この屋敷の中の全部に対して、アルフォンスのいちばん底の火が、たしかに灯っていた。


その火は、揺れていた。


構築系の、命じられた火では、なかった。


アルフォンスは、長いあいだ、窓辺に立っていた。


    




※本作はnoteでも掲載中です。noteが最新話となります。

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