第11話「夏の帰省・仲良くなろう作戦」前半②
食卓の片付けが、ひと段落した頃。
父様がもう一杯、自分でお茶を注ぎながら、ぽつりと言った。
「……そういや、ハンスさんは」
アルフォンス様の手が、空になった牛乳のグラスのところで、ぴたりと止まった。
「……馬車に、おります」
「あらら」
父様が目を細めて、笑った。
「リアネ。悪いがなぁ、ハンスさん呼んできてくれな。一緒に朝飯食ってもらえ」
「……はい、父様」
私はエプロンを外して裏口の戸をもう一度押し開けた。庭先を回り、夏の果樹の影をくぐって、半分開いた古い木戸を抜ける。
赤土の道に出ると、朝の光がもうずいぶんと高くなっていて、足元の赤土の色がさっきよりも鮮やかに目に飛び込んできた。
馬車寄せの石段のそばに、二輪の馬車が静かに停まっていた。馬は機嫌よさそうに首を垂れて、御者台のとなりにハンス様がまっすぐな姿勢で立っていた。
帝都で見るときと、ひとつも変わらない姿。
「……ハンス様」
「リアネ様」
ハンス様の表情はいつも通り、ひとつも動かなかった。けれど、ほんの少しだけ首を傾けるようにして私を見た。
「父様が、朝飯をご一緒にどうぞ、と」
「……いえ、私は」
ハンス様の声が、ほんの少しだけ低くなった。
「馬車を、お預かりしておりますので」
断られる、と思った。
たぶんハンス様にとって、それは「侯爵家の従者として正しい返事」なのだ。
けれど、私はゆっくりと首を横に振った。
「……父様が、待っています」
たった、それだけ。
ハンス様の眉がほんの一瞬、動いたような気がした。
けれどそれは本当に一瞬で、次の瞬間にはもう、いつもの無表情に戻っていた。
「……承知しました」
ハンス様が馬の首をひと撫でしてから、私の少し後ろを、静かについてきた。
古い木戸の前で、私はひとあし横にずれた。
ハンス様が深く一礼してから、敷地のなかへ入っていく。
その背中を目で追いかけながら、私はどこかで、小さく安心していた。
たぶん、ハンス様も。
アルフォンス様のいちばん近いひとり、なのだ。
*
「リアネ、悪いがなぁ。アルさんに、畑、案内してやれ」
父様がハンス様にお茶をもう一杯注ぎながら、私のほうへ、ゆっくりと言った。
昨日、父様自身が案内したばかりの、同じ畑。
けれど父様は、それをもう一度、私に頼んだ。
アルフォンス様が椅子からすうっと立ち上がって、母様に深く一礼してから、私のほうを見た。
「……お願いします」
その「お願いします」がたぶん、私だけに向けて言われた今朝、いちばん丁寧な声だった。
私たちは玄関の扉を出て、古い木戸を抜けて、赤土の道のほうへふたりで歩き出した。
石垣の外に出ると、夏の朝の光が頭の上からまっすぐ降ってくる。
歩く速度を、私はいつもの自分のペースよりほんの少しだけ遅くした。アルフォンス様の革靴の音が、私の麻のサンダルの音と、赤土の上でふたつ揃った。
歩き始めて、ほんの数分。
「……まずは、西の斜面から」
「ああ」
石垣に沿って、私たちは家の西側へ回った。
杏と桃の木が斜面に互い違いに植えられている。葉のあいだから熟れかけた杏の実が橙色にこぼれて、朝の光のなかでひとつずつ、灯のように光っていた。
「……父様が昨日、おっしゃっていましたよね。杏は、桃のそばに植えてやらないと拗ねる、と」
「……ああ」
アルフォンス様が桃の若葉のひとつを、片手の指先で、そっと撫でた。
「本当に、拗ねるのか」
「……拗ねます」
私は、思わず、笑ってしまった。
「桃のそばに植えなかった一本だけ、毎年、実の付きが本当に悪いんです」
「……そうか」
アルフォンス様がもう一度、桃の葉を、指先で撫でた。
その横顔が、昨日の食卓のときよりもほんの少しだけ、ほどけているように見えた。
*
杏と桃の斜面を抜けると、視界が一面の金色に開けた。
家の背後から北へ、ずっと遠くまで、麦畑が燃えるように広がっている。朝の風がひと吹きするたびに、穂のてっぺんが銀色の波になって走っていった。
私たちは麦畑のいちばん西の縁を、北へ向かって、ゆっくりと歩いた。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
穂を渡る風の音と、遠くで鳴く鳥の声と、私たちの足音だけが、夏の朝の光のなかにぽつりぽつりと置かれていく。
不思議だった。
帝都の学院では、たった一秒の沈黙でさえ息苦しくて、私はいつも何かを言わなければと慌てていた。けれど今、アルフォンス様の革靴の音と私のサンダルの音が麦畑の縁に並んでいるこの沈黙は——少しも苦しくない。
「……ここですね」
私は立ち止まって、麦畑のいちばん西の端の一筋を指さした。
穂の色が、他より、ほんの少しだけ深い黄。
「ああ」
アルフォンス様が私のとなりで立ち止まった。
「……父様は、ここの土がいつもいちばん早く乾くんです、って」
「……昨日、そう、伺った」
昨日、たった一度の案内で、ちゃんと覚えている。
「……アルフォンス様は」
「ん」
「……記憶力が、いいんですね」
私の言葉に、アルフォンス様がふっと小さく息を漏らすように笑った。学院ではたぶん、誰も見たことのないような笑い方だった。
「……いや」
「え」
「他の畝のことは、もう半分くらい、忘れている」
「……え」
「ただ、ここの色だけは」
アルフォンス様の金色の瞳が、麦畑の西の端の深く焼けた一筋をゆっくりと撫でていった。
「……ここの色だけは、お前のことを、考えながら、見ていた」
——え。
私は息をするのを、忘れた。
アルフォンス様は私のほうを見ていなかった。麦畑のほうを、ただまっすぐに見ていた。けれどその横顔の耳の先が、朝の光のなかで、ほんの少しだけ赤かった。
「……それは」
言葉が、続かなかった。
「行こう、リアネ」
アルフォンス様が、ふいに、足を踏み出した。
歩き出した、その背中を、私は慌てて追いかけた。
麦畑の縁を、ふたりで北へ歩いていく。
穂の波がふたつ、私たちの両側で揺れていた。さっきから私の心臓はいつもの倍くらいの速さで走っていて、麻のワンピースの胸元が自分の鼓動でかすかに震えているのが分かる。
……お前のことを、考えながら、見ていた。
アルフォンス様の声が頭のなかで、もう一度、麦の波を渡った。
アルフォンス様はたぶん、いつもの調子でぽろりとこぼしただけなのだ。きっと本人にとってそんなに特別な意味のある言葉ではない。
……ない、はず。
私が勝手に過剰に意味を拾ってしまっただけ。
「……リアネ」
ふいに、アルフォンス様が振り返らずに言った。
「は、はい」
「……あれが、水路か」
顔を上げると、麦畑のいちばん奥の縁に朝の光を細かく拾ってまっすぐに伸びている銀色の流れが見えた。
古い水路。畑のいちばん、端。
その向こうにはもう、豆畑と根菜畑が別の緑色で広がっている。さらに向こうには、林の影。
風が水面をさらりと撫でた。
「……はい」
「……行こう」
私たちは麦畑の縁を抜けて、水路のすぐそばまで歩いた。
水音が急にはっきりと耳に届くようになる。
水路の幅は、私のひとあと半くらい。深さは膝の少し上まで。底の小石まで、夏の光が透けて見えた。父様が「水路の水が、お前が来る日は、機嫌がいい」と言った、あの水。
水路のほとりで、アルフォンス様が立ち止まった。
革の手袋を片手に握りしめたまま。
水音と遠くの水車のゆっくりとした軋みの音と、私たちの息の音だけが、夏の朝の光のなかに流れていた。
——アルフォンス様が、何かを言おうとしている。
その気配が、横顔のぴんと張った首筋から伝わってきた。
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