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12話「運動会・はじめての選択」前半②


運動会の朝が、来た。


寮の自室の窓を開けると、夏の終わりの光ではなくて、初秋の少し涼しい風が入ってきた。あの日、フェルンハイムの庭で銀の鈴が鳴っていた風と、似た温度。


私は鏡の前で、髪をひとつに束ねた。


眼鏡。


ブレスレット。


二つの魔道具を、いつもより念入りに、きちんと身につけた。


——今日は、目立たずに、終わらせる。


声には出さずに、自分にひと言、置いた。


それから靴を履いて、寮を出た。




学院中庭の大演習場は、もう、いつもの中庭ではなかった。


普段は学生たちが本を片手に通り抜ける広い石畳が、今日は色とりどりの幟と、白い天幕の連なりで埋まっていた。属性別の六色——赤、青、白、薄水色、緑、茶——の旗が、初秋の朝風のなかでぱたぱた音を立てている。


中央の石畳の演習場を囲んで、東側に観覧席が組まれていた。


——上級貴族の方々の席。


まだ朝早いのに、観覧席にはもう、何人かの黒い式典服が見えていた。帝国の正装。胸元の銀の徽章が、夏の朝の光のなかで、白く光る。


私は観覧席を直視しないまま、属性別の整列の方へ向かった。


水属性のチームは、青の旗の下に集まっていた。


末席が、私の場所。


誰もが、夏休み前と同じように、私の隣に立つことを避けた。


それでよかった。


末席のほうが、上級貴族の方々の視界の端にも入らない。




光属性チームは、白の旗の下にいた。


カトリーヌ様は、その先頭にいた。


プラチナブロンドの髪を、いつもより高く結い上げて、白い式典の装束に銀の縁飾りを重ねている。胸元には、いつもの星型の髪飾りではなくて、白百合の意匠の大ぶりな銀のブローチ。


カトリーヌ様の顎の角度は、観覧席の方へ、わずかに上を向いていた。


私は、目を伏せた。


伏せた瞼の裏で、廊下のあの「ふふ」が銀の粒のように、また転がった。




氷属性チームは、青の隣の薄水色の旗の下。


テオ様は、いつものように、本を片手に立っていた。


運動会の朝にまで古文書を持ってくる人は、たぶん、テオ様だけだった。氷青の銀の髪が、初秋の朝風のなかでほんの数本揺れた。


——目が、合った。


合った、と気づいた瞬間に、テオ様は本のページに視線を戻した。


何も、言わなかった。


けれど本のページを捲る指の動きが、いつもより一拍遅かった。


(……?)


私は、もう、目を伏せていた。




風属性チームは、緑の旗の下。地属性チームは、茶の旗の下。それぞれが、初秋の光のなかで静かに整列を終えていた。



火属性チームは、いちばん奥の、深紅の旗の下。


その先頭に——アルフォンス様が立っていた。


学院の制服の上に、火属性チームの深紅の肩帯。胸元の銀の留め金が、深紅の織物の上で、ひとつだけ強く光っている。


アルフォンス様は、誰とも目を合わせていなかった。


ただ深紅の旗の下で、一人まっすぐ前を見ている。


——その金の瞳が、ふと、こちらへ流れた。


合った。


正面から、合った。


私は息を、飲んだ。


学院ではいつも背中越しに感じていた熱が、今日は正面から届いていた。距離があるはずなのに、観覧席の方を遮って、私の額のあたりにまっすぐ温度を置いていく。


アルフォンス様は、何も言わなかった。


何も言わなかった、けれど。


——「リアネ」、と私の中で、勝手に三音が鳴った。


足元の石畳の感触を、私は、靴の底で確かめ直した。


    


「——皆様、お時間です」


ヴァルター先生のいつもの低く落ち着いた声が、六色の旗の下に響いた。


「これより、本年度の夏期大演習を開会いたします」


朝の光が、中央の演習場の石畳に白く落ちる。


私は前を向いた。


向いた視界の端で、深紅の旗の下のアルフォンス様も前を向き直した。


(……今日は、目立たずに、終わらせる)


寮で自分に置いた言葉を、私は心の中で繰り返した。


繰り返した、けれど——


その声は、寮を出る前より少し薄かった。





開会の合図のあと、模擬戦は属性別に始まった。


緑の旗——風属性チームから、順番に。


中央の演習場に、二人ずつが進み出る。属性の代表が、前に立つ生徒の術式を相手に、自分の術式を放つ。観衆の評価は、術式の精度、規模、独創性。それぞれの属性の教官が、観覧席の方へ短く礼をしてから、合図を出した。


風属性のチームは、無難に終わった。


次は、氷属性。


    


テオ様が、薄水色の旗の下から、中央の石畳へ進み出た。


古文書はもう、手元にない。仕舞ってきたのか、最後まで持っていたのか、私には見えなかった。


向かいの相手は、風属性チームの生徒。


合図と同時に、相手は風の渦を放った。乾いた朝の風が、演習場の石畳の上で、ひと回り大きく巻き上がる。観衆の前列の令嬢たちが、髪を押さえた。


テオ様は、何もしなかった。


——一拍。


風の渦がテオ様の足元まで届いた、その瞬間に。


テオ様の指が、小さく一度、虚空をなぞった。


風の渦が、止まった。


止まった、というより、空中で凍った。乾いた風の流れが銀の細かな粒になって、朝の光のなかでひと筋、宙にとどまった。


観衆が、息を飲んだ。


それから、深い拍手が起きた。


「——氷属性、テオドール。」


教官の短い宣言。


テオ様は観覧席の方へ短く礼をして、薄水色の旗の下に戻っていった。氷青の銀の髪が、初秋の朝風のなかでまた数本揺れる。


——その視線が、戻る途中で、私の方へ流れた。


合った。


合った、と気づいた瞬間に、テオ様はもう自分の隊列に戻っていた。


(……?)


私は、目を伏せた。


    


火属性のチーム——けれど、まだアルフォンス様の番ではなかった。


最初に出てきたのは、セドリック様だった。


茶色の髪を快活に揺らして、深紅の旗の下から進み出る。アルフォンス様の隣で、軽口を投げかけられる人。学院の中で、私が知っているセドリック様は、いつもその位置にいた。一人で中央に立つセドリック様は、思ったより、姿勢がよかった。


向かいの相手は、地属性チームの生徒。


合図と同時に、相手は石の壁を立ち上げた。


セドリック様は、片手を前に伸ばして、火を放った。


普通の、ふつうの、橙色の炎だった。けれど、その炎は石の壁にぶつかると、一度跳ねて上に伸び、壁の上端まで届いた。届いた、というだけだった。壁を貫くわけではない。


——けれど、観衆の前列がわずかに声を上げた。


「あら、頼もしいわね」


「フェルドラク様の、お側に立たれる方ですものね」


「お兄様が当主のお家ですけれど、セドリック様もご立派にお育ちで」


私の隣で、水属性のチームの令嬢たちが、小さく囁き合った。


セドリック様は、観覧席の方へ短く礼をして、深紅の旗の下に戻っていった。


——アルフォンス様の隣に戻ったセドリック様の口が、こちらに何か言葉を投げていた。「アル、見てた?」と、たぶんそう言っていた。


アルフォンス様は、まっすぐ前を見たまま、答えなかった。


    


そのあと、いくつかの属性チームの番が続いた。


光属性のチームの番。


カトリーヌ様が中央に進み出た。プラチナブロンドの髪を、観覧席に向かって、わずかに傾ける。星型の——いえ、今日は白百合の——大ぶりな銀のブローチが、朝の光を真正面から弾いた。


カトリーヌ様の光の術式は、相手の影を、まっすぐ消した。


派手な術式ではなかった。けれど、観衆の女性たちが、揃ってため息をついた。


「美しいわね」


「やっぱり、ルミエール家の」


私は、目を伏せたまま聞いていた。


伏せた瞼の裏で、廊下の「ふふ」が、また転がる。


    


水属性のチームの番が、来た。


末席の私の番が、来た。


——目立たずに、終わらせる。


寮を出る前に置いた、自分の声。


私は、青の旗の下から、中央の石畳へ進み出た。


向かいの相手は、風属性チームの生徒。さっきテオ様が凍らせたのと同じ乾いた風の渦が、相手の手の中でゆっくり育っていく。


合図。


相手の風の渦が、こちらに届いた。


私は、両手を、軽く前に出した。


ブレスレットの金属が手首で、ひと粒冷たい。


(……基準で、いい)


水の薄い膜を、相手の風の前に、一枚だけ置いた。


それだけ。


風の渦は薄い水の膜にぶつかって、弱まりながら左右に逸れていった。完全に消すのではなく、受け流すだけ。観衆から、特に何の声も上がらない。教官の合図で、私は短く礼をして、青の旗の下に戻った。


——その時。


観覧席の前列のあたりが、ふいに静かになった。


私の番が始まる前と終わったあとで、何かの音の量が変わった。


(……気のせい、かな)


私は、自分の足元の石畳だけを見ていた。


戻り際、薄水色の旗の下のテオ様の方を見てしまった。


テオ様の本は、もう、開いていなかった。


閉じた本の表紙の上に、テオ様の指が、軽く乗っていた。


その指が、私の方を向いていた。


(……?)


私は、もう、青の旗の下に戻っていた。


戻った末席で、両手の指を、軽く組み合わせた。


ブレスレットの金属が手首で、また冷たかった。


その冷たさだけを、私は、数えていた。




午前の最後——火属性のチームの番が、来た。


六色の旗の下が、揃って静かになった。


水の旗の下も、氷の旗の下も、光の旗の下も、風の旗の下も、地の旗の下も、それまで囁き合っていた令嬢たちの声が潮が引くようにひと息で引いていく。観衆の前列のあたりも、それと同じ呼吸で、椅子の軋みすら止んだ。


——いつもの空気の温度が、変わる。


私は青の旗の下の末席で、両手を膝の上で組み合わせていた。


組み合わせた指の節が、白い。


(……来る)


声には出さなかった。


声に出すまでもなく、私の体はもう知っていた。





教官の合図のあと、深紅の旗の下から、アルフォンス様が一人、中央の石畳へ進み出た。


漆黒の髪が初秋の朝の光のなかで、白い演習場の石を背にいっそう深い色に見える。深紅の肩帯が、歩幅と同じ拍で、わずかに揺れる。胸元の銀の留め金の光が、観覧席の方へ、まっすぐ届いた。


観覧席が、ざわめいた。


「——フェルドラク侯爵家の」


「あの方が、ご令息ですわ」


「黒炎の獅子、と——」


ざわめきは、低く、けれど波のように厚く観覧席の端から端へ広がっていく。前列の貴族の方々が身を乗り出す気配。胸元の銀の徽章が、いくつも、こちらへ向けて光を返した。


アルフォンス様は、観覧席の方へ短く礼をした。


たった一拍、頭を下げた。


——そして、まっすぐ前を向き直した。


向かいの相手は、地属性チームから、四人。


四人。


属性別の模擬戦は、これまで二人ずつだった。それが、火属性のチームの最終戦だけは、相手側が四人。それだけで、観衆が揃って息を飲んだ。


私は、自分の指を、組み直した。


組み直した指の節が、まだ、白い。


  



アルフォンス様は、四人の前で、立っていた。

漆黒の髪が、初秋の朝の風にほんの数本揺れた。

その指先が、軽く、上を向いた。


軽く、というだけ。武器を構えるような大袈裟な動作ではない。けれど観衆の前列の令嬢たちが、揃って息を止める音が、ここまで聞こえた。


合図。


四人の地属性が、一斉に石の塊を放った。

四つの石の塊が四方から、アルフォンス様に向かって迫る。

アルフォンス様は、動かなかった。


——その時。


アルフォンス様の指先の、ちょうど目線の高さに、火が生まれた。

橙色ではない。黄色でもない。

深紅の中心に、黒が一点、息をしている火。

直径は、まだ、掌に収まるくらいの小ささ。


私は、自分の喉が鳴ったのを聞いた。


(……あれは)


水路のほとりで、私の指先で音もなく消えたあの火。

夏の朝のフェルンハイムの古い水路の上で、深紅の中に黒い一点を抱いていた、あの掌の上の小さな火球。


それが今、観覧席の前で生まれている。




アルフォンス様の指先が、軽く、開く。


その小さな火球が、ふっと、四つに分かれた。

四つの深紅の火が、それぞれ四方の石の塊を迎え撃った。

ぶつかった瞬間に、石の塊は音もなく止まった。


止まった、というより空中で灰の粒に変わった。

四つの石の塊が、それぞれ灰のひと吹きになって、初秋の朝風のなかでひと筋、宙にとどまった。


観衆が、息を飲んだ。

それから——

拍手は、しばらく、起きなかった。

誰もすぐには、その光景にどう反応していいのかわからなかった。

ただ観覧席の前列の貴族の方々の何人かが、椅子からわずかに身を起こしたのが、こちらまで見えた。



    


——そして。


灰の粒がまだ宙に残っている、その向こうで。

アルフォンス様の金の瞳が観覧席の方を、ひと舐めするように辿った。

ひと舐め、というのは、観衆を見ているわけではない。


何かを、探している。

その視線が——


(……)


私の上で、ふっと、止まった。

私は、自分の指の組みを強く握り直した。

ブレスレットの金属が手首で、また冷たくなった。

数えていなければ、自分の足が青の旗の下から勝手に動き出してしまいそうだった。


(……どうして、わたしを)


中央の石畳の上で、深紅の肩帯のアルフォンス様はまだ私の方を見ていた。

灰の粒が宙にとどまる、その向こうから。

四人の地属性の生徒たちが、まだ姿勢を整え直してもいない、その向こうから。


——「——次は、本気だ」


アルフォンス様の口が、そう動いた。


声は、聞こえなかった。





※本作はnoteでも掲載中です。noteが最新話となります。


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