第13.5話「テオドール・アクアニアの夜」後半②
旧図書室の北の窓の外で、夕暮れの光がもう、淡い橙から深い茜へと変わっていた。
テオドールは、長机の上の古文書の表紙の革に片手の指の腹を置いたまま、動かずにいた。
どのくらいの時間そのままでいたのかは、もう、わからない。
九歳の任命の日と十二歳の出発前夜と今日のリアネとの午後——三つの時間が、テオドールの中で低く重なっていた。
——「……違う」
そのひと言だけが、テオドールの体の中の深い場所で低く揺れていた。
今日、リアネに言った言葉だった。
「最初から、お前を、探していた」と自分の口で言ったあと、リアネは低く問い返した。
その問いに、テオドールは自分の意志で「違う」と答えた。
二度、置いた。
(……あれは、なんだった)
旧図書室の革の表紙の上で、テオドールの指が止まったまま、動かない。
——テオドールは、自分の九歳から十二歳までの三年間を、低く振り返った。
九歳の春に書架室で父アルベルトから任務を受け、十二歳の春に王宮を抜け出して入り江の石の上で、自分の中の水魔法を氷へ変えた。
二日と二夜をかけて海を越え、ソル・グラニア帝国の港に着き、馬車で帝都へ向かって聖アステリア魔導学院の門をくぐった。
——その三年間で、テオドールが「自分の意志」で発した言葉は、一つもなかった。
「はい」と父に答えた言葉も、「氷魔法を、研究します」と学院の教師に答えた言葉も、入学式で名乗った言葉も——どれも、駒の言葉だった。
——けれど、今日の答えは、違った。
リアネに「違う」と言わなくても、任務としては成立した。
「アクアニア王家のためだ」と言って彼女を連れ帰る方が、任務には合っていた。
それなのに、テオドールは「違う」と答えた。
(……俺は、今日、初めて自分の意志で何かを言った)
旧図書室の窓の外で、夕暮れの光がまた低く降りて、長机の古文書の革の表紙の上を低く滑っていった。
指の腹の下で、古文書の革の質感が、九歳のあの日の手触りとはわずかに違って感じられた。
——氷。
テオドールの体の中のいちばん深い場所に置かれた、氷の輪郭。
九歳の任命の日から十二歳の出発前夜の入り江まで、三年かけて凍らせ続けてきた、その氷。
——今日、ほんの一点だけ、溶けた。
入り江の夜、テオドールは自分の氷が一度揺らいだのを知って、すぐに凍らせ直した。
あの夜のテオドールには、それができた。
——けれど、今日は、できなかった。
「違う」と答えた瞬間に、氷の一部が低く落ちて、落ちた場所にはもう凍らせ直す術がなかった。
その溶けた場所を、テオドールはいま、ようやく見ている。
——「私は——彼女を、守りきれなかった」
九歳の春、父アルベルトが書架室で低く言ったひと言。
その「守りきれなかった」のあとに、父の声の温度が海の底のように深く沈んだ瞬間が、あった。
九歳のテオドールは、それを感じ取れなかった。
いま十二歳のテオドールは、その瞬間の父の声を、自分の中でもう一度置き直してみる。
(……あれは、なんだった)
——わからない。
——何かが、父の声の中にあった。
受け取れなかったその何かを、テオドールはいま、わずかに感じている。
(……父上、あなたは何を、守れなかったのですか)
——その問いの答えは、テオドールの中にまだ出てこない。
九歳のあの日に置かれた三つの輪郭——任務と、信頼と、「お前なら、できる」のひと言。
それは、いまもテオドールの中で深く置かれている。
——けれど、今日その中に、初めてもう一つの何かが置かれた。
(……俺は、今日、初めて自分の意志で『違う』と言った)
——その何かに名前をつけたら、たぶん、テオドールの中の氷が完全に溶けてしまう。
だから、テオドールはそれを名前のないまま、自分の体の中に置いた。
旧図書室の北の窓の外で、夕暮れの光がほぼ消えていた。
テオドールは長机から立ち上がって、椅子を低く戻し、古文書を棚の元の場所に戻した。
それから、旧図書室の重い木の扉を開けて廊下に出た。扉が、テオドールの背後で低く閉まった。
廊下の薄暗い空気の中に、もう、夕暮れの光はない。——夜の、はじまりだった。
テオドールは北廊下の石畳の上を、自分の足音だけを聞きながら、ゆっくりと歩いた。
学院の留学期限は、あと一年もない。
——三年で、深海の魔女の娘を、見つける。
その時間の重さを、九歳のテオドールは自分の体の中に置いた。
今日、その三年が、ちょうど折り返した。
——本国に呼ばれる。
それは、テオドールの意志とは無関係に、もう、決まっていた。
廊下の石畳の上で、テオドールの足がほんの一歩だけ止まって、また歩き出した。
(……呼ばれて、それでも)
その続きの言葉は、テオドールの中にまだ出てこない。——出てこないまま、それでも歩き続けた。
(……俺は、明日また、リアネに会う)
(……その時、自分は、彼女に何と言うのか)
その答えは、まだない。テオドールはそれを「わからない」のままで、置くことに決めた。
決めて、足を、前に進めた。
北廊下の途中の窓の外で、月が低く昇り始めていた。
——アクアニアの王宮の北の塔の麓の入り江で見上げた、あの月と、同じ月だった。
(……父上)
言葉には、しなかった。
廊下の終わりに、寮への分かれ道があった。
テオドールはそこで、もう一度、足を止めた。
——その日まで、自分はリアネの隣に、座っていられる。
(……それで、いい)
テオドールが寮の方へ歩き出すと、月の光が、廊下の石畳の上を低く、テオドールの足音と並んで、滑っていった。
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