第14話「おめでとう、が言いたかった」前半②
朝の廊下を半歩離れて並んで歩いた、その日の午後。
最後の講義が終わってから、私はいつものように旧図書室へ向かった。
北廊下の突き当たりの重い石の扉を押すと、西側の高い窓から差し込む午後の遅い光が、書架の谷間に斜めの帯をいくつも落としていた。
埃の粒が、その光の帯の中で、ゆっくりと昇っては沈んでいる。
教室の喧騒も、廊下を行き交う足音も、この扉のうちには届かない。
ここだけが、いつも、世界から少しだけ切り離されたように静かだった。
テオ様は、長机のいちばん端に座って、古い装丁の本を読んでいた。
指先がページの縁にかかって、ときおり、ひとつめくる。
それ以外は、まるで時間が止まったように、動かない。
私が扉を閉めても、長机の向かいの椅子を引いても、テオ様は顔を上げなかった。
——けれど、私が腰を下ろして自分の本を開こうとした、その時だった。
「……リアネ」
ページから視線を外さないまま、テオ様が低く私の名を呼んだ。
テオ様が私を「リアネ」と呼ぶようになったのがいつからだったのか、私はもう、はっきりとは思い出せない。
気づいたら、そう呼ばれていた。
最初の頃の「特待生」という、どこか線を引くような響きは、いつの間にか消えていた。
「……はい」
「来週、フェルドラクの誕生日だ」
私は、本に伸ばしかけた手を、止めた。
テオ様の声は、いつもと同じ平らで低い響きだった。
何かを勧めるでも、問い詰めるでもない、
ただ事実だけを置いていく声だった。
それなのに、その一言だけが、なぜか私の体の奥にしずくが落ちるように沈んでいく。
「……そう、なんですか」
ようやく、それだけ、答えた。
「貴族の家では、その日に親しい者を招いて、夜会を開くらしいな」
テオ様はページを一枚めくって、その紙の音が消えるのを待つように、少しの間を置いてから続けた。
「俺は、行ったことがないが」
その声には、寂しさも、皮肉もなかった。ただ、自分もそういう場所に招かれる側ではないのだと、淡々と知っているだけの声だった。
——テオ様も、招かれない側なのだ。
私はそれを、伏せられたテオ様の睫毛の影から知りながら、自分の膝に視線を落とした。
「……私は」
言いかけて、私は口を閉じた。
平民の特待生が、侯爵令息の夜会に招かれることなど、あるはずがない。それは、口に出して確かめるまでもない、初めから分かりきったことだった。
少しの沈黙が、旧図書室の埃の光の中に、降りた。
それから、テオ様は読んでいた本を、静かに閉じた。
分厚い表紙が合わさる低い音が、静けさの底に、ゆっくりと沈んでいく。
「……何か、贈りたいのか」
——え。
私が思わず顔を上げると、テオ様は、私の方を見ていなかった。
閉じた本の表紙に長い指を置いたまま、書架の奥の薄暗がりの方へ視線を投げている。
私が何を考えていたのか、その横顔は、もうすべて見透かしているようだった。
「……わかり、ますか」
「顔に出ている」
テオ様の声は、責めても、からかってもいなかった。
ただ、見えてしまったものをそのまま言葉にしただけ、という低さだった。
——そんな顔を、私は、していたのだろうか。
頬に手を当てて確かめたくなったけれど、その代わりに、私は膝の上で両手を握った。
「……贈っても、いいの、でしょうか」
「さあな」
テオ様は、相変わらず書架の方を見たまま、淡々と答えた。
「招かれてもいない夜会に、贈り物を届ける方法を、俺は知らない」
その声は、突き放すような、平らな低さだった。
聞きようによっては、やめておけ、と言われたようにも取れる。
私は、握った手に、少しだけ力を込めた。
——けれど。
テオ様はそのあと、本の表紙の上で指をゆっくり滑らせて——それから、少しだけ間を置いた。その間の長さが、何かを選んでいる時間なのだと、私にはなぜか分かった。
「……呼ばれるかどうかは、リアネ次第だな」
それだけ、言った。
——呼ばれるかどうかは、リアネ次第。
私はその言葉を、自分の中で、もう一度ゆっくりと辿った。
それは、突き放しているようでいて、本当は背中をそっと押す言葉だった。
誰にも気づかれないくらい、静かに。届ける方法は教えない。
けれど、届けたいのなら、自分で見つけろ。
やめておけ、ではなく——やるなら、お前の足で。
テオ様の言葉は、いつも、そういう形をしていた。
テオ様は、それ以上、何も言わなかった。
ふたたび本を開いて、指先で、またページをめくり始めている。
——もう、話は、終わり。
その所作が、そういう合図だった。
「……ありがとう、ございます。テオ様」
テオ様は、答えなかった。ただ、ページをめくる指が、ほんの一瞬だけ宙で止まって——それから何事もなかったようにまた動いた。
それが、テオ様の、返事だった。
旧図書室を出ると、廊下は、もう夕暮れの色に沈み始めていた。
石畳の上に、自分の足音だけが低く続いていく。
窓の外では、傾いた陽が、夏の名残をとどめた中庭を薄い朱色に染めていた。
もう、夏は終わろうとしていた。
——フェルドラク様の、誕生日。
何を、贈ればいいのだろう。侯爵令息が欲しがるようなものなど、私には、見当もつかない。
きらびやかな宝石も、上等な絹も、私の手にはない。
私には、何も、ない。
——けれど。
その朱色の光を廊下の窓越しに見つめているうちに、私の中に、ひとつの記憶がゆっくりと浮かび上がってきた。
あの夏の、フェルンハイム。水路のそばで、フェルドラク様が手のひらの上にふっと浮かべて見せてくれた、深紅で中心だけが黒い小さな火。
あの火は、熱くなかった。ただ静かで、綺麗で——私の指先が触れるその直前に、音もなく消えた。
あの火を。
消えない形で、どこかに、閉じ込めておけたなら。
——そんなものが、もし、この手で作れたなら。
その思いつきは、まだ形にもなっていない、ただの願いの種だった。
私はそれを誰にも言わず、胸の奥のいちばん深いところに、そっと置いた。
置いたまま、夕暮れの廊下を、寮の方へと歩いた。
その夜から、私の指先は、ひとつのことだけを考え始めていた。
その夜、北方寄宿舎の廊下から物音が消えるのを、私は寝台の上でずっと待っていた。
特待生に与えられた部屋は、いちばん狭い棟のいちばん端にある。
壁ひとつ隔てた隣には、誰もいない。
それでも念のため、見回りの足音が遠ざかり、建物が深い眠りに沈むまで息をひそめていた。
窓の外では、月が薄い雲の向こうで青白く滲んでいた。
机の上には、水差しがひとつ。夕食のあと、食堂から誰にも見られないように持ち帰ってきたものだった。素焼きの肌に浮いたわずかな水滴を、月の光が撫でている。
私は寝台から下りて、机の前に座った。
そうして——眼鏡に、指をかけた。
眼鏡を外すことなら、これまでにも何度かあった。
顔を洗うとき、眠るとき、母様や兄様の前にいるとき。
フェルンハイムのあの家の中でだけは、私は素顔のままでいられた。
——けれど。
自分の意志で眼鏡を外し、ブレスレットまで外して魔力を底から呼び起こそうとするのは、これが初めてだった。
学院に来てから、私はずっと隠してきた。
眼鏡で魔力を抑え、ブレスレットでその底を覆い隠す。
目立たず、静かに。それが、母様がくれたふたつの魔道具の意味であり、学院で生き延びるための方法だった。
その方法を、今夜だけ、私は自分から手放そうとしている。
——たった一晩。誰にも見られない場所で。
そう自分に言い聞かせて、私は眼鏡を机の端に置いた。
レンズが月の光を弾いて、小さな円い光が机の上でひとつ揺れた。
次に、左の手首のブレスレットの留め金に、指をかけた。
兄様が、一晩かけて術式を刻んでくれたもの。
銀の細い鎖に、しずくの形をした薄水色の石がひとつ。その石に刻まれた術式が、いつも、私の魔力のいちばん深いところを抑えていた。
留め金を、外す。
鎖が手首からするりと滑り落ちて、机の上で小さく鳴った。
その瞬間だった。
体のいちばん奥の、ずっと蓋をされていた場所から、何かがゆっくりと満ちてくるのを感じた。
それは痛みでも、熱でもなかった。
ただ、水位がゆっくり上がってくるような、そういう感覚だった。
指先が、わずかに痺れる。
——これが、私のほんとうの底。
母様が「深海」と呼ばれた、その血のいちばん深いところ。
私は息をひとつついて、机の上の水差しに手を伸ばした。
両手でそっと傾けて、掌の窪みに、水をひとすくいだけ落とす。
水は月の光を吸って、薄く光っていた。
——潤いの手。お貸しします。
母様譲りの、小さな術式。
詠むほどのことでもない、いつもの呼びかけ。
けれど、それを口の中で唱えるのは、フェルンハイムの水路を離れてから初めてだった。
指先から、銀に近い透明な糸が、ふわりと立ち上がる。
その糸が、掌の水に、そっと触れた。畑の畝に水を導くときと、同じ術式。けれど今夜、私が導きたいのは、土ではなかった。
——おいで。
水が、私の意志に応えて、掌の上から宙へ昇っていく。
握りこぶしくらいの透明な球になって、机の上、私の目の高さで回り始めた。
潤いの手で、水を、形にする。
それは、これまで一度も、したことのない使い方だった。
畑を潤すための術式が、いま、私の指先で別のかたちを描こうとしている。
——でも、今夜したいのは、それだけじゃない。
私はその球を見つめながら、指先にもう一段、深く意識を沈めた。
水を——凍らせたい。
凍らせたことなど、一度もなかった。
学院の実技でも、私は水を出すところでいつも止めていた。
それ以上は目立ってしまうから。だから、自分が水を凍らせられるのかどうかさえ、知らなかった。
——でも。
旧図書室で、テオ様がくれた氷晶草の砂糖菓子。
舌の上でひんやりと溶けていった、あの透明な冷たさ。
その感覚を、私は思い出していた。テオ様の氷。
その静かな冷たさが、いつのまにか私の中のどこかに、種のように残っていたのかもしれない。それとも、もっと前から眠っていた力なのか。わからないまま、私はその球の中心へ、意識をしずくのように落とした。
——冷えて。
球の回転が、少しずつ遅くなる。表面が薄く白く曇り、内側から細い霜のような筋が走っていく。
私は息を止めて、その変化を見つめていた。
水が、固まっていく。いちばん外側から、透明な硬さへと変わっていく。やがて回転が、完全に止まった。
私の目の前の宙に、月の光を集めた雫のかたちの透明な水晶が、ひとつ浮かんでいた。
——でも、まだ、足りない。
これはただの氷の雫だった。きれいだけれど、朝には溶けて消えてしまう。
私が贈りたいのは、こんな儚いものではなかった。
私はその水晶を目の前に浮かべたまま、目を閉じた。
——あの火を。
あの夏のフェルンハイム。
水路のそばで、フェルドラク様が手のひらにふっと浮かべてみせた火。
深紅で、中心だけが黒い。
熱くなくて、ただ綺麗で——私の指先が触れるその直前に、音もなく消えた小さな火。
その記憶を、私は体のいちばん深いところから、両手ですくい上げるように引き寄せた。
色を、形を、あの静かな揺らぎ方を。
私の中の水が、その記憶に応えるように、低く共鳴を始めた。
——これが、私の力。
母様が「共鳴」と呼ばれた、その血。
他者の魔力と深いところで響き合い、そのかたちを自分の中に写し取る力。
私はフェルドラク様の火を、あの夏、たしかにこの目で見ていた。
だから、その記憶を、いま私の水の中にもう一度咲かせることができる。
目を開けて、引き寄せた火の記憶を、透明な水晶の中心へとそっと置いた。
水晶のいちばん深い中心で——小さな火が、灯った。
深紅で、中心だけが黒い。あの夏、見たままの火だった。
それは水晶の中で揺れていた。閉じ込められているのに、苦しそうでも消えそうでもなく、そこに在ることが当たり前のように揺れている。
水と、火。混ざり合うはずのないふたつが、ひとつの透明な雫の中で、たがいを損なわず共に在った。
私はその水晶を、両の手のひらでそっと受け止めた。
冷たいはずだった。氷でできているのだから。
——でも、その雫は、ほんのり温かかった。
中心の火が外側の氷を溶かすことなく、ただその温度だけを分け合っているようだった。
私はその小さな温かい雫を、手のひらの上で、長いあいだ見つめていた。
——渡せる、かな。
声には、出さなかった。ただ心の中で、低く置いた。
それは宝石でも絹でもない。
きらびやかでも高価でもない。
けれど、私にしか作れないものだった。
母様から受け継いだ血と、あの夏たしかに見たあの人の火と。そのふたつがなければ、生まれなかった、たったひとつの雫だった。
夜がいちばん深くなった頃、私は留め金を、もう一度留め直した。
兄様のブレスレットが左の手首に戻ってくる。刻まれた術式が働いて、満ちていた水位が、すっと底の方へ引いていった。痺れていた指先が、いつもの何も感じない指先に戻る。
私は眼鏡をかけた。レンズ越しの世界が、また少しだけぼやけて、遠くなる。
——まだ、外したままでは、生きられない。
それを、私は知っていた。今夜だけ。誰にも見られないこの部屋の中でだけ、私はほんとうの私でいられた。それで、十分だった。
机の引き出しのいちばん奥に、私はその雫を、やわらかい布にくるんでしまった。布の上からそっと手のひらを当てると、布越しにも、かすかな温かさが伝わってきた。中の火は、まだ消えていなかった。
——どうやって、渡そう。
私は招かれていない。あの夜会には、行けない。
それでも、これを、あの人に渡したい。その方法を、私はまだ知らなかった。
——けれど、きっと、見つかる。
テオ様が、言ってくれた。呼ばれるかどうかは、私次第だ、と。
私は布にくるんだ雫を引き出しの奥へそっと押し込んで、引き出しを閉めた。
窓の外では、月がもう雲を抜けて、冴え冴えと夜空に懸かっていた。
その光を、私はしばらく見ていた。
明日、セドリック様に相談してみよう。
あの人なら、きっと笑って、なんとかしてくれる気がした。
私は寝台に戻った。
布にくるんだ小さな温かさのことを考えながら——その夜は、いつもよりずっと深く眠った。
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