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第12話「運動会・はじめての選択」前半①


夏休み明けの朝、私は寮の自室の鏡の前で、亜麻色の髪をひとつに束ねていた。


二学期、初日。


窓の外の空は、夏の終わりの淡い青。北方寄宿舎の高い天井のせいで、朝の光は部屋の奥まで届かない。机の上の眼鏡の縁だけが、白い一点で光っていた。


眼鏡。


ブレスレット。


帝都に戻ってからの数日で、私の指は迷いなくその二つを身につけていく。フェルンハイムの夏には毎朝、母様の井戸端で外したまま暮らしていた。帝都の朝は、その逆をなぞる。


——リアネ。


あの日、木戸の前でアルフォンス様が低く落とした「さようなら」の音が、まだ耳の奥に残っていた。


(……あれは、本当に、あったことだったのかな)


夏の盛りからもう一か月以上が経って、フェルンハイムの赤土の感触は、毎朝の指先から薄れていく。


それでも、あの一音だけは、消えなかった。


私は髪を結び直した。


椅子の背にかけた制服の襟元を整えて、机の上の眼鏡を両手で持ち上げる。


——行こう。


声には出さずに、自分にひと言、置いた。


    *


学院の本校舎の廊下は、夏の終わりの光のなかで、いつもより白く乾いていた。


久しぶりの石造りの廊下を、私は俯きがちに歩いた。すれ違う他クラスの令嬢たちが、横目でこちらを一瞥する。


それは、夏休み前と、なにも変わらない。


教室の扉を、私は静かに押し開けた。


久しぶりの一組の空気が、夏の終わりの光と一緒に押し寄せてきた。


カトリーヌ様は、もういつもの席に戻っていた。中列の中央。プラチナブロンドの髪が、朝の光をひと粒ずつ拾っている。胸元には、銀の星型の髪飾り。首元には、夏の休暇でまた何かを増やしたのか、見たことのない銀のブローチ。


テオ様は最前列の窓側で、もう古文書を広げていた。氷青の銀の髪が、本のページの白に映えている。


——アルフォンス様の席に、目を流す。


最後列の窓際。私の席からは、対角線でいちばん遠い場所。


まだ、空席だった。


私は廊下側の最前列、いつもの自分の席に鞄を置いた。椅子を引く音が、思ったより教室に大きく響いた。


    *


先生が教室に入ってくる、その少し前。


教室の扉が、もう一度開いた。

私は振り返らなかった。


——わかった。


革靴の音だった。低く、整然とした歩幅が、中列の脇を抜けて最後列の窓際へ進んでいく。


椅子が引かれる音。


座る気配。


それから——


(……来た)


背中越しに、空気の温度が変わった。


学院では、いつもの感覚だった。アルフォンス様が同じ部屋に入ってくると、私の背中の肩甲骨と肩甲骨のあいだが、じりりと熱を帯びる。


夏休み前と、なにも変わらない。


——なにも、変わらないはずだった。


けれど、今朝の私はその熱を、フェルンハイムの夏の朝と重ねていた。


水路のほとりで、アルフォンス様の掌の上に生まれた、深紅で中心が黒い小さな火球。私の指先で音もなく消えた、あの火。


(……あれは、本当に、あったことだったのかな)


同じ問いが、巡る。

私は姿勢を正した。

先生が教室に入ってきた。


「——皆さん、おはようございます。二学期、初日です」


低く落ち着いた声が、教室の空気を整えていく。

私は教科書をひらいた。その指先が震えていた。


(……二学期、初日、なのに)


頬の温度を、私は両手のひらで押さえた。


帝都に戻ってきた。

戻ってきた、はずだった。


けれど、私の中の何かが、フェルンハイムの古い水路のほとりに置いてきたままだった。


 * * *


午前の二限目は、ヴァルター先生の魔法実技だった。


実技棟の高い天井のせいで、夏の終わりの光は窓の上半分にしか届かない。床の磨かれた石に、その光がひと筋、白く伸びていた。


私たちは石の床に、属性別の半円で並んでいた。

水属性の末席は、私の定位置だった。


——背中越しに、いつもの熱。


最後列の半円のどこかに、アルフォンス様が立っている。振り返らなくても、肩甲骨と肩甲骨のあいだの位置が、それを教えてくれる。


夏休み前と、なにも変わらない。


(……変わっていないはずだった)


私はその熱を、教科書を持つ指の力に逃した。


    *


ヴァルター先生が、講壇に上がった。


白髪交じりの短い髪、丸い銀縁の眼鏡。いつもの温和な顔に、けれど今日は、ひとつ別の温度が混じっていた。


「——皆さんに、今日は連絡があります」


教室の空気が、わずかに引き締まる。


「来週、夏期大演習が開催されます」


ざわめきが起きた。半円のあちこちで、令嬢たちが互いに目配せをする。


「夏休みを挟んでの、夏期大演習——通称、運動会。属性別チームによる、対抗模擬戦です」


ヴァルター先生は、いつもの低く落ち着いた声で続けた。


「会場は、学院中庭の大演習場。今年は——観覧席に、上級貴族の方々がご臨席される予定です」


ざわめきが、はっきりと音になった。


ある令嬢が「あら」と小さく声を上げる。別の令嬢が「皇族の方も?」と小声で隣に確かめる。光属性チームの先頭で、カトリーヌ様が片方の口の端だけを上げた。プラチナブロンドの髪が、首を傾けた角度のぶんだけ、光を受け直す。


私は目を伏せた。


(……目立たないように、過ごせばいい)


夏休み前と、同じ覚悟だった。

特待生として、最低限の参加義務を果たして、無事に終える。それだけだ。


——けれど。


いまの私の覚悟の声は、夏休み前のそれより薄かった。


(……どうして)


自分でもわからない理由が、私の中にひっそり置かれた。


    *


「——属性別のチーム編成は、追って各教官から伝達します」


ヴァルター先生は、講壇の上で、生徒たちの顔をひとつずつ見回していった。

その視線が、水属性の半円を辿る順番で私の上に止まった。


——一拍。


それから、いつもの温和な目に戻って、先生は次の生徒に視線を移した。


(……?)


私は教科書を持つ指に、軽く力を入れ直した。


入学式の魔力測定の時にも、確かに、こういう一拍があった気がする——けれど、思い出のなかで自分が描き直しただけかもしれない、と私は教科書を持つ指の力を、ほんのすこし強くした。


気のせいだ。


ヴァルター先生は、いつものとおり、何も言わなかった。


「——以上です。本日の実技に、入ります」


低く落ち着いた声が、教室の空気をいつもの調子に戻していく。

私はその声に合わせて、姿勢を正した。


正した、けれど——


背中越しの熱が、夏休み前より強くなっていた。

最後列の半円のどこかから、私の方を見ている視線が、ある。

振り返らなくても、わかった。


(……アルフォンス様)


私はまた目を伏せた。


伏せた瞼の裏で、深紅で中心が黒い小さな火球が、音もなく揺れた。


 * * *


昼休みの本校舎の廊下は夏の終わりの光のなかで、白く乾いた石の音だけを残していた。


私は北廊下を、いつもの旧図書室へ向かって歩いていた。


旧図書室は、北廊下の突き当たり。本校舎の中で、午後のいちばん静かな場所。テオ様が古文書を広げている時間に、私はそこの隅でそっとパンを齧る。夏休み前と、なにも変わらない昼の習慣だった。


——けれど、北廊下の入口の手前で、私の足は止まった。


少し先の角の向こうから、声がした。


「——フェルドラク様」


カトリーヌ様の声だった。


優雅で、よく通って、けれど刃物のように線の細い声。

私は北廊下の手前の太い石柱の影に、半歩、身を寄せた。


(……)


息の出し方を、忘れた。


カトリーヌ様の声が、続けて聞こえてきた。


「——来週の運動会のことなのですけれど」


「ああ」


短い、低い返事。

アルフォンス様の声だった。


それが廊下の石造りの天井にわずかに反響して、私の耳に届いた。


「光属性チームに、いらしてくださる?」


少しだけ、間。


「——わたくしのチームに」


私は石柱の冷たさに、片方の手のひらを当てていた。冷たい、と思う前に、そうしていた。


「……考えておく」


アルフォンス様の声は、低かった。

低くて平らで、いつもの感情をどこにも乗せない調子だった。


「ふふ」


カトリーヌ様の小さな笑い声がした。

廊下の石の上で、それは銀の粒のように軽く、丸く転がった。


「ご返事を、お待ちしておりますわ」


革靴が立ち去る音。


優雅な、踵の硬い、しなやかな歩幅。


それから——もう一つの足音。


整然とした、低い、迷いのない歩幅。


(……アルフォンス様)


私は石柱の影で、息を吸う。


吸った息を吐く前に、二つの足音は廊下の反対側へ別れていった。


    *


私の足は、しばらく動かなかった。


旧図書室は、すぐそこの北廊下の突き当たりにある。あと十数歩歩けば、いつもの扉だった。


——けれど、私の体は踵を返していた。


(……どうして)


声には出さずに、自分に問う。

問いは、私の中に答えを置かなかった。


ただ、靴の底が廊下の石を、いつもより速く軽く踏んでいく。

私は、その速さについていけなかった。


    *


旧図書室の扉を、私は静かに押し開けた。


久しぶりの古い紙と埃の匂いが、夏の終わりの光と一緒にふわりと押し寄せてきた。


テオ様は、いつもの席にいた。

最奥の、窓の手前の、低い椅子。氷青の銀の髪が、古文書のページの白に落ちている。本越しに、私の方へ視線を上げた。


「——リアネ」


「……テオ様」


「お前、走ってきたのか」


私は息を整えるのに、しばらくかかった。

整えてから何も言わずに、テオ様の隣の低い椅子に座った。


テオ様はそれ以上、何も訊かなかった。

ただ、古文書の続きを読んでいた。


私は自分の膝の上で、両手を組み合わせた。

組み合わせた指の節が、まだ、白い。


(……石柱の冷たさが、まだ、指の腹に残ってる)


    *


しばらくして——


「リアネ」


「……はい」


「お前、夏休みは、どうしてた」


テオ様の声は、いつもの低い、本越しの調子だった。


「……家族と、過ごしました」


「そうか」


「はい」


「……家族か」


テオ様の指が、古文書のページを一枚捲った。


「いいな」


たった、それだけだった。

私は、何も言えなかった。


けれどテオ様の声の中に、いつもとは違う一拍があった。私は本越しの彼の横顔を見た。


——その時。


テオ様の視線が、本のページからふっと上がった。

私の方を、見ていた。


けれど、見ているのは——私の顔そのものではなく、もう少し別の場所。眼鏡の縁。あるいは、その奥。あるいは、手元のブレスレットの方。


(……?)


テオ様の目は、いつもの温度より深かった。

私が見返した瞬間に、テオ様はもう本に戻っていた。


「……気のせい、かな」


声には、出さなかった。


旧図書室の窓から差す夏の終わりの光が、テオ様の銀の髪と古文書の白をいつもの色で照らしていた。


私は自分の膝の上の指を、組み直した。


組み直した指の節は、もう白くなかった。

ただ、廊下のカトリーヌ様の声が銀の粒のように、まだ耳の奥のどこかで転がっていた。




※本作はnoteでも掲載中です。noteが最新話となります。



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