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第11話「夏の帰省・仲良くなろう作戦」前半③



水路のほとりで、アルフォンス様は、何も言わなかった。


ただ、革の手袋を片手に握りしめたまま、水面をじっと見ていた。金色の瞳が朝の光を細かく拾う水面とまっすぐに向き合っている。

なにかを、言おうとして、言いかねている横顔。


——たぶん、私が先に見せたほうが、いい。


胸の奥が、ふとそう決めた。


昨日、父様の前でつい、こぼしてしまった術式。

あれをもう一度、自分からアルフォンス様の前で見せる。

怖くは、なかった。


学院で見せたらたぶん、世界がひっくり返るくらいの異常事態。

けれど今ここでなら——たぶん空がひっくり返らない。


私はサンダルを半歩、水路のほうへ寄せた。

しゃがんで、右手を水面からほんの少し上にかざす。


水が、応えた。


「……潤いの、手」


囁くくらいの声で、術式の名前を呼んだ。


水面から銀色の透明な糸がふわりと立ち上った。

糸は朝の光を細かく拾いながら、空気のなかをひととき泳いで、私の指先にいくつも絡んだ。


糸はそのまま緩やかな弧を描いて、水路のほとりの土にゆっくりと降りていく。

土が銀色を吸い込んで、ほんの少しだけ色が深くなった。


その土の色を私はずいぶん前から知っている。

父様が「水路の水が、お前が来る日は、機嫌がいい」と言うときの、あのほんの少しだけ深い土の色。


糸が、最後の一筋まで、土に吸い込まれた。


水路は何も起きなかったかのように、またさらさらと流れている。


私は、立ち上がった。


顔を上げて、初めてアルフォンス様のほうを見た。

アルフォンス様は、ひとつも、動いていなかった。


革の手袋を握りしめた手は、さっきと同じ位置のまま。水面を見つめていた金色の瞳だけが、ゆっくりと私のほうに戻ってきていた。


「……水路の水は、私のことを、知っているんです」


自分の声が思っていたより、ずっと穏やかに出た。


「父様の畑も、母様の井戸も、たぶんここの水路も。私が生まれる前から、私のことを知っている水たちだから」


「……そうか」


「学院の水晶の前では、出せない術式です。眼鏡とブレスレットがあるから抑えられているし、何より——あんなにたくさんの目の前では、水が私のことを知らない」


「……」


「ここは私のことを知っている水だから、出せる」


アルフォンス様の金色の瞳が、ゆっくりと、瞬いた。


水音と、遠くの水車のゆっくりとした軋みの音だけが、二人のあいだに流れている。


「……リアネ」


「はい」


「……俺も、見せたいものがある」


水路のほとりで、アルフォンス様が革の手袋をご自分の腰のベルトに、丁寧に押し込んだ。


空になった右手を、自分の胸の前に持ち上げる。


——指先に、何かが、生まれようとしている。


咄嗟に、息を止めた。


アルフォンス様の魔法の片鱗は知っている。学院の魔力測定で巨大な水晶をひとなぎで深紅に染めた、あの熱。実技の時間に演習場の空気を何度も数度跳ね上げた、あの破壊力。


いま、こんな麦畑のすぐそばで水路のすぐそばで、それを出すのか。


私がひとあし後ずさりかけた、その瞬間。


アルフォンス様の右手の掌の上に、火球が生まれた。


握りこぶしひとつ分。


深い、深い紅色。けれどその真ん中だけが、墨を一滴落としたように黒い。


黒が紅のなかで、息をしていた。


——熱が、来ない。


火球が目の前で燃えているのに、頬にも首筋にも、熱がひとつも届かない。


夏の朝の光より、優しい温度の火だった。


「……これが」


「ああ」


「……アルフォンス様の、火」


「……今はまだ、名前は、ない」


アルフォンス様の声が低かった。とても丁寧に言葉を選んでいる、声だった。


「……お前の側だと、こうなる」


「……え」


「いつもは、もっと、荒い」


火球がアルフォンス様の掌の上で、息をしていた。


深い紅と、その中心の黒。


——いつもは、もっと、荒い。


胸の奥が、しめつけられた。


学院で感情が動くたびに、無意識に周囲の空気を熱くしてしまう、あのアルフォンス様の火。教室のガラスがぴしりと音を立てたり、机の角がふっと焦げたり、いつもその近くに私はいた。


その火が今、ここでは——熱を私のほうへ、向けていない。


「……触っても、いいですか」


私の口から勝手に、その言葉が出た。


言ってから、自分でも、驚いた。


火に触ってもいいかと、火を構築した本人に訊いている。


アルフォンス様は、目を、細めた。


怒っているのでも笑っているのでもない、ただの細め方だった。


「……ああ」


たった、一音。




私は右手を伸ばした。


指先が、紅と黒の境目に近づく。


熱はない。


あと五分。あと三分。あと一分——


火に、触れた。


消えた。


パチン、でもなく、シュッ、でもなく。本当にただ、無音で。

最初から、そこに何もなかったかのように。

アルフォンス様の掌に、深い紅と黒の残像が、ほんの一瞬。それも、消えた。


水路の水音が、戻ってきた。



「……すみません」



なぜ自分が謝ったのか、自分でもよくわからなかった。

たぶん、せっかくアルフォンス様が見せてくれた火を、私の指先で消してしまったから。


けれど、アルフォンス様はすぐに首を横に振った。


「謝るな」


その声がいつかの、どこかで聞いた声だった。

——たしか、旧図書室で初めて言われた、あの日の声。


胸の奥がもう一度、しめつけられた。


「お前が消したから、俺の火はちゃんと終われた」


アルフォンス様の言い方がゆっくりだった。

自分でもひとつずつ確かめながら、言葉を選んでいる声だった。



「いつもは自分で終わらせる。それでも最後に必ず、ほんの少しなにかを焦がしてしまう。教室の机だったり、廊下のガラスだったり——俺が本当に終わらせたいところで、火が終われない」


「……」


「お前が、触ると、終わる」


水路のほとりで、私は立ち尽くしていた。

なにを言ったらいいのか、わからなかった。


「……アルフォンス様は」


絞り出した声が、震えていた。


「……ずっと、そんなに、大変だったんですか」


アルフォンス様の金色の瞳が、瞬いた。


「……あまり、考えたことが、なかった」


「……え」


「ずっと、こういうものだと、思っていた」


アルフォンス様の声が、低くなった。


「……お前が術式を見せてくれたから、こっちも見せたくなった。ただそれだけのつもりだった。でも——出した火が自分でも驚くほど穏やかで」


「……」


「お前のせいだ、リアネ」


アルフォンス様の声に、笑いが混じっていた。けれどその目は笑っていなかった。まっすぐに私を見ていた。


「……すみま——」


言いかけて、口をつぐんだ。

謝るなと言われたばかりだった。

アルフォンス様がふっと、小さく笑った。


「……俺たちは、似ているのかもしれない」


「……え」


「俺は感情が揺れると、火が暴れる。お前は感情が深いところで動くと、水が応える」


アルフォンス様の金色の瞳が、水面をひとつ、撫でた。


「魔力の形は違う。けれどたぶん、根の深いところは——」


そこで、アルフォンス様は言葉を切った。

最後まで、言わなかった。


水音だけが、二人のあいだに、流れていた。

——ふたりだけの秘密がひとつ、また増えた。


誰にも、言わない。

学院でも、家でも、テオ様にも、ハンス様にも、父様にも、母様にも、兄様にも、誰にも。


私たちはまだ、お互いの術式のいちばん深いところは、何も見ていない。

水音が聞こえていた。


夏の朝の光が水面の上で、いつまでも細かく躍っていた。





※本作はnoteでも掲載中です。noteが最新話となります。

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