第12話「運動会・はじめての選択」後半①
——次は、本気だ。
そう、口だけで動かした。
声は出さなかった。出すまでもない、と思った。観覧席に届かない距離だった。
けれどアルフォンスは、観覧席の方ではなく青の旗の下の末席の方を、ちょうど舐めていたところだった。
その視線の先に、亜麻色の髪を一つに束ねた特待生がいた。
両手を膝の上で組み合わせている。指の節が、白い。
(……届いた)
声には出さない。
アルフォンスは、その場で、視線を真正面に戻した。
四人の地属性の生徒たちが、まだ姿勢を整え直してもいない。最初の四つの石の塊を、灰のひと吹きにされた直後の、間。
——もう一度、構える。
今度は、本気だ。
掌を、軽く前に開いた。
開いた、というだけ。動作は、それだけ。
けれど、アルフォンスの掌の上に、深紅の球体が育ち始めた。
最初は、さっきと同じ大きさ。掌に収まる、深紅で中心が黒い、小さな火球。
そこから、外側に向けて広がっていく。
直径——三十センチ。
——五十センチ。
——一メートル。
球体の表面の深紅が外側へ伸びるたびに、中心の黒がより深くなっていく。
二メートル。
両手を広げた人間の高さと同じ。
それで、止めた。
掌から少し浮いた位置で、二メートルの球体が、息をしていた。
深紅の表面のなかで、黒い中心が、わずかに揺れている。揺れる、というより、ひと粒ひと粒、灯火が呼吸するような低く深い律動。
——黒き太陽。
口には出さない。
声にも出さない。
ただ、アルフォンスの中で、その言葉が低く落ちていった。
これに名前をつけたのは、アルフォンス自身だった。父にも、教官にも、誰にも、まだ言っていない名前。先祖の誰かが同じものを使ったのか、自分が初めてなのか、それすらわからない。
黒き太陽。
ふさわしいかどうかは、知らない。
ただ自分の中で、この火を呼ぶ時に、その言葉がいちばん近かった。
四人の地属性の生徒たちのうち、二人が、後退りした。
あとの二人は、足が動かなかった。
教官席から、合図は出ない。出せない、というほうが、近かった。
アルフォンスは、四人の前で立っていた。
——終わらせる。
掌の上の黒き太陽を、軽く、上に押し出した。
二メートルの球体が、動く。
四人の地属性の生徒たちの正面で、それぞれが立てた石の壁の——その向こうの空間まで、まっすぐ進んだ。
ぶつかった。
ぶつかった、というのは、たぶん不正確だった。
四枚の石の壁は、黒き太陽が触れる前に、すでに灰の粒に変わっていた。触れた、ではなく近づいた瞬間に、石の構造そのものが解けた。
四枚の石の壁が、揃って、灰のひと吹きになった。
その向こうの空間に、何もなくなった。
四人の地属性の生徒たちは、無事だった。
黒き太陽は、四人の体には触れなかった。触れる前に、止めた。
教官席から、ようやく、声が出た。
「——勝者、火属性、フェルドラク。」
短い宣言。
それから、しばらく、何の音もしなかった。
——拍手は、起きなかった。
すぐには。
観覧席の前列のあたりが、椅子から、半身を起こしていた。胸元の銀の徽章がいくつも、こちらへ向けて鈍く光を返した。
アルフォンスは、観覧席の方へ、短く礼をした。
たった一拍、頭を下げた。
頭を下げたその下を抜けて、自分の意思とは別に、視線が青の旗の下の末席の方へ流れた。
亜麻色の髪を一つに束ねた特待生が、両手を膝の上で組み合わせたまま、こちらを見ていた。
(……まだ、終わらない)
声には出さない。
アルフォンスの中で、ひとつ、決まった。
掌の上の黒き太陽を、消さなかった。
二メートルの深紅の球体は、まだアルフォンスの目線の高さで、低く律動を続けていた。
頭の中で、ひとつ、決まった。
呼ぶ。
それだけだった。
理由は、後から、いくらでも自分につくだろう。優勝した者が特待生を労うのは、不自然じゃない。観覧席の貴族たちにも、特待生制度を尊重する姿勢として通る。
——でも、それは後付けだ。
アルフォンスがいま彼女を呼びたいのは、それより前の理由だった。
(……あの夜ひとりで作った言葉を、人前で出すのが、これか)
宿の窓辺で、暗い夜の中で口の中で試した「さようなら、リアネ」。あの夜、自分でひとつ、辿り着いた言葉。
——いま観衆の前で、その温度のまま彼女の名前を呼ぶ。
二メートルの黒き太陽が、目線の高さで低く律動している。
その律動の音より、自分の喉の奥でもっと低く決まった音があった。
「——リアネ」
声が、出た。
「こっちだ」
それだけだった。
低い、迷いのない、いつものアルフォンスの声。
六色の旗の下が、揃って、止まった。
氷の旗の下も、光の旗の下も、風の旗の下も、地の旗の下も。観覧席の前列の貴族の方々の身じろぎも。教官席で次の合図を出そうとしていた手も。
止まった。
それから、ひとつだけ、別の音がした。
「——」
光の旗の下から白い式典装束のカトリーヌがこちらへ歩み出していた歩幅が、止まる音。
アルフォンスはその方を、見なかった。
ただ青の旗の下の末席の方を、まっすぐに見ていた。
——え。
息が、ぴたりと止まった。
呼ばれた。
呼ばれたのは、私だった。
両手を膝の上に組み合わせたまま、私は身を起こせなかった。隣の水属性のチームの令嬢たちが、揃ってこちらに視線を移した。視線が針のように、私の左の頬と右の頬に刺さってくる。
「——行け」
末席の隣の特待生の男子が、低く肘で私の腕を押した。
「——行け」
別の水属性の生徒が後ろから、私の背を軽く押した。
私の足は、立った。
立った、という事実だけが私の中に置かれた。
中央の石畳までの距離は、いつもの旧図書室までの廊下とたぶん同じくらいだった。
——けれど、その距離はこれまで歩いたどの距離とも違っていた。
六色の旗の下の生徒たちが、揃って、私を見ている。
観覧席の上級貴族の方々が、揃って、こちらを見ている。
光の旗の下の——カトリーヌ様が、こちらを見ている。
私は視線を、どこにも合わせられなかった。
ただ青の旗の下から中央の石畳の上の、深紅の肩帯のアルフォンス様の方へ靴の底を一歩ずつ運んでいった。
二メートルの黒い中心の火球は、アルフォンス様の目線の高さで低く息をしていた。
(……熱くない)
近づくほど、その火が私の頬に届くはずだった。観衆の前列ですら、温度の上昇を感じていたはずだった。
——けれど、私が一歩ずつ近づくにつれて、その火の表面の深紅が淡くなっていく。
中心の黒が溶けていく。
私がアルフォンス様の隣に立った時。
二メートルの球体は、もう深紅の優しい朱だけになっていた。
中心の黒は、消えていた。
「終わりだ」
アルフォンス様の声が低く、観覧席の方ではなく、私の耳の位置だけに置かれた。
私は、息を、忘れていた。
アルフォンス様の指先が、軽く上を向いた。
朱の球体が、一瞬で消えた。
——あとには、初秋の朝の風だけが中央の石畳の上に残った。
しばらく、誰も何もしなかった。
それから、観覧席の前列の貴族の方々のひとりが、手のひらを叩いた。
その音が、ひと粒。
二粒。
それから堰を切ったように、観覧席の全体が拍手に包まれた。
六色の旗の下の生徒たちも、ぱらぱらと手を叩き始めた。
私はまだ、息を忘れていた。
アルフォンス様の方を、見上げる勇気はなかった。
ただ自分の靴の底だけを、私は見ていた。
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