第13.5話「テオドール・アクアニアの夜」後半①
ソル・グラニア帝国へ出発する、前の夜だった。
十二歳のテオドールは、王宮を抜け出して、海へ降りた。
抜け出した、というほど大袈裟なものではなかった。テオドールが夜に海辺へ降りるのは、九歳のあの春の任命の日からもう何度目だったか、数えていなかった。
ただ、今夜だけは、明日が違った。
明日、テオドールは、海を越える。
アクアニアの王宮は、海に向かって開いた白い石の城だった。
北の塔の麓から、城下の街が、海に向かって緩やかに降りていく。
運河が街の中央を流れ、無数の橋が、白い石の通りを繋いでいた。屋根の青い瓦が、夜の街灯の色を、低く返している。
港には、王家の船と漁の船と商船が、夜の海に揺られて並んでいた。
——アクアニアは、水の都。
ソル・グラニア帝国の、火と光の国とは、何もかもが違う。
明日、テオドールはその違う国へ行く。
王宮の北の塔の麓には、王族専用の小さな入り江があった。
誰も来ない入り江で、石の階段を降りると月の光が、夜の海の薄水色の上をいくつもの層を重ねて滑っていた。
——昼の海とは、別の海だった。
昼の薄水色から深い藍へのグラデーションは、夜の中ではもうない。
夜の海はただ、月光を低く返していくだけの、深い場所だった。
テオドールは、入り江の石の上に立って、海の向こうを見た。
海の向こう——西の水平線の、その遥か向こうに、ソル・グラニア帝国がある。
夜の中では、もちろん何も見えない。
——けれど、明日の朝、自分は王家の船に乗って二日と二夜をかけて海を越え、三日目の朝にソル・グラニア帝国の南の港に着く。
それから馬車で帝都へ向かい、聖アステリア魔導学院に留学生として入ることになっていた。
——そこに、彼女の娘がいる。
(……父上が、誰よりも知っている、と言った女性の娘)
(……父上が、守りきれなかった、と言った女性の娘)
——夜の波が、入り江の石の足元で、引いていった。
テオドールは、自分の右手の指先を、夜の海の風に晒した。
冷たい風だった。
——その風の中に、テオドールは、自分の魔力を置いた。
指先の上で月光が一瞬だけ深い青に変わり、直径二、三ミリほどの薄い氷の結晶がテオドールの指の上で月光を低く返した。
——氷魔法。
アクアニアの本来の魔法ではない。この国は水魔法の国で、王宮の城下で運河の水を動かしている民も、港の漁師も二人の兄王子も、みんな水魔法を使う。
ただ、テオドールだけが氷を使う。
九歳の春から三年のあいだ、テオドールは自分の中の水魔法を、氷の温度に変えてきた。
「水魔法は、感情を載せる」
「氷魔法は、感情を凍らせる」
——氷魔法を学び始めた最初の授業で、教わった言葉だった。
テオドールは、感情を凍らせる方が、向いていた。
「氷魔法の研究、というのが、表向きの理由だ」
三年前、父が書架室で言ったひと言が、いまもテオドールの体の中の深い場所に置かれていた。
その日から、テオドールは自分の魔力を氷へ変える訓練を、毎日続けた。
最初は指先に水滴を浮かべるだけだったのを、半分の温度に、さらに半分の温度に——
——三年でようやく、夜の海の風の中で二、三ミリの氷の結晶を、指先の上に置けるようになった。
王宮の氷魔法の研究室では、もっと大きな氷を、もっと精緻な術式で扱っていた。
ただ、テオドールが本当に向き合っているのは研究室の大きな氷ではなく、指先で月光を低く返す小さな氷だった。
テオドールが自分の感情を凍らせた、その輪郭。
——ふと。
夜の海の波の上で、あの言葉が、低く浮かんできた。
——三年前、父が書架室で伝えてくれた、エレナのひと言。
「もう、誰の駒にもなりたくない」
テオドールは、息を止めた。
(……俺は)
(……俺は、ただの駒だ)
——その瞬間、テオドールの指先の氷の結晶が揺らいで、海に落ちた。
その音は、夜の波の中にすぐに消えた。
(……あ)
——感情を凍らせていたはずのその指先の氷が、いま、揺らいだ。
(……俺の中の、何が、揺らいだ)
——けれど、テオドールは、その問いに踏み込まなかった
テオドールは、自分の右手の指先をもう一度、夜の海の風に晒した。
指先の上で、また氷の結晶が、月光を低く返した。
——今度は、揺らがなかった。
テオドールは、その氷の結晶を自分の感情のいちばん深い場所の輪郭として、置いた。
——アクアニア王家のための、駒。
——尊敬する父の信頼に応える、駒。
——「お前なら、できる」のひと言を引き受けた、駒。
その三つを、テオドールは自分の中で、否定しなかった。
(……エレナさん)
その名前を、テオドールは初めて、声には出さずに心の中で呼んだ。
(……あなたが、駒になりたくないと言って消えた、その娘を)
(……俺は、駒として探しに行く)
——夜の海の波が入り江の石の足元で引いていって、その波の音だけが、夜の中の唯一の輪郭だった。
テオドールはようやく海から視線を外して王宮の北の塔の方を振り返ると、塔の最上階の書架室の窓に、まだ灯りが灯っていた。
父——アルベルトが、まだ、起きている。
——明日、息子を送り出すその前の夜に、父は何をしているのだろう。
テオドールは、その問いを追わなかった。
——ただ、書架室の窓の灯りが、いつもより深い色をしていた。
その深い色だけが、夜の中の、もうひとつの輪郭だった。
テオドールは入り江の石の階段をゆっくり登りながら、自分の右手の指先の氷の結晶を夜の海の風の中にそっと解いた。
氷は水に戻ってテオドールの指の腹の上で、一瞬だけ月光を返してから、夜の海の風の中にすぐに消えた。
——明日、海を越える。
——そして、彼女の娘を、見つける。
その輪郭を、テオドールは自分の中で、もう一度置き直した。
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