第14話「おめでとう、が言いたかった」前半①
朝の光が本校舎の北廊下の高い窓から薄く差し込む中、私はいつもと同じ歩幅で教室へ向かっていた——けれど足の運びが、いつもより少しだけ重かった。
——一昨日の運動会から、まだ二日。
青の旗の下で動いた唇のことも、昨日の旧図書室で長机の上に置かれた指先の温度も、まだ私の体のどこかに低く残っていた。
昨日の昼休み、旧図書室でテオ様が「話がある」と入ってきた時、アルフォンス様は席を立つ前に低くひと言だけ残した。
「……後で、迎えに来る」
それだけだった。私は、「はい」とだけ答えた。
——けれど、テオ様の話が終わってからも、扉は開かなかった。
昼休みの終わりを告げる鐘が鳴るまで、私は古文書に指を置いたまま、扉の方を見ていた。
午後の講義に向かう廊下の石畳の上で、自分の足音だけが低く響いていた。
——アルフォンス様は、来なかった。
それを、私は誰にも言わずに、ただ胸の奥にそのまま置いた。
——「目立たず、静かに」。
それが、私が学院に入った日に自分に課したルールだった。
平民の特待生が、侯爵令息の予定を気にしても、何も生まない。
「迎えに来る」のひと言を、私は勝手に背負いすぎたのかもしれない——そう自分に言い聞かせながら、私はいつもと同じ歩幅で廊下を歩いた。
廊下の角を曲がろうとした、その時——アルフォンス様が、立っていた。
ひとり、廊下の壁を背にして、漆黒の制服に朝の光がまだ薄く落ちている。
私は、足を止めた。
「……フェルドラク様」
——口から出た言葉に、私は自分で驚いた。
夏休み前の旧図書室で「アルフォンスだ」と訂正されてから、私はずっと「アルフォンス様」と呼んできた。
けれど今朝、自然と「フェルドラク様」が口から出てしまった。
(……戻ってしまった)
それを、私は自分でも知りながら、目を伏せた。
アルフォンス様は何かを言いかけて、低く息を吸ったまま口を開きかけ——けれど、その言葉は出てこなかった。
代わりに、その口元が一瞬だけ止まる。
何かを飲み込むようにまた静かに閉じた。
——何を、言おうとしたのですか。
私は訊けなかった。訊くだけの場所に、まだ、いなかった。
少しの沈黙のあと、低く、別の言葉が置かれた。
「……昨日」
私が、「……はい」と返すと、声は続いた。
「……迎えに、行かなかった」
その声は、いつもの低くまっすぐな声だった。
私は、目を伏せたまま、「……いえ」とだけ答えた。
「……すまない」
——え。私は、自分の耳を疑った。
夏休み前の旧図書室で初めて笑った日も、その後の廊下で並んで歩いた時も、あの人は私が「申し訳ありません」と言うたびに「謝るな」と返してきた。
——そう毎回言ってきた人が今、自分の口で「すまない」と言った。
私は、顔を上げた。
金の瞳が、まっすぐ私を見ていた。
その瞳は、いつもより、わずかに揺れていた。
「……行けなかった、理由は」
言葉を選びながら、その声がゆっくり続いた。
「……まだ、言えない」
——なぜ、と訊いてはいけないのだ、と私はその瞳の揺れから知った。
知ったまま目を伏せた瞼の裏で、胸の奥がゆっくり温かくなっていく。
——「すまない」と言ってくれた人を、私は信じたい。
その願いを、私は胸の奥に低く置いた。
「……でも、今日は」
わずかな間を置いてから、その声がまた低く続いた。
「……隣にいる」
たった、それだけだった。
「行く」でもなく、「呼ぶ」でもなく、「隣にいる」と。
私はその言葉を、自分の体の中でゆっくり置いた。
「……はい」
それだけ、答えた。
——でも、その「はい」の中に、私は初めて信頼を置いた。
アルフォンス様は、それ以上、何も言わなかった。
ただ、私の隣に、半歩だけ離れた距離で立っていた。
廊下の高い窓から、朝の光が二人の足元に静かに落ちていた。
——一組の教室の方から、誰かの笑い声が遠く聞こえた。セドリック様の声、だった気がした。
その声を合図に、低く、息が漏れた。
「……行くか」
「……はい」
私たちは、教室の方へ並んで歩き出した。
——半歩だけ、離れて。
その半歩の距離を、私はいまだに覚えている。
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