第13.5話「テオドール・アクアニアの夜」前半
旧図書室の北の窓から差し込む光が、いつのまにか薄水色から淡い橙へ変わっていた。
テオドールは、長机の向こう側のいつもの椅子に座っていた。
午後の講義の教室から戻ったままの制服の襟元の釦のひとつだけが、留め忘れたままだった。
長机の上には、昼休みの最初に閉じた古文書が、そのままの位置に置かれていた。背表紙の革の色が、夕暮れの光の中で、いつもとは違う深い色をしている。
「……」
声には、出さなかった。
ただ、テオドールは自分の右手の指を、長机の縁の上で短く動かした。
昼休みにリアネと話していた時にも一度、同じ場所で指が動いて、また止まった。
(……あの「けれど」の続きは、まだ、出てこない)
旧図書室の重い木の扉は、いま完全に閉まっている。
昼休みにリアネと二人きりだった時のあの「閉まりかけて閉まらなかった」隙間は、もうない。
テオドールがリアネを見送ったあとで、自分で最後まで閉めた。
——アルフォンスが、廊下の角で立ち止まっていたことに、テオドールは気づいていた。
正確には、リアネに「……違う」と言ったあとで、廊下の方の温度の質感が一瞬だけ変わったのを感じ取った。火属性の魔力の、抑えられた揺れ。
(……あの男も、知っていたのか)
——けれど、テオドールはそれをリアネには言わなかった。
言わなかった理由は、テオドール自身にも、まだ輪郭を持っていなかった。
旧図書室の北の窓の外で、夕暮れの光がまた低く降りた。
テオドールはようやく長机の上の古文書を、ゆっくりと片手で引き寄せて、革の表紙の一点を指の腹でなぞった。
その表紙の革の質感は九歳のあの日、王宮の北の塔の書架で初めて触れた古文書と、同じ手触りをしていた。
(……あの日)
——テオドールの中で、九歳の自分の声といまの自分の声が、低く重なった。
九歳の春——アクアニアの王宮の、北の書架室に呼ばれた。
テオドールは、書架室の重い扉の前で一度、息を整えた。
整えても、息は、いつもの細さに戻らなかった。
書架室の扉の奥には、父——アクアニア国王・アルベルトが、いる。
父に呼ばれて、緊張しないことは、なかった。
けれど、その緊張は、恐れではなかった。
——テオドールの中の九歳の自分の指は、扉の取っ手を確かに握っていた。
握り直して、押した。
書架室の中は、いつもと同じ、海の匂いがした。
アクアニア王宮の北の書架室は、海に面した塔の最上階にあった。
窓の外には、昼の海が薄水色から深い藍へと、いくつもの層を重ねて広がっていた。
その海を背にして、父は、立っていた。
「テオドール」
低く、けれど、いつも通りの父の声だった。
民の前でも、母の前でも、いつもこの声で話す父だった。
「来たか」
「はい」
九歳のテオドールは、書架室の真ん中まで歩いて、父の前で立ち止まった。
父は、振り返って、テオドールを見た。
父の薄水色の瞳は、テオドールが知っている、いつもの父の瞳だった。
——民の困りごとを聞く時、母の手を取る時、兄上に剣を教える時——揺るがない瞳。
「お前に、頼みがある」
父は、命令ではなく頼みと言った。
九歳のテオドールは、父のその言い方を、いつも誇りに思っていた。
王が、家臣に、頼む。
子に、頼む。
「はい」
テオドールは、頷いた。
頷きながら、父の言葉の重さを、自分の体の中に置く準備をした。
「『深海の魔女』のことを、知っているか」
「……はい」
その名前は、王宮の中では誰も声に出さない名前だった。
ただ、書架室の最も古い棚の最も奥の革の表紙の中にだけ、その名は記録されていた。
「彼女は、エレナという」
——父の声が、低く変わった。
九歳のテオドールは、その変化に気づかなかった。
父の声の質感がいつもと違う深い色を帯びたことに気づくほどの耳を、九歳のテオドールはまだ持っていなかった。
ただ、父はその名を、いつもの声で呼んでいるはずだった。
「二十年前——アクアニアと、ノクティスとの戦があった」
「……はい」
「ノクティスの闇の魔術師たちが、アクアニアの民の住む南の半島へ、押し寄せた」
父の声は、抑えられていた。
「私も、戦場にいた。父上——お前の祖父の代の、最後の戦だった」
「はい」
「その戦で——彼女が、たった一人でノクティスの侵攻を、押し返した」
——九歳のテオドールの中で、何かが置かれた。
「水魔法の最も古い術式を、彼女は一人で扱った」
「……」
「アクアニアの民の半分が、彼女の水によって救われた」
「……はい」
「『深海の魔女』と呼ばれたのは、その戦のあとだ」
父は、海の方へ視線を投げた。
——その視線の長さの場所だけが、九歳のテオドールには、よく分からなかった。
ただ、父の視線の先の海の輪郭が、いつもより深い色をしていた。
「私は若い頃、彼女と、戦場で並んで戦った」
「……はい」
「彼女の力を、誰よりも、知っている」
——父の声に、初めて、低い揺れがあった。
九歳のテオドールは、その揺れに気づかなかった。
ただ、父が「誰よりも」と言ったそのひと言の重さだけが、九歳のテオドールの体の奥に残った。
「戦のあと、彼女は王家の最高位の魔術師として、迎え入れられた」
「はい」
「私の——隣で、王家の魔術の責任を、負ってくれた」
父の薄水色の瞳が、海からゆっくりと、テオドールに戻ってきた。
「けれど、ある日突然、私の前から姿を消した」
「……」
「置き手紙には——たった、ひと言だけ、書かれていた」
父は、そこで一度、息を置いた。
「『もう、誰の駒にもなりたくない』」
——九歳のテオドールの中で、その「駒」という言葉が、低く置かれた。
(……駒)
「彼女は、ノクティスからも、命を狙われていた」
「はい」
「アクアニア王家の中にも、彼女を、政治の道具に使おうとする声があった」
父の声が、また、抑えられた。
「私は——彼女を、守りきれなかった」
——九歳のテオドールは、その「守りきれなかった」のひと言の中に、父のいつもの声とは違う何かが混ざっていることを感じ取れなかった。
ただ父の声の温度が一瞬だけ、海の底のように深く沈んだことだけが、九歳のテオドールの体の中に輪郭として残った。
「ただ一つだけ——」
父の声が、いつもの低さに戻った。
「フェルンハイムという、ソル・グラニア帝国の南端の村に亜麻色の髪の農夫の妻がいる、という記録だけが王家に届いた」
「……」
「その妻に、子がひとりいる、と聞いた。生きていれば、お前と同じ年だ」
——九歳のテオドールの中で、何かが動いた。
(……俺と、同じ年)
「その子を、見つけてほしい」
父の声は、命令ではなかった。
依頼でも、頼みでも——その全てが混ざった、低い温度だった。
「アクアニア王家のために、その子を、探してほしい」
「……はい」
九歳のテオドールは、頷いた。
頷きながら、父の言葉の重さの輪郭を、自分の体の中に置いた。
「テオドール」
父は、テオドールの名を、もう一度呼んだ。
「お前を、聖アステリア魔導学院に、留学生として送る」
「……はい」
「向こうの学院で、十二歳から特待生として学ぶことになる。氷魔法の研究、というのが、表向きの理由だ」
「はい」
「実際の理由は、いま、話した通りだ」
「はい」
「お前なら、できると、私は思っている」
——その「お前なら、できる」のひと言が、九歳のテオドールの体の奥深くに、低く置かれた。
父の信頼は、いつもこうやって置かれた。
テオドールが頷いた時には、もうそれは、テオドールの中の重さに変わっていた。
「……はい」
九歳のテオドールは、もう一度、頷いた。
頷きながら、自分の体の中に、いま新しい輪郭が置かれたのを知った。
——アクアニア王家のための、任務。
——尊敬する父の、信頼。
——「お前なら、できる」の、ひと言。
その三つが、九歳のテオドールの中で、ひとつの重さに、なった。
書架室を出る時、父は、もう海の方を見ていた。
——その背中の肩の輪郭の、ほんの一点に、いつもとは違う深い色の影が落ちていた。
九歳のテオドールは、それを、見なかった。
振り返らなかった。
——父の信頼に、応える。
それはテオドールにとって、ずっと前から自分の生きる方向の、唯一の輪郭だった。
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