第11話 「夏の帰省・仲良くなろう作戦」 後半②
七日目の朝の光が、もう頭の真上に近づいていた。
台所では母様がもう昼の支度を始めていた。父様はハンス様とテラスで二杯目のお茶を飲んでいる。朝の畑の見回りから戻ってきた私たちを見て、父様がゆっくりと顔を上げて笑った。
「おかえり」
たった、それだけ。
けれどそのひと言で、父様は私たちふたりの足取りも、汗ばんだ頬の色も、たぶんぜんぶ見ていた気がした。
昼食は、母様の冷たい夏野菜のスープ。ハーブと羊乳のサラダ。麦のパンの残りに、井戸で冷やした桃のひと切れ。
ハンス様はいつもの背筋のまま、けれどさっきまでよりは少し柔らかい顔で、母様の料理をひと匙ずつ口に運んでいた。アルフォンス様はその隣で、午後の馬車の時刻をハンス様と低い声で確かめていた。
——もう、戻る時間。
頭ではずっと前からわかっていた。アルフォンス様がこの家に通うようになって、もう七日目だった。挨拶だけのはずだった一週間が、毎朝の井戸端と、畑と、水路と、食卓とで、いつのまにか満たされていた。
母様がお茶をもう一度淹れた。
桃の皮の薄い、橙色のお茶。
誰も何も言わずに、それをゆっくり飲んだ。
お茶の最後のひとくちを、アルフォンス様が丁寧に置いた。
「……この一週間のことは、ご家族のお時間を、ずいぶん頂戴してしまいました」
アルフォンス様の声がいつもの丁寧な高さに戻っていた。
「学院に戻りましたら、改めて書面でお礼を申し上げます」
「いやいやぁ。書面なんていらんよ。アルさんさえよければ、また顔を見せに来てもらえると嬉しい」
父様がゆっくりと笑った。
「アルさんが、うちのお茶を二杯も飲んでくれた。それで充分だよ」
「……はい」
アルフォンス様が深く一礼した。
その横顔の耳の先が、また少しだけ赤かった。
*
古い木戸の前で、父様と母様が揃って見送りに出てくれた。私もその後ろに立った。
馬車寄せに、二輪の馬車が午後の光のなかで待っている。馬はもうすっかり目的地への帰路を理解している顔つきで、御者台のとなりにハンス様がもう一度まっすぐな姿勢で立っていた。
アルフォンス様が最後に母様に深く一礼した。
母様がいつも通りの穏やかな声で、ひと言だけ言った。
「……また、いらしてください」
たった、それだけだった。
けれど母様の声には、ふだんよりも少しだけ低い深みが含まれていた。深い海の底のような蒼が、母様の瞳の奥でひとつ揺れたような気がした。
父様がゆっくりと笑って、母様の肩に軽く片手を置いた。母様がそれで、すこし表情を柔らかくした。
——アルフォンス様が、私の方へ向き直った。
古い木戸の、半分開いたその手前。
石垣の外と内のちょうど境目で、私たちは向かい合った。
アルフォンス様の金色の瞳が、私をゆっくりと見ていた。
「……ありがとう」
「……いえ」
「畑も、麦も、水路も、ぜんぶ、覚えた」
「……はい」
言葉が続かなかった。
帝都に戻れば、また、いつもの「フェルドラク様」と「特待生」に戻る。学院の視線がぎっしりの教室で、対角線の最遠から熱が届くだけの、あの距離に戻る。
あの朝、火を見せてくれた人と、私の指先でその火が消えた——その瞬間が本当にあったのか、明日にはもう自分で疑ってしまいそうだった。
「……リアネ」
アルフォンス様の声が低かった。
水路で「お前のせいだ、リアネ」と笑い混じりに言ったときの、あの低さじゃなかった。もっと深いところに、ゆっくり、ひとつだけ落ちていく低さだった。
「は、はい」
「……さようなら、リアネ」
——さようなら。
私の知っている「さようなら」と、アルフォンス様がいま置いた「さようなら」は、まったく違う言葉だった。
また学院で会う、そんなこと、お互いにわかっている。それでもアルフォンス様はここで、いま、その言葉を丁寧に置いた。
まるで、それを言わなければこの半日がちゃんと終われないみたいに。
まるで、もう戻れない場所をひとつ置いていくみたいに。
「……はい」
絞り出した私の声は、ほとんど息だけだった。
「……お気をつけて、アルフォンス様」
私の「お気をつけて」も、いつもの「お気をつけて」ではなかった。
アルフォンス様がゆっくりと馬車のほうへ歩き出した。
革靴が赤土の道を踏む。ハンス様が扉を開けて、深く一礼してから御者台のとなりに戻った。アルフォンス様が馬車に乗り込む。扉が静かに閉まる。
——馬は、軽くひと声いなないた。
馬車がゆっくりと、赤土の道を東のほうへ走り出す。
町中心部の方角へ。そして、帝都へ続く街道のほうへ。
馬車の窓に、漆黒の髪の影がひとつ、見えた気がした。
遠ざかっていく馬車を、私は古い木戸の前でずっと見送った。
父様も母様も、何も言わなかった。
馬車が麦畑の縁の、ずっと、ずっと、向こうへ、ひと粒の点になって消えるまで——私たちはそこに立っていた。
風がひとつ、麦畑の上を撫でた。
ちり、と、軒先の銀の鈴が、最後にもう一度鳴った。
* * *
日が落ちて夏の夜がフェルシーア家の庭にゆっくりと降りてきた頃。
夕食の後片付けを終えて、私はひとり張り出しテラスに出た。
石造りのタイルが昼間に吸い込んだ熱を、足の裏に少しだけ残している。深い庇の下から空を見上げると、夏の星がぽつ、ぽつ、と灯りはじめていた。
町中心部の方角の空が、まだほんの少し薄紅に染まっていた。
馬車が、あの空の下のどこかをいま走っている。
帝都までの六時間。アルフォンス様はたぶんもう半分くらいは進んだ頃だろうか。
——さようなら、リアネ。
昼の言葉が、夜の空気のなかでもまだ消えていなかった。
私はテラスの石段に腰を下ろした。
手すりのほうへ視線を流すと、軒先の銀の鈴が夜風のなかで、ちり、と一度鳴った。
*
しばらくして、私の隣に足音もなく、母様が腰を下ろした。
月明かりに、母様の銀に近い金の髪がいつもよりほんの少しだけ深い色に見えた。膝の上には、磁器の小さなカップがふたつ。湯気がゆっくりと夜の空気のなかへ立ち上っていく。
「……はい。ハーブのお茶」
「……ありがとうございます、母様」
母様の手から、温かい磁器を受け取る。指先に伝わる温度が、私の心の奥のいちばん硬いところにすうっと染みていった。
しばらく、母様も私も、何も言わなかった。
夏の夜の虫の声と、遠くの水路の流れる音と、軒先の銀の鈴が、ぽつりぽつりと夜の庭を満たしていく。
ふいに、母様が夜空を見上げて言った。
「リアネ」
「はい」
「あの星座、なんて呼ぶか、知っている?」
母様の指先が、夜空のひとつの方角をゆっくりと差した。北寄りの空に、五つの星がティアラのような形に並んでいる。
「……『冠の星座』と、学院で習いました」
「ええ。帝国では、そう呼ばれているわね」
母様の声が、いつもよりほんの少しだけ深かった。
「南の、海辺の国では、別の名前で呼ばれているの」
——南の、海辺の国。
母様の故郷の名前は、アクアニア。それは私も知っている。
けれど母様が「アクアニア」ではなく「南の、海辺の国」と呼ぶときの声を、私はこれまでにたぶん二度しか聞いたことがない。
「……なんて、呼ばれているんですか」
「『沈む冠』」
母様の声が、夜の空気のなかへひと粒ずつ置かれていった。
「あの五つの星はね、夏の終わりにかけて少しずつ海のほうへ沈んでいくの。まるでひとつの王冠が、海の底へゆっくりと降りていくみたいに」
「……海の、底へ」
「南の、海辺の国の人たちはこう言うのよ。『あの冠は、いつか、海の底で、誰かの頭に戻る』」
母様の指先が、夜空の冠の星座をもう一度なぞった。
深い水色の瞳が月明かりのなかで、ほんの一瞬、いつもよりずっと深い海の底のような蒼に揺れた気がした。
でもそれは本当に一瞬で、次の瞬間にはもういつもの母様の瞳に戻っていた。
「……母様」
「ええ」
「『沈む冠』のお話、初めて聞きました」
母様はすぐには答えなかった。
ハーブ茶のカップにゆっくりと唇を寄せて、ひとくち含んだ。
夜風がひと吹きして、軒先の銀の鈴が、ちり、と鳴った。
「……昔のことよ」
たった、それだけ。
けれど母様の「昔」のひと言には、私の知らない時間がぜんぶ含まれていた。
*
「リアネ」
母様がもう一度、私を呼んだ。
今度は夜空ではなく、私のほうをまっすぐに見ていた。
「はい」
「今日、彼を見送ったとき。あなたの背中に、海の音が鳴っていたのよ」
「……海の、音?」
「ええ。私には、わかるの」
母様の手が、私の頬にそっと触れた。
昼間、アルフォンス様が「リアネ」と呼んだ、あの場所。
「強い感情が動いたとき、あなたの中で深いところの水が応えるの。お母さんは、この何日か、ずっと感じていた。あなたの中の海が、日に日に深くなっていくのを。——お母さんが知っているなかで、いちばん深い色をしていたわ」
「……」
言葉が出てこなかった。
水路のほとりでアルフォンス様の火に指先で触れた、あの瞬間。あれを母様はぜんぶ、家の中から見ていたのだろうか。見えていなくても、わかっていたのだろうか。
「……母様」
「うん」
「私は」
「うん」
言葉が続かなかった。
月明かりの下で、母様の指先が私の頬からゆっくりと髪へ降りた。亜麻色の髪を、母様の手がいつかの子守唄のように何度か撫でていく。
ふいに、母様がぽつりと言った。
「リアネ」
「はい」
「あなたは、私よりずっと自由に生きるのよ」
——え。
私は、母様のほうを見た。
母様は、私を見ていなかった。沈みかけの「沈む冠」を、夜空にまっすぐ見上げていた。
その横顔はいつもの穏やかな母様の横顔だった。けれどその瞳の奥にほんの一瞬、また深い海の底のような蒼が揺れた。
今度のは、さっきよりも長かった。
「……母様」
「お母さんは、いろんなことを選べなかった時があったわ。選ばないことを選ぶしかなかった時もあった。でも、あなたは違う」
母様の指先が、私の髪をもう一度撫でた。
「あなたは、何を選んでも、いいの。何を、誰を、どこで——ぜんぶ、自分で選んでいいのよ。お母さんは、それを見たいの」
「……」
「だから、リアネ。今日のあなたの中の海が、深い色をしていたこと——お母さんは、嬉しかった」
夏の夜のハーブ茶の湯気が、ゆっくりと私たちのあいだから立ち上っていく。
軒先の銀の鈴がもう一度、ちり、と鳴った。
母様の言葉のひとつひとつが、まだ形にならないまま、深い水のなかへゆっくりと沈んでいった。
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