第11話「 夏の帰省・仲良くなろう作戦」後半③
母様とリアネが家に戻ってきた頃には、夜はもうずいぶんと深くなっていた。
ゼノは台所のテーブルでひとり、酒の肴の塩漬けの杏を齧りながら、ふたりが食堂を抜けて二階へ上がっていく音を聞いていた。リアネの足音はいつもより少しだけゆっくりで、母様の足音はいつも通り音もない。
二階の廊下の灯りがふっと消えた。
ゼノは杏の最後のひとかけを口に放り込んでからランプをひとつ手に取った。
「……ま、起きてるわな」
ひとりごとが、低く、台所の暗がりに落ちた。
懐から薄く折りたたんだ革の地図を取り出して、ベルトの内側に挟む。それからハーブ茶のおかわりを磁器のカップに注ぎ足して、ランプを片手にテラスへ出た。
*
夜風がゼノの緩く束ねたくすんだ金茶の髪を、ひとふさ頬のところで撫でた。
石造りのタイルの熱はもう完全に抜けていて、冷たい石の感触が革靴の底からまっすぐ伝わってくる。庭の果樹の影が月明かりのなかで黒く揺れていて、その向こうの麦畑が、銀色の海みたいに遠くまで広がっていた。
ゼノは石段の真ん中に腰を下ろした。
ランプを自分の右側に置く。膝の上で革の地図をゆっくりと開いた。
帝都の地図屋では絶対に手に入らない一枚。ヴェンタリアの裏ルートで仕入れたものだ。大陸の五ヵ国が地形と国境ごと、細かく描き込まれている。ソル・グラニア帝国、アクアニア魔導公国、ヴェンタリア自由連邦、テラス王国、ノクティス盟約。
ゼノの指先が、地図の北寄り——ノクティスの輪郭をひとなぞりした。
それから視線を地図の東の端のほうへ流した。
大陸の東側。海。そして、その先の——余白。
地図の作り手が明らかにそこから先を「描かなかった」余白。
古い注釈が、その余白の縁にひとつだけ書かれている。
——この地図に載らぬ国が、一つある。
ゼノはそこに指を置いた。
そのまましばらく、何もしなかった。
夜風が一度ふいて、軒先の銀の鈴が、ちり、と鳴った。
顔を上げると、夜空の北寄りで、五つの星がティアラのような形に並んでいた。さっきまで母様とリアネが見上げていた、あの星座。
帝国名「冠の星座」。アクアニア名「沈む冠」。
「……ノクティスでは、何て呼ぶんだろうな」
ゼノは、誰にも聞こえない声で呟いた。
答えは誰も教えてくれない。あの国は自分たちの星座の名前を、外には漏らさない。
——そして、地図の余白に住む国は。
ゼノは、地図の端の余白に視線を戻した。
*
水路の流れる音が、家の裏のずっと奥から、夜の空気を渡って届いてくる。
ゼノはハーブ茶のカップをひとくち含んだ。
「……動き出す理由」
声に出してみた。
帝都の片隅で、素性を隠したまま、情報屋まがいのことをやってもう何年になるのか。ヴェンタリアに本拠地を移したい——その理由はいくつもあった。あの国のほうが息がしやすい。あの国のほうが、母様譲りの水の魔力を隠さなくていい。あの国のほうが稼げる。
全部、本当の理由だった。
でもいちばん深いところの理由が、ゼノには長いこと、自分でもよく分からなかった。
今夜、それが少しだけ言葉になりかけている。
——母様の故郷を、ちゃんともう一度、調べたい。
ヴェンタリアの情報網ならアクアニアの古文書も、ノクティスの動きも、あの地図の余白の向こうのことも、帝都にいるよりはずっと近い場所で追える。
母様が、なぜアクアニアを捨てたのか。
なぜ、フェルンハイムの父様を選んだのか。
なぜ、リアネにあの眼鏡とブレスレットを、作ってまで力を抑えさせたのか。
全部、母様の口からはたぶん最後まで聞き出せない。母様は選ばないことを選んだ人だから。話さないことを話さないと決めた人だから。
「……でも、リアネは」
ゼノは、自分の声が思っていたより低く落ちたのに、自分で気づいた。
あの日、リアネの中の水が、フェルドラクの坊やの火と応え合った。
馬車のなかでもう片思いとかいう次元じゃないと思った、あの感覚——それがこの七日間で確定した。フェルドラクがリアネの「中」へ、もう半歩入ってきた。
もうあの妹は、自分の力をずっとは隠していられない。
遅くてあと数年。早ければもう来年。
「……ま、いいか」
ゼノは、地図の余白からようやく指を離した。
革の地図をゆっくりと折りたたむ。ランプの灯りがその動きに合わせて揺れた。
「俺も、調べる側に回るしかねえだろ」
ニヤリとは、ならなかった。
いつもみたいな軽口の表情が、出てこなかった。代わりに、母様譲りの深い水色の瞳が月明かりの夜の庭をただまっすぐに見ていた。
水路の音がずっと遠くで流れていた。
二階のリアネの部屋の窓から、ぽつりと灯りが漏れている。たぶんあの妹は、まだ眠れずにいる。
ゼノはハーブ茶の最後のひとくちをゆっくりと飲み干した。
動き出す理由が、少しだけ、言葉になってきた。
軒先の銀の鈴が夜風のなかで、もう一度、ちり、と鳴った。
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