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第13.7話「深海の魔女、エレナ」後半


南へと向かう商船は、嵐の海を二日と二夜かけて渡った。

エレナは船底の片隅で、雨の匂いのまま丸くなって座っていた。


——もう、誰の駒にもならない。

——そして、誰のことも、駒にしない。


——この力も、二度と表には出さない。


深海の魔女と呼ばれた水の力こそが、自分を駒にするのだと、エレナは知っていた。

その意志だけを体の中に置いて、エレナは目を閉じていた。


三日目の朝、船はソル・グラニア帝国の港に着いた。

エレナは船を降りて、北へと歩き出した。

帝都には行かなかった。

人の多い場所では、いずれ素性が知られてしまうから、エレナは誰も知らない土地を選んだ。

歩いてようやくたどり着いたのは、フェルンハイムという、帝国の南端の小さな村だった。


麦畑と果樹の並木と、水路の流れる静かな土地。


    


その日も、雨が降っていた。

エレナは、麦畑の縁の細い道のはずれで、旅装のままうずくまっていた。

もう、歩く力も残っていなかった。


——その時、麦畑の中で誰かが立ち上がった。

亜麻色の髪の若い男が、土のついた手で、手ぬぐいを片方だけ握りしめている。


「あなた、雨に濡れて寒くないか?」

——それが、エドガーの最初の言葉だった。


エレナは答えられなかった。

ただ、その男の温かみのある茶色の目を見ていた。

——その目には、エレナの素性を測ろうとする色が、なかった。

エドガーは、それ以上は何も聞かなかった。


立てないエレナに黙って肩を貸して、自分の家のほうへ歩き出す。

ちらりとこちらを見て、また前を向く。


——その横顔を、エレナはいまも覚えている。


    


エレナは、その家で、熱を出して三日寝込んだ。

目を覚ましたとき、台所の窓から、夏の夕日が差していた。

エレナはその光を見て、一度だけ、声を出さずに泣いた。


——どこから来たのか、と、エドガーは聞かなかった。


なぜひとりで倒れていたのか、とも、聞かなかった。

ただ、冷めないうちにと、麦のスープを枕元に置いていく。

熱が下がって、ようやく起き上がれるようになった頃のことだ。

エレナはエドガーに、ひとつだけ伝えた。


なにもかも捨てて、逃げてきた人間だ、と。

——どこから、何から逃げてきたのかは、言わなかった。


エドガーは、ただ頷いた。

それ以上は、何も聞かなかった。

それからエレナは、母屋ではなく、麦畑の先の納屋で寝起きするようになった。

雨の音が、納屋の屋根の上で、低く聞こえていた。


    


麦が、二度、実った。

そのあいだ、エドガーは母屋で暮らし、エレナは納屋で暮らした。

エドガーはそれ以上を聞かず、エレナもそれ以上を話さなかった。

ただ、毎朝エドガーは麦畑を見回り、毎夕に麦のスープを納屋の戸口に置いた。

そのあいだにエレナは井戸の水を汲み、畑の畝を直し、水路の詰まりをさらった。

エドガーがちらりと見て、また土に戻る——その動きが、季節を越えても同じだった。


ふたりの暮らしは、母屋と納屋のあいだの、その距離のままだった。


——この人は、私のことを、聞かない。

けれど、私を、追い出しもしない。

エレナの中で、何かがゆっくりと満ちていった。

それが何かを、エレナはまだ、知らなかった。


    


三度目の麦が実った夜のことだった。その夜は、エドガーがスープを戸口に置いても、すぐには母屋へ戻らなかった。

納屋の戸口で火の始末をするふりをして、薪をひとつ、組み直していた。


その背中を見ながら、エレナは、ようやく口を開いた。

逃げてきたとだけ伝えたあの日から、二年と少し。

納屋で季節を越えて、エレナははじめて、自分からぜんぶを話そうとしていた。


「あなたに、話したいことが、あります」


エドガーは振り返らなかった。ただ、薪の組み方を整え終えて、その場に座り直した。——その背中が聞いている、とエレナは知った。

エレナは、ひとつずつ、話した。

アクアニアで、深海の魔女と呼ばれていたこと。

王太子の隣にいることを、断ったこと。

置き手紙を残して、国を捨てたこと。

いまも、ノクティスから命を狙われているかもしれないこと。


エドガーは、火を見たまま、ただ聞いていた。

エレナの話が終わってもしばらく、何も言わなかった。

それから、火の前で、低く言った。


「俺は、魔法のことは、わからん」


「ただ、雨に濡れた人を、家に入れる」


「それだけのことだ」


——納屋ではなく、母屋に。

エドガーの言葉の意味を、エレナは二年と少しの時間の果てに知った。

——エレナはその時、自分の中で何かが満ちていくのを知った。

それは、二十年あまりを生きてきて初めて感じる温度だった。


「聞いて、それでも、隣にいる」

——エドガーは、それだけだった。


エレナはそれから、フェルンハイムを出なかった。


    


二年後にゼノが生まれ、その六年後に、リアネが生まれた。

ふたりの子が育つあいだ、エレナは自分の力をもう表に出さなかった。


——出してはいけない、と知っていたから。

エレナは自分の体の中の水を、深い場所に低く沈めた。

沈めて、その上に、ただの母の温度だけを置いた。


それから、十三年が経った。


    


桶を抱えたエレナは、縁側の少し手前で足を止めた。

朝の光が、もう夏の青さに変わっている。

エドガーが縁側で、麦の穂をひとつだけ、手のひらの上で転がしていた。


「エレナ、朝飯ができたぞ」


エドガーが、いつものようにこちらを見た。

ちらりと見て、また麦の穂に視線を戻す。

——その動きは、二十年あまり前の雨の麦畑の縁と、変わっていなかった。


エレナは桶を縁側の脇に置いて、夫の隣に座り、薄水色の朝の空を見上げた。

——私は深海の魔女ではなく、ただのエレナとして、ここにいる。

エレナは、心の中で低く置いた。


    


——とエレナは、ふと思った。

アクアニアは、私を追ってこなかった。

二十年あまり、追ってこなかった。


——けれど、最近。

井戸の水を汲むときに、エレナの指先が、いつもとは違う温度を感じることがあった。


それは、海の向こうの——アクアニアの、誰かの動きだった。

エレナは、自分の力を封じたつもりだった。


——それでも、水は、完全には黙らない。

それは、ノクティスのことかもしれなかったし、王家の派閥のことかもしれなかった。


——ただ、あの子の力は、これから化ける。


リアネの中の水は、私が封じた水とは違う流れ方をする。


その流れ方を、いつか誰かが見つけにくる日が来る。

——その時。エレナは、麦の穂を見ていた夫の手のひらを、自分の中に置いた。


「あの子も、いつか、自分で選ぶ日が来るわ」


エレナは声に出さずに、低く言った。——私が、二十年あまり前に選んだように。縁側の上で、朝の光がゆっくりと満ちていった。





※本作はnoteでも掲載中です。noteが最新話となります。

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