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第13.7話「深海の魔女、エレナ」前半



夏の朝のフェルンハイムの空が、薄い乳白色から透き通る青へとゆっくり変わっていく。

エレナは井戸の縁に手をかけて、桶を引き上げた。

汲み上げた水の表面を、朝の光がいくつもの層を重ねて滑っていく。


——その水の流れに、エレナは指先を浸した。

浸して、自分の魔力を一滴だけ水の中に置いた。


水が、ほんの少しだけ温かくなった。

それだけだった。


——あの頃の自分は、こんなふうに水と話していなかった。

エレナは桶の水を眺めながら、低く息を吐いた。


「エレナ」


——縁側から、エドガーの声がした。


「麦の様子、見てきたぞ。今年はなかなか、いい色をしてる」


エドガーが、土のついた手のひらを片方だけ軽く振ってみせる。

エレナは振り返って、いつものように微笑んだ。


「ありがとう。朝ごはん、できてるわ」


「お前が来ると、畑が喜ぶな」


——エドガーが、いつものように言った。

エドガーが土のついた手を井戸の脇の桶で洗いながら、こちらをちらりと見てまた土に視線を戻す。


それだけだった。

二十年、毎朝のことだった。



    



エレナは桶を抱えて、縁側の方へ歩いた。

歩きながら、ふと桶の中の水をもう一度見た。朝の光が、水の上で滑っている。


——あの海と、よく似ていた。

アクアニアの王宮の北の塔の麓の、薄水色の海。


——あの頃。

エレナは、水の流れにそっと過去を呼び戻した。


    




十五歳の春、エレナはアクアニア王宮魔術師団に平民として配属された。

王立学院ではなく王宮直属の魔術師団に直接入ったのは、エレナの水魔法が当時の長老たちにも測れないほど深かったからだった。


「お前は、水と話せるな」


最初にそう言ってくれたのは、当時の長老ではなく四つ年上の王太子——アルベルトだった。


十九歳のアルベルトは剣を振っているうちに、王立学院の校庭から魔術師団の訓練場までやってきて、新入りの平民の少女に迷わず声をかけた。


「私は、お前の水を、見たい」


エレナは手のひらに、小さな水球を浮かべて見せた。

水球は、朝の光を受けて透き通っていた。


——アルベルトの薄水色の瞳が、その水球をまっすぐに見ていた。

それが、エレナとアルベルトの最初の朝だった。


    



四年が経った。

エレナが十九歳の春、ノクティスの闇の魔術師たちがアクアニアの南の半島へ押し寄せた。

民の住む集落が闇の魔術で次々と燃え落ちる中、エレナはアルベルトと並んで最前線に立った。


——海から、水を呼び寄せた。


エレナの両手の前で、海の水が巨大な壁となって立ち上がった。

水の壁は、空の高さに届くほどゆっくりと立ち上がっていった。


闇の魔術師たちが放った闇を、その水の壁が跳ね返した。


跳ね返して、もう一度海へと引いていった。

民の半分が、その水の壁によって救われた。


戦のあと、アクアニアの民はエレナのことを「深海の魔女」と呼ぶようになった。


    



戦場の帰り道、アルベルトが馬上からエレナに声をかけた。


「お前がいなければ、民の半分は失われていた」


「私の力は、王太子殿下のためにある力です」


エレナは、いつものように答えた。

——けれど、その時アルベルトの薄水色の瞳が、いつもとは違う深い色をしていた。


それは、戦友の目ではなかった。

エレナは、それに気づいてしまった。


——気づいてしまったから、目を伏せた。


伏せた瞼の裏でエレナは、自分の中の水がほんの少しだけ温かくなったのを知っていた。


——ここから、私の人生が変わっていった。

桶の中の水が、朝の光を澄ませている。

エレナは低く息を吐いて、また縁側へと歩き出した。






二十歳の春が来た。


——けれど、その春は、四年前のような春ではなかった。


大陸の南に位置する闇の国——ノクティスの闇の魔術師たちは、深海の救国の戦のあとも、暗い影のようにアクアニアの周りに残り続けていた。


エレナはひとりで湾岸の警備を任され、王宮の魔術師団からも少し距離を置いて暮らすようになった。

それは、エレナを守るための配置だと長老たちは言ったけれど、エレナは知っていた

——アクアニア王家の中に、自分のことを「強すぎる駒」として使おうとする派閥が、静かに動き始めていることを。


    



ある夕暮れ、アルベルトがエレナの暮らす湾岸の小さな館に、馬を引いて訪ねてきた。

供は連れていなかった。

王太子がひとりで訪ねてくるのは、四年前の戦のあとはじめてのことだった。


「エレナ」


低く呼ばれて振り返ると、夕暮れの薄水色の光の中で、アルベルトの瞳が、いつもとは違う温度を含んでいた。


「私の隣にいてくれ」


アルベルトが低く言った。


「王太子妃としてというよりも、ただ私の隣に」


四年間、戦場で並んで戦った男の声だった。

その声の温度を、エレナはよく知っていた。


——エレナはしばらく、答えなかった。

潮の音が、二人の間で低く満ちていた。


「殿下」


エレナがようやく口を開くと、自分でも驚くほど低い声が出た。


「私には、その言葉にお答えする力がございません」


「力か」、とアルベルトが低く返した。


「はい」とエレナが答えると、アルベルトは薄水色の瞳をエレナから外して、海の方を見た。


「お前の力ではなく、お前自身が欲しいんだ」


——エレナの中で、水が温かく動いた。

それを知ったまま、エレナは目を伏せて、答えた。


「お答えできません」


それだけだった。

潮の音がまた、二人の間で低く満ちていた。


——殿下、ともう一度呼ぶ言葉を、エレナは飲み込んだ。

呼べば、自分の中の水が、もっと温かくなってしまう。それを、エレナは知っていた。


    



その夜、館の外で嵐が来ていた。雨が低く窓を叩き、海の音が、いつもより荒く満ちている。


エレナはその音の中で、机の前に座った。

紙と羽根ペンとインク壺が、机の上に置かれていた。


——書かなければならない。

書かなければアクアニアの民が、王家の駒として自分を使おうとする派閥に巻き込まれていく。

アルベルトが、自分のために政争の中心へ降りていく。


——彼を、駒にしてしまう。


エレナは羽根ペンを取って、紙の上で何度も止まった。

それから、ようやく書いた。


「もう、誰の駒にもなりたくない」


——たった、それだけ。


理由も行き先も誰の名前も、書かなかった。

書けば、彼が追ってくる。書かなければ、彼は最後まで王太子のままでいられる。


——アルベルト様、あなたを置いて、私は消えます。


その言葉だけは、紙の上には置かなかった。エレナの中だけに、置いた。


    



外の海が、いっそう低く荒れていた。


エレナは旅装に着替え、置き手紙を机の上に残して、館の裏口から海の方へと歩いた。

——南へと向かう商船が、嵐の夜にひそかに港を出る。その船にエレナは乗ることにしていた。


商船の船頭はエレナの素性を知らなかった。

ただ、若い女がひとりで海を渡りたがっていると聞いて、頷いた。


エレナは湾岸の小さな館を、振り返らなかった。

——振り返れば戻ってしまう、と分かっていたから。


ただ館の裏の麦畑のような野原を、雨に打たれながら低く歩いた。

港の灯りが、雨の向こうで滲んでいた。


その滲んだ灯りの向こうへ、エレナは歩いていった。





※本作はnoteでも掲載中です。noteが最新話となります。

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