表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
30/32

第11話「夏の帰省・仲良くなろう作戦」後半①



朝、宿の窓辺に立って、アルフォンスは町の屋根の連なりを見ていた。


漆喰の白と、素焼きの瓦の赤茶。低く連なる屋根のあいだに、夏の朝の光が斜めに差し込んでいる。


——あの家は、いま、どうしているだろう。


昨日、水路のほとりで、リアネが指先で消した、自分の火。あの一瞬の、無音の感触が、まだ右の掌に残っている。


「アル様」


背後でハンスの声がした。


「本日も、フェルシーア家へ、で、ございますか」


アルフォンスは窓辺から振り返らなかった。


「……ああ」


「お時刻は」


「……お声がかかる前に着きたい」


「承知いたしました」

ハンスは、それ以上、何も付け足さなかった。


——けれど、アルフォンスは知っている。


ハンスは、咎めもしないし、からかいもしない。

アルフォンスがフェルシーア家に毎日通うことを、もう全部わかった上で頷いている。


「……ハンス」


「はい」


「視察、という言葉は、もう、しばらく、使わなくていい」


「承知いたしました」

ほんの一瞬だけ、ハンスの口元の端が緩んだ気がした。けれどアルフォンスが振り返った時には、もう、いつもの整然とした無表情に戻っていた。


「……着実に、でございますな」


ハンスがぽつりと言った。

咎めもからかいもない、ただ見届けている、低い声だった。



    *



フェルシーア家の古い木戸の前に立つと、もうリアネの父が井戸端で待っていた。


「おう、アルさん」

ゆっくりと、笑う。


「今日はな、水車の修繕だ」


「水車、ですか」


「畑の北の、古い水車だ。歯車が、ひとつ、緩んでてな」

リアネの父は革手袋を手の中で軽く弾ませながら、アルフォンスの白いシャツの袖と革の手袋を、ゆっくりと目でなぞった。


「アルさん。手、貸してくれるかね」


「……はい」

返事に、迷いはなかった。


迷いがなかったことに、自分で少し驚いた。



    *



水車のそばに行くと、もうリアネの兄が先に着いていた。


初日の夕方、井戸端で会った時と同じ、緩く束ねたくすんだ金茶の髪。

今日は土のついた手のひらを、ズボンに無造作に擦り付けてから、こちらへ顎をしゃくる。


「よう、フェルドラクの坊ちゃん」


「……お久しぶりです」


「久しいかぁ?ま、二日ぶりか」


リアネの兄は片方の口の端だけを上げた。


アルフォンスは深く一礼を返した。頭を下げるその角度は、初日の夕方と寸分変わらない。


「……はい。お久しぶりです」


「律儀だなぁ」


リアネの兄は小さく肩を竦めて、手元の歯車に視線を戻した。


それ以上、何も言わなかった。



    *



リアネの父が、革手袋を片手にぶら下げたまま、水車のそばの土を片手で掬って見せた。


「アルさん。これな、固まってる」


「……はい」


「水路の側だから、本来はもう少し湿っていてもいいんだ。けど、今年の夏は、雨が少なくてな。土が、痩せてる」


リアネの父の指の中で、赤土がさらさらと崩れて落ちていく。


「ほぐしたほうが、水車の根元が、安定する」


「……承知しました」


アルフォンスは、自分の革の手袋に手をかけた。


——ゆっくりと、片方ずつ、外す。


外したことすら、これまでの十二年、ほとんど無かった気がする。書斎の中ですら、革か絹を肌のあいだに挟んできた。


剥き出しになった指先を、アルフォンスは赤土の上にそっと下ろした。


——熱い。


夏の朝の光を、土がしっかりと吸い込んでいる。指の腹に伝わってくるのは、書物の頁や絨毯の毛足ではなく、ざらりとした粒の集まりとその奥に潜む湿り気の名残だった。


(……これが、土か)


声には出さなかった。

ただ指先で、もう一度赤土を撫でた。

ゆっくりと、握ってみる。

ぱらぱらと、ほとんどがこぼれ落ちる。

それでも、掌の真ん中に、土の粒が残った。


——残った。


その残った粒を、アルフォンスはしばらく見ていた。

リアネの兄が、何も言わずに、隣で歯車を回していた。

リアネの父も、何も言わずに、別の歯車に油を差していた。


ふたりとも、こちらを見てもいない。


けれど、見ていない、というのとは違う種類の見ていなさだった。


(……ハンス)


視線だけ、水車小屋の影に控えているハンスの方へ流す。

ハンスは目を細めて、こちらを見ていた。

その目尻が、いつもよりほんの少しだけ、柔らかかった。


何も、言ってはこなかった。



    *



水車の歯車を、リアネの父の指示通りに動かす。

リアネの兄が、土まみれの手で、もう片方を支える。


しばらく、三人とも、ほとんど言葉を交わさなかった。


リアネの父の鍬を握る手の、無駄のない動き。

リアネの兄の歯車を回す指の、長く繊細な力の入れ方。

水路を流れる水音と、遠くの麦畑の穂が擦れる音。


——アルフォンスは、自分の指先がいつの間にか赤土に馴染んでいることに、気づいた。


革手袋を脱いだことを、誰にも咎められていない。


それどころか——咎められない、ということそのものが、フェルシーア家の温度だった。


「……アルさん」


リアネの父が、ふと顔を上げて言った。


「明日も、来るかね」


問いの形をしていたけれど、答えを待っている声ではなかった。

すでに、明日もアルフォンスがここに来ることを、リアネの父は織り込んで言っていた。


「……はい。お邪魔します」


「うん」


リアネの父は、それだけ頷いた。


リアネの兄が土まみれの手のひらをズボンで拭いながら、ぽつりと、こちらを見ずに言った。


「フェルドラクの坊ちゃんよ」


「はい」


「妹を、泣かせるなよ」


それだけ、だった。


リアネの兄は続きを言わなかった。アルフォンスのほうへ視線も寄こさなかった。


ただ歯車に油を差しながら、独り言のように、低く投げただけだった。


——けれど、アルフォンスはその一言をきちんと受け取った。


(……はい)


声に出さずに、心の中で頷く。


リアネの兄は、それ以上、何も言わなかった。



    *



四日目の夕方、アルフォンスはフェルシーア家の食卓に、再び呼ばれていた。


その日の昼間、リアネの父は畑の手入れに、アルフォンスは——もう「視察」という言葉を口にしなくなっていた——一緒にいた。

リアネは家の手伝いに戻る時間が長く、アルフォンスとはあの水路の朝以来、長い言葉を交わしていない。



それでも夕方になると、ハンスがアルフォンスの脇に立って、ぽつりと言うのだった。



「お夕飯のお時間でございます。フェルシーア家から、お声がかかっております」


「……ああ」


ハンスは何も付け足さなかった。


ただアルフォンスの上着の袖の埃を、無言で軽く払うだけだった。



    *



リアネの母の料理は、侯爵家のそれとは、ぜんぶ違っていた。


冷えた井戸水で晒したハーブを、素朴な羊乳と和えるだけのサラダ。

麦のパンに、果樹の実のジャム

。火を通しすぎない夏野菜の、塩だけのスープ。


味の輪郭が、優しい。


——そう感じた自分の語彙の貧しさに、アルフォンスは内心戸惑った。


「優しい」という言葉を料理に対して使ったのは、たぶん生まれて初めてだった。


リアネの母は、何も言わなかった。

ただアルフォンスがスープを一口含んだその瞬間に、深い水色の瞳がふっと柔らかく撓んだ。


——気づいてくれている。


それだけが、わかった。


リアネは、アルフォンスの斜め向かいで、目を伏せたままパンを千切っていた。

亜麻色の髪が、夕暮れの光を細かく拾っている。


アルフォンスは、リアネと、まだ目を合わせていなかった。

合わせる勇気を、夕方の食卓では、自分に許せていなかった。



    *



五日目。


リアネと二人で、北の水路まで歩いた。


午後の畑の見回りを、リアネの父が「アルさん、行ってきな」と頷いただけで、二人は赤土の道を麦畑の縁に沿って、北へと歩いていった。


途中、二人とも、ほとんど言葉を交わさなかった。


最初の日——あの「水路の水は、私のことを、知っているんです」とリアネが言ってくれたあの日——なら、この沈黙の重さにアルフォンスは耐えられなかったかもしれない。


けれど、五日目の今は。


沈黙が、怖くなかった。


リアネの麻のサンダルの音が、自分の革靴の音と赤土の上で、ふたつ揃って続いている。

それだけで、足元から胸の奥まで、何か温かいものが満ちていく。


リアネがふと足を速めて、先を歩き始めた。


亜麻色の髪が、夏の風に揺れる。

麻のワンピースの裾が、麦畑の穂の高さで、銀色の波に紛れていく。


アルフォンスはその後ろ姿を、後ろからただ見ていた。


学院では、決して、見られない後ろ姿だった。


(……ずっと、見ていたい)


声には、出さなかった。


声に出してはいけないことを、アルフォンスは十二歳の自分でも、もうわかっていた。



    *



六日目の夜。


宿の窓辺で、アルフォンスはひとり、明日の挨拶の言葉を口の中で試していた。


「……ご家族には、本当に、お世話になりました」


違う、と思う。


「……これまでの一週間、ありがとうございました」


これも、違う。

どの言葉も、丁寧すぎて、軽すぎる。

アルフォンスがこの六日間で受け取ったものは、たぶん、定型の侯爵家の挨拶ではきちんと返せない種類のものだった。


——明日、何を、持ち帰るんだろう。


書物に書いてあった「民情」とはまるで違うものを、アルフォンスはフェルシーア家から受け取った。リアネの父の鍬の手つき。リアネの母の料理の匂い。リアネの兄の「妹を、泣かせるなよ」のひと言。リアネの後ろ姿。指先に残った、土の粒。


——そして、リアネ。


「リアネ」と心の中で呼んだ瞬間に、アルフォンスは自分の指先が机の縁の上で、ほんのわずかに固まったのを感じた。


明日、最後にリアネに、何を言えばいいのか。


「……ありがとう」


口の中で、試してみる。


軽い。


「……また、学院で」


それも、軽い。


「……さようなら、リアネ」


——ふっと。


胸の奥で、なにかが、ぴたりと当てはまった。


「さようなら」は、また会うことを、否定する言葉じゃない。

ただここで、自分が受け取ったぜんぶに、きちんと頭を下げるための別れの言葉。


明日、自分は、その言葉を言うのだ。





「アル様」

ハンスが、扉のそばから、低く声をかけてきた。


「明日は、お早めに、お声がけを」


「……ああ」


ハンスは、それ以上、何も言わなかった。

——着実に、でございますな。

ハンスのその、いつかの低い声が夜の宿の空気の中で、もう一度アルフォンスの耳の奥に、ふっと戻ってきた。



窓の外で、夏の夜の虫が低く、長く鳴いていた。

その声を、アルフォンスはしばらく聞いていた。


明日、自分は、フェルシーア家の古い木戸の前に立つ。


そして、リアネに、「さようなら、リアネ」と、言うのだ。







※本作はnoteでも掲載中です。noteが最新話となります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ