第11話「夏の帰省・仲良くなろう作戦」前半①
朝の赤土の道を、アルフォンスはひとり、革靴の音だけを連れて歩いていた。
昨日、初めてここを通ったときの感覚がまだ、足の裏のずっと奥に残っている。
馬車の窓越しに、麦畑と古い水路と、夏の光のなかをすべり過ぎた。土と草の匂いが、開け放たれた窓からゆっくりと身体に入り込んできた。あの瞬間、身体の芯のどこかが、ゆるりと——理由はわからないが、ほどけていく感覚があった。
今朝、革靴で同じ赤土を踏んでも、その「ほどけ」はまだ何ひとつ戻っていない。
帰り際——彼女の家族の前で、初めてその名前を呼んだ。
リアネ。
その一音が、帝都への馬車のなかでも、宿の天井を見上げる夜更けにも、消えなかった。
今朝、ハンスに「馬車は門前で」と短く言って、最後のひと区切りだけひとりで歩きたくなった。
顔を上げれば、朝の光のなかに白い漆喰の低い石垣が、ぽつりと見えはじめる。素焼きの赤茶色の瓦屋根。軒先に昨日と同じ、小さな銀の鈴。
——ここだ。
石垣の切れ目には、古い木戸が昨日の夕方と同じように半分ほど開いていた。
板を二枚、横木でゆるく繋いだだけの素朴な低い木の扉。歳月でもう銀灰色に色を抜かれている。背の高い大人なら、肘から上だけが向こう側から見える、そのくらいの高さ。
その向こうに、井戸と、夏の果樹と、洗い終えた朝の布の揺れる庭先が見えている。
アルフォンスは革の手袋を片手に握り直して、木戸の手前で静かに立ち止まった。
* * *
夜のうちに、庭の果樹の梢を渡る風と家のうしろの水路のほとりで鳴く何かの低く長い声が幾度も寄せては遠ざかって、そのあいまに軒先の銀の鈴が一度だけちりと鳴った。風のせいなのか、耳が勝手に聞いていたのか、わからない。
寝台から足を下ろすと、素焼きのタイルの冷たさが足裏にすうっと上ってきた。それでようやく昨日のことが夢ではなかったのだと、身体のほうが先に思い知った。
——リアネ。
家族の前で、アルフォンス様に、初めて名前を呼ばれた。
あの、少しだけ低くなった声の余韻がまだ耳の奥のどこかに残っていた。朝の光に溶かしてしまうのが惜しくて、私は目を瞬いた。
麻のワンピースに着替え、髪を一つに束ねて窓辺で大きく息を吸う。熟れはじめた杏と、朝の光にほどけはじめた赤土と、家のうしろの麦畑のほうから流れてくる土の匂いが、ひとつに重なって流れ込んできた。
台所に下りると、母様はもう竈の火を小さく育てていて、銀に近い金の髪を緩く束ねた背中がうすい朝の光にほどけるように立っていた。振り返って、いつも通りの穏やかな声で。
「リアネ。井戸の水を、汲んできてくれる」
「……はい、母様」
井戸まで、ほんのわずかな距離。井戸のふちには、母様がこの家に来たばかりの頃に彫ったという古い水の文様が刻まれていて、指先でなぞればいつも石の目が微かに応えてくれる。けれど今朝はそれをなぞる余裕もなかった。
滑車が乾いた音を立てて、縄が伸びていき、汲み上げられた水が木桶のふちで透明に揺れる。朝の光の粒をひとつずつ拾っては跳ね返した。
昨日、家族の前で初めて名前を呼ばれてからまだ半日も経っていないのに、ずいぶん長い時間が流れた気がする。朝の風が家のうしろの麦畑を一面さらりと撫でて、穂のてっぺんが金色の波になって揺れた。
その時。
古い木戸の方から、低く律儀な声が朝の空気にそっと置かれた。
「……早くにお邪魔して、申し訳ありません」
——え。
私は木桶を抱えたまま、そのほうを見た。
漆黒の髪。頭ひとつ高い背丈。白いシャツの袖を几帳面に二つ折りに上げて、革の手袋を片手に持ったままこちらを見ている。金色の瞳が朝の光をひとつ含んで、ゆっくりと私に定まった。
「……アルフォンス様」
「ああ」
たった、一音。けれど、確かに、昨日と同じ声だった。
「……どうして」
「……視察の続きが、まだ、残っていてな」
——それは問いの答えとしては成立していなかった。けれど私はそれ以上踏み込めなくて、木桶を抱え直したまま、ひとあし果樹の影をくぐって木戸のほうへ近づいた。
半分開いた木戸の向こうで、アルフォンス様は革の手袋を片手に握ったまま、敷地のなかへ入ろうとはしない。律儀な人なのだと改めて思った。
——その時、家のほうから父様ののんびりとした声が届いた。
「リアネ。木桶、重いだろ。アルさんに頼みなぁ」
——え。
頭の中で、父様の声が二回、反響した。昨日の夕方まで「フェルドラク様」と律儀に呼んでいた父様が、たった一晩で。
ゆで卵を片手に持ったままの父様が、母様の竈のほうから裏口をのんびりとくぐって、庭先へ出てきた。日に焼けた顔のなかで、温かみのある茶色の目が木戸の向こうのアルフォンス様をゆっくりと捉えて、笑った。
「アルさん。早かったなぁ」
「……朝早くにお邪魔して、申し訳ありません」
アルフォンス様が、深く一礼した。頭を下げるその角度が、昨日の夕方と寸分変わっていなかった。
「気にすんな。せっかく来たんだ。入れ入れ」
父様がゆで卵を片手に持ったまま、もう片方の手で半分開いていた木戸を、もう半分ゆっくりと押し開けた。
「……失礼します」
アルフォンス様がもう一度深く一礼してから、革靴で敷地のなかへ一歩入った。
そして、まだ木桶を抱えたまま立ち尽くしていた私のほうへまっすぐ歩いてきた。
「リアネ」
「……は、はい」
「貸せ」
返事より早く、私の腕から木桶が抜き取られていた。朝の光の粒を拾っていた水面が、アルフォンス様の手のなかでもう一度、透明に揺れた。
父様が、それを井戸端のほうからゆっくりと笑って言った。
「アルさん、案外、家のことも、できそうだなぁ」
アルフォンス様の耳の先が朝の日差しのなかで、くっきりと赤く染まっているのが見えた。
* * *
母様に勧められた椅子に、アルフォンス様は、姿勢を崩さずに腰を下ろした。
食卓には、焼きたてのパンと、井戸で冷やした牛乳と、母様の桃のジャムと、ゆで卵と、夏野菜の朝のスープ。
父様が、自分の椅子にどっかりと腰を下ろして、ゆっくりと笑った。
「アルさん、うちは田舎の飯でなぁ。たんと食べてってくれな」
「……いえ、本当に、十分すぎるほどです」
アルフォンス様の声は、いつもの学院で聞く声よりもずっと低く、丁寧だった。
「アルさん」と父様が呼ぶたびに、アルフォンス様の背筋が目に見えないくらい、ぴくりと反応する。十二年「侯爵家の御令息」として育ってきた人にとって、たぶんそれは生まれて初めての響きなのだ。
(……困る)
胸の奥で、私はそっと呟いた。
母様が温かい視線でそれを見ながら、桃のジャムの瓶をテーブルのまんなかへすうっと押した。
ジャムの瓶が私とアルフォンス様の間で、ちょうど三寸ばかりの距離に止まった。
……母様。
私は瓶を取って、自分のパンに少しだけのせてから、もう一度ジャムの瓶をアルフォンス様の手元へことんと置いた。
「……どうぞ」
「……ありがとう、リアネ」
アルフォンス様の「ありがとう」は、父様への返事よりもほんの少しだけ低く、こもっていた。
父様はそれをぜんぶ見てから、何も気づかないふりでゆで卵の殻を片手で器用に剥きながら、ぽつりと呟いた。
「……アルさん。昨日見てもらったな、あの畝のことなんだがなぁ」
「……はい」
「西の、いちばん奥の、麦のとこ」
「……はい。穂の色が他より少しだけ、深い黄でした」
父様が目を細めて、ゆっくりと笑った。
「……よく、覚えていてくれたなぁ」
アルフォンス様の耳の先が朝の食卓の光のなかで、もう一度ほんのり赤くなった。
どうしよう、と胸の奥で、私はもう一度息を呑んだ。
昨日までの私のなかで「アルフォンス・カシウス・フォン・フェルドラク侯爵令息」という名前で決して触れない遠い距離に置かれていた人が、今、私の家族の食卓で、父様が指したのと同じ畝を几帳面に思い出している。
——アルフォンス様がちゃんと見ていたのはたぶん、私が昨日、潤いの手で水を渡したあとの色だった。
たった一度の父様の案内だけで、いちばん奥のいちばん黄色く焼けかけていたその一筋を、ちゃんと目に焼きつけていた。
その絵はたぶん、私が今までに見たどんな絵とも違っていた。
母様の瞳の奥にふっと、深い海の底のような蒼がひとつ、過ぎった気がした。
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