第13話「テオ様の正体」後半②
旧図書室の重い木の扉を、アルフォンスは後ろ手で——最後の場所で、閉めきらなかった。
自分でも、なぜそうしたのか、よく分からないまま、扉の細い隙間だけが廊下の壁に低く残った。
一歩、北廊下を歩き出した。
——けれど、二歩目は、出なかった。
アルフォンスは廊下の最後の角の奥の壁に半身を寄せて立ち止まり、扉の前ではなく廊下の角の、視界に入らない場所に身を置いた。
——「後で、迎えに来る」と、自分の口で言ったけれど、教室まで戻る気には、なれなかった。
ハンスの足音が、半歩、後ろで止まった。
「アル様」
低く、控えた声だった。
「……お部屋まで、お送りしましょうか」
「……いい」
アルフォンスは振り返らないまま、廊下の角の壁に半身を寄せた姿勢を崩さずに、低く返した。
「一人で、ここに、いる」
ハンスは何も言わず、ただその場に立ち止まる気配だけを後ろに残した。いつもの「……着実に、でございますな」も、今日はなかった。
立ち止まったまま、アルフォンスは自分の左の手のひらの中に、昨日の運動会の終わりのあの感触の輪郭がまだ残っているのを知っていた。
あの細い、白い、震えていた手のひら。
握った時、自分の指の温度の方がひと粒だけ熱くて、それが相手の靴の底まで降りなかったことだけが、いまの自分の唯一の目印だった。
「明日。旧図書室で」
——昨日、自分の口から、出た言葉だった。
その言葉を果たしに、いま、ここに来た。それだけ、のはずだった——。
——扉の向こう側から、低い声が、聞こえていた。
ひとつは、リアネ。
もうひとつは、テオドール。
旧図書室の扉は完全には閉まっていなくて、少しだけ開いた隙間から二人の声の輪郭だけが、廊下の壁に低く滲んでいた。
——出るはずの、テオドール、だった。
「フェルドラク、待て」と言ってリアネに用があると言った男が、「少しの時間で、いい」と言ったその同じ男が、いま、旧図書室の中で二人だけで低く話している。
アルフォンスは自分の漆黒の制服の襟元の釦のひとつを片手で強く握ったけれど、襟はもちろん動かず、ただ自分の指の節の白さの輪郭だけが、いまはっきりと自分の体の中に置かれた。
「……知っていた」
低いテオドールの声が、廊下の壁にひと粒届いた。
「最初から、お前を、探していた」
——空気が、低く別の温度に変わった瞬間、アルフォンスは自分の右手の指先のほんの一点がいまわずかに熱を持ちはじめたのを知った。
それは自分で出した熱ではなく、意志とは別の場所から勝手に滲み出てきた熱だった。
(……探していた、だと)
声には、しなかった。
——昨日、握った。
(……お前、か)
——廊下の壁の、自分の半身を寄せた漆喰の表面に、ひとつだけ小さな焦げが浮かんで、けれどそれは焦げかけて止まった。止まったのは、アルフォンスが自分の右手の指を強く握り込んだからだった。
握り込んだ、その指の節の、すぐそばで——
ひとつだけ、深紅で中心が黒い小さな火が揺れた。
直径は二、三センチほどで、熱くはないはずだったし、少なくとも誰の靴の底にも届かない輪郭の火だった。
——けれど、確かにそれは、燃えていた。
(……抑えろ)
アルフォンスは、自分の中で低く自分に置いた。
(……いま、扉を、開けてはいけない)
(……開けたら、たぶん俺は、止まれない)
——理性の方が、わずかに勝った。ほんの、ひと粒の差だった。
アルフォンスが握り込んだ指をゆっくりと開くと、開いた指の上の深紅で中心が黒い小さな火は、ひと呼吸揺れて、音もなく消えた。消えたその後の指先の皮膚の輪郭だけが、いつもよりひと粒、熱の名残を持っていた。
旧図書室の中の声が、また低く続いていた。
「……違う」
——テオドールの声だった。
「違う」
短いひと言が二度置かれた——その「違う」を、扉の向こうから廊下のアルフォンスは聞いた。
聞いた瞬間、アルフォンスの中の、いま抑えていたはずの何かがまたひと粒、別の温度で揺れた。
(……違う、と言えるのか)
(……お前は、リアネにそれを、言える側なのか)
——けれど、続きの言葉は、アルフォンスの中にまだ輪郭を持って出てこなくて、ただひとつだけ、声には出ない低い断定だけが、残った。
(……渡さない)
それは、自分でも驚くほど、低い輪郭だった。
(……お前にも)
(……国にも)
(……誰にも)
——それから、アルフォンスは廊下の壁から半身を離して踵を返し、返したその靴の底が北廊下の石畳の上をひと音鳴らして——ひと音だけだった。その音はすぐに止まった。
止まったあとは、自分の歩幅でもとの方向へ歩き出して、旧図書室の重い木の扉の方を、アルフォンスは二度と振り返らなかった。
北廊下の途中で、ハンスが、待っていた。ひと言も言わずに、ただ半歩後ろについた。
「……ハンス」
「はい」
「……何も、見ていない」
「はい」
「……何も、聞いていない」
「はい」
「……それで、いい」
「はい」
それだけだった。
ハンスの返事はいつもの「……着実に、でございますな」ではなく、ただの「はい」が四度、低く廊下に置かれた。
——その四度の「はい」の最後の中に、ハンスの目だけが、ひと拍アルフォンスの右手の指先を見ていた気がした。けれど、それもすぐに消えて、ハンスは何も言わなかった。
——アルフォンスの右手の指先には、もう火はなかった。
ただ消えたその後の皮膚の温度だけが、火がそこに在ったことを、まだ覚えていた。
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