第11話「夏の帰省・仲良くなろう作戦」後半①
朝、宿の窓辺に立って、アルフォンスは町の屋根の連なりを見ていた。
漆喰の白と、素焼きの瓦の赤茶。低く連なる屋根のあいだに、夏の朝の光が斜めに差し込んでいる。
——あの家は、いま、どうしているだろう。
昨日、水路のほとりで、リアネが指先で消した、自分の火。あの一瞬の、無音の感触が、まだ右の掌に残っている。
「アル様」
背後でハンスの声がした。
「本日も、フェルシーア家へ、で、ございますか」
アルフォンスは窓辺から振り返らなかった。
「……ああ」
「お時刻は」
「……お声がかかる前に着きたい」
「承知いたしました」
ハンスは、それ以上、何も付け足さなかった。
——けれど、アルフォンスは知っている。
ハンスは、咎めもしないし、からかいもしない。
アルフォンスがフェルシーア家に毎日通うことを、もう全部わかった上で頷いている。
「……ハンス」
「はい」
「視察、という言葉は、もう、しばらく、使わなくていい」
「承知いたしました」
ほんの一瞬だけ、ハンスの口元の端が緩んだ気がした。けれどアルフォンスが振り返った時には、もう、いつもの整然とした無表情に戻っていた。
「……着実に、でございますな」
ハンスがぽつりと言った。
咎めもからかいもない、ただ見届けている、低い声だった。
*
フェルシーア家の古い木戸の前に立つと、もうリアネの父が井戸端で待っていた。
「おう、アルさん」
ゆっくりと、笑う。
「今日はな、水車の修繕だ」
「水車、ですか」
「畑の北の、古い水車だ。歯車が、ひとつ、緩んでてな」
リアネの父は革手袋を手の中で軽く弾ませながら、アルフォンスの白いシャツの袖と革の手袋を、ゆっくりと目でなぞった。
「アルさん。手、貸してくれるかね」
「……はい」
返事に、迷いはなかった。
迷いがなかったことに、自分で少し驚いた。
*
水車のそばに行くと、もうリアネの兄が先に着いていた。
初日の夕方、井戸端で会った時と同じ、緩く束ねたくすんだ金茶の髪。
今日は土のついた手のひらを、ズボンに無造作に擦り付けてから、こちらへ顎をしゃくる。
「よう、フェルドラクの坊ちゃん」
「……お久しぶりです」
「久しいかぁ?ま、二日ぶりか」
リアネの兄は片方の口の端だけを上げた。
アルフォンスは深く一礼を返した。頭を下げるその角度は、初日の夕方と寸分変わらない。
「……はい。お久しぶりです」
「律儀だなぁ」
リアネの兄は小さく肩を竦めて、手元の歯車に視線を戻した。
それ以上、何も言わなかった。
*
リアネの父が、革手袋を片手にぶら下げたまま、水車のそばの土を片手で掬って見せた。
「アルさん。これな、固まってる」
「……はい」
「水路の側だから、本来はもう少し湿っていてもいいんだ。けど、今年の夏は、雨が少なくてな。土が、痩せてる」
リアネの父の指の中で、赤土がさらさらと崩れて落ちていく。
「ほぐしたほうが、水車の根元が、安定する」
「……承知しました」
アルフォンスは、自分の革の手袋に手をかけた。
——ゆっくりと、片方ずつ、外す。
外したことすら、これまでの十二年、ほとんど無かった気がする。書斎の中ですら、革か絹を肌のあいだに挟んできた。
剥き出しになった指先を、アルフォンスは赤土の上にそっと下ろした。
——熱い。
夏の朝の光を、土がしっかりと吸い込んでいる。指の腹に伝わってくるのは、書物の頁や絨毯の毛足ではなく、ざらりとした粒の集まりとその奥に潜む湿り気の名残だった。
(……これが、土か)
声には出さなかった。
ただ指先で、もう一度赤土を撫でた。
ゆっくりと、握ってみる。
ぱらぱらと、ほとんどがこぼれ落ちる。
それでも、掌の真ん中に、土の粒が残った。
——残った。
その残った粒を、アルフォンスはしばらく見ていた。
リアネの兄が、何も言わずに、隣で歯車を回していた。
リアネの父も、何も言わずに、別の歯車に油を差していた。
ふたりとも、こちらを見てもいない。
けれど、見ていない、というのとは違う種類の見ていなさだった。
(……ハンス)
視線だけ、水車小屋の影に控えているハンスの方へ流す。
ハンスは目を細めて、こちらを見ていた。
その目尻が、いつもよりほんの少しだけ、柔らかかった。
何も、言ってはこなかった。
*
水車の歯車を、リアネの父の指示通りに動かす。
リアネの兄が、土まみれの手で、もう片方を支える。
しばらく、三人とも、ほとんど言葉を交わさなかった。
リアネの父の鍬を握る手の、無駄のない動き。
リアネの兄の歯車を回す指の、長く繊細な力の入れ方。
水路を流れる水音と、遠くの麦畑の穂が擦れる音。
——アルフォンスは、自分の指先がいつの間にか赤土に馴染んでいることに、気づいた。
革手袋を脱いだことを、誰にも咎められていない。
それどころか——咎められない、ということそのものが、フェルシーア家の温度だった。
「……アルさん」
リアネの父が、ふと顔を上げて言った。
「明日も、来るかね」
問いの形をしていたけれど、答えを待っている声ではなかった。
すでに、明日もアルフォンスがここに来ることを、リアネの父は織り込んで言っていた。
「……はい。お邪魔します」
「うん」
リアネの父は、それだけ頷いた。
リアネの兄が土まみれの手のひらをズボンで拭いながら、ぽつりと、こちらを見ずに言った。
「フェルドラクの坊ちゃんよ」
「はい」
「妹を、泣かせるなよ」
それだけ、だった。
リアネの兄は続きを言わなかった。アルフォンスのほうへ視線も寄こさなかった。
ただ歯車に油を差しながら、独り言のように、低く投げただけだった。
——けれど、アルフォンスはその一言をきちんと受け取った。
(……はい)
声に出さずに、心の中で頷く。
リアネの兄は、それ以上、何も言わなかった。
*
四日目の夕方、アルフォンスはフェルシーア家の食卓に、再び呼ばれていた。
その日の昼間、リアネの父は畑の手入れに、アルフォンスは——もう「視察」という言葉を口にしなくなっていた——一緒にいた。
リアネは家の手伝いに戻る時間が長く、アルフォンスとはあの水路の朝以来、長い言葉を交わしていない。
それでも夕方になると、ハンスがアルフォンスの脇に立って、ぽつりと言うのだった。
「お夕飯のお時間でございます。フェルシーア家から、お声がかかっております」
「……ああ」
ハンスは何も付け足さなかった。
ただアルフォンスの上着の袖の埃を、無言で軽く払うだけだった。
*
リアネの母の料理は、侯爵家のそれとは、ぜんぶ違っていた。
冷えた井戸水で晒したハーブを、素朴な羊乳と和えるだけのサラダ。
麦のパンに、果樹の実のジャム
。火を通しすぎない夏野菜の、塩だけのスープ。
味の輪郭が、優しい。
——そう感じた自分の語彙の貧しさに、アルフォンスは内心戸惑った。
「優しい」という言葉を料理に対して使ったのは、たぶん生まれて初めてだった。
リアネの母は、何も言わなかった。
ただアルフォンスがスープを一口含んだその瞬間に、深い水色の瞳がふっと柔らかく撓んだ。
——気づいてくれている。
それだけが、わかった。
リアネは、アルフォンスの斜め向かいで、目を伏せたままパンを千切っていた。
亜麻色の髪が、夕暮れの光を細かく拾っている。
アルフォンスは、リアネと、まだ目を合わせていなかった。
合わせる勇気を、夕方の食卓では、自分に許せていなかった。
*
五日目。
リアネと二人で、北の水路まで歩いた。
午後の畑の見回りを、リアネの父が「アルさん、行ってきな」と頷いただけで、二人は赤土の道を麦畑の縁に沿って、北へと歩いていった。
途中、二人とも、ほとんど言葉を交わさなかった。
最初の日——あの「水路の水は、私のことを、知っているんです」とリアネが言ってくれたあの日——なら、この沈黙の重さにアルフォンスは耐えられなかったかもしれない。
けれど、五日目の今は。
沈黙が、怖くなかった。
リアネの麻のサンダルの音が、自分の革靴の音と赤土の上で、ふたつ揃って続いている。
それだけで、足元から胸の奥まで、何か温かいものが満ちていく。
リアネがふと足を速めて、先を歩き始めた。
亜麻色の髪が、夏の風に揺れる。
麻のワンピースの裾が、麦畑の穂の高さで、銀色の波に紛れていく。
アルフォンスはその後ろ姿を、後ろからただ見ていた。
学院では、決して、見られない後ろ姿だった。
(……ずっと、見ていたい)
声には、出さなかった。
声に出してはいけないことを、アルフォンスは十二歳の自分でも、もうわかっていた。
*
六日目の夜。
宿の窓辺で、アルフォンスはひとり、明日の挨拶の言葉を口の中で試していた。
「……ご家族には、本当に、お世話になりました」
違う、と思う。
「……これまでの一週間、ありがとうございました」
これも、違う。
どの言葉も、丁寧すぎて、軽すぎる。
アルフォンスがこの六日間で受け取ったものは、たぶん、定型の侯爵家の挨拶ではきちんと返せない種類のものだった。
——明日、何を、持ち帰るんだろう。
書物に書いてあった「民情」とはまるで違うものを、アルフォンスはフェルシーア家から受け取った。リアネの父の鍬の手つき。リアネの母の料理の匂い。リアネの兄の「妹を、泣かせるなよ」のひと言。リアネの後ろ姿。指先に残った、土の粒。
——そして、リアネ。
「リアネ」と心の中で呼んだ瞬間に、アルフォンスは自分の指先が机の縁の上で、ほんのわずかに固まったのを感じた。
明日、最後にリアネに、何を言えばいいのか。
「……ありがとう」
口の中で、試してみる。
軽い。
「……また、学院で」
それも、軽い。
「……さようなら、リアネ」
——ふっと。
胸の奥で、なにかが、ぴたりと当てはまった。
「さようなら」は、また会うことを、否定する言葉じゃない。
ただここで、自分が受け取ったぜんぶに、きちんと頭を下げるための別れの言葉。
明日、自分は、その言葉を言うのだ。
「アル様」
ハンスが、扉のそばから、低く声をかけてきた。
「明日は、お早めに、お声がけを」
「……ああ」
ハンスは、それ以上、何も言わなかった。
——着実に、でございますな。
ハンスのその、いつかの低い声が夜の宿の空気の中で、もう一度アルフォンスの耳の奥に、ふっと戻ってきた。
窓の外で、夏の夜の虫が低く、長く鳴いていた。
その声を、アルフォンスはしばらく聞いていた。
明日、自分は、フェルシーア家の古い木戸の前に立つ。
そして、リアネに、「さようなら、リアネ」と、言うのだ。
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