表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
47/59

第14話「おめでとう、が言いたかった」前半①



朝の光が本校舎の北廊下の高い窓から薄く差し込む中、私はいつもと同じ歩幅で教室へ向かっていた——けれど足の運びが、いつもより少しだけ重かった。


——一昨日の運動会から、まだ二日。


青の旗の下で動いた唇のことも、昨日の旧図書室で長机の上に置かれた指先の温度も、まだ私の体のどこかに低く残っていた。


    


昨日の昼休み、旧図書室でテオ様が「話がある」と入ってきた時、アルフォンス様は席を立つ前に低くひと言だけ残した。


「……後で、迎えに来る」


それだけだった。私は、「はい」とだけ答えた。


——けれど、テオ様の話が終わってからも、扉は開かなかった。

昼休みの終わりを告げる鐘が鳴るまで、私は古文書に指を置いたまま、扉の方を見ていた。


午後の講義に向かう廊下の石畳の上で、自分の足音だけが低く響いていた。


——アルフォンス様は、来なかった。

それを、私は誰にも言わずに、ただ胸の奥にそのまま置いた。


    


——「目立たず、静かに」。


それが、私が学院に入った日に自分に課したルールだった。

平民の特待生が、侯爵令息の予定を気にしても、何も生まない。


「迎えに来る」のひと言を、私は勝手に背負いすぎたのかもしれない——そう自分に言い聞かせながら、私はいつもと同じ歩幅で廊下を歩いた。


    


廊下の角を曲がろうとした、その時——アルフォンス様が、立っていた。

ひとり、廊下の壁を背にして、漆黒の制服に朝の光がまだ薄く落ちている。


私は、足を止めた。


「……フェルドラク様」


——口から出た言葉に、私は自分で驚いた。


夏休み前の旧図書室で「アルフォンスだ」と訂正されてから、私はずっと「アルフォンス様」と呼んできた。

けれど今朝、自然と「フェルドラク様」が口から出てしまった。


(……戻ってしまった)


それを、私は自分でも知りながら、目を伏せた。


    


アルフォンス様は何かを言いかけて、低く息を吸ったまま口を開きかけ——けれど、その言葉は出てこなかった。


代わりに、その口元が一瞬だけ止まる。

何かを飲み込むようにまた静かに閉じた。


——何を、言おうとしたのですか。


私は訊けなかった。訊くだけの場所に、まだ、いなかった。


    



少しの沈黙のあと、低く、別の言葉が置かれた。


「……昨日」


私が、「……はい」と返すと、声は続いた。


「……迎えに、行かなかった」


その声は、いつもの低くまっすぐな声だった。


私は、目を伏せたまま、「……いえ」とだけ答えた。


「……すまない」


——え。私は、自分の耳を疑った。


夏休み前の旧図書室で初めて笑った日も、その後の廊下で並んで歩いた時も、あの人は私が「申し訳ありません」と言うたびに「謝るな」と返してきた。


——そう毎回言ってきた人が今、自分の口で「すまない」と言った。

私は、顔を上げた。

金の瞳が、まっすぐ私を見ていた。

その瞳は、いつもより、わずかに揺れていた。


    


「……行けなかった、理由は」


言葉を選びながら、その声がゆっくり続いた。


「……まだ、言えない」


——なぜ、と訊いてはいけないのだ、と私はその瞳の揺れから知った。

知ったまま目を伏せた瞼の裏で、胸の奥がゆっくり温かくなっていく。


——「すまない」と言ってくれた人を、私は信じたい。

その願いを、私は胸の奥に低く置いた。


    


「……でも、今日は」


わずかな間を置いてから、その声がまた低く続いた。


「……隣にいる」


たった、それだけだった。

「行く」でもなく、「呼ぶ」でもなく、「隣にいる」と。


私はその言葉を、自分の体の中でゆっくり置いた。


「……はい」


それだけ、答えた。

——でも、その「はい」の中に、私は初めて信頼を置いた。


    


アルフォンス様は、それ以上、何も言わなかった。

ただ、私の隣に、半歩だけ離れた距離で立っていた。


廊下の高い窓から、朝の光が二人の足元に静かに落ちていた。


——一組の教室の方から、誰かの笑い声が遠く聞こえた。セドリック様の声、だった気がした。


その声を合図に、低く、息が漏れた。


「……行くか」


「……はい」


私たちは、教室の方へ並んで歩き出した。


——半歩だけ、離れて。


その半歩の距離を、私はいまだに覚えている。





※本作はnoteでも掲載中です。noteが最新話となります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ