第10話「夏の帰省・ただいま、家族」後半②
赤土の道が、ふいに朱になっていた。
気づいた時には、もう足元の影が長くなっていた。
父様の案内で、アルフォンス様とハンス様は家の周りをひと通り歩き、畑のいちばん端の水路まで見て、また木戸のそばへ戻ってきていた。
素焼きの杯のお茶を、アルフォンス様はもう一杯ていねいに飲み干した。
指先の緊張は、最初ほどではなくなっていた。
杯を父様に両手で返すその仕草だけが、まだ少しだけ律儀すぎた。
「……ご馳走になりました」
「いやいや。こちらこそ、長居させてしまって」
父様がのんびりと笑った。
「宿は、町の南のあたりでしたかな」
「はい。一週間ほど、滞在する予定です」
——一週間。
その言葉を、私は井戸端の石のそばで、黙って聞いていた。
一週間。
つまりアルフォンス様は明日も明後日も、この町にいる。
帝都に戻る前に、あと六日か七日、ここの空気を吸う。
それがどういう意味なのか——今の私にはわからなかった。
ただ、呼吸がひとつ短くなった。
*
「……では、そろそろ失礼いたします」
アルフォンス様が父様に向かって、また深く一礼した。
それから母様の方へ少しだけ角度を変えて、もう一度、一礼。
母様は洗濯物の籠を抱え直しながら、ふっと微笑んだ。深い海の底のような蒼の瞳が、夕暮れの光の中で揺れた。
(……母様)
母様は、もう「測る目」ではなくなっていた。
代わりに母様の瞳の奥にあるのは——見守る、というより、少しだけ楽しんでいる温度だった。
アルフォンス様は、母様の視線に、礼の頂点で固まった。
固まったまま、顔を上げる。
それから——視線が、私のほうへ戻ってきた。
(……っ)
私は足元の赤土をもう一度見つめた。
見つめた、けれど。
アルフォンス様が、私のほうへ歩いてきた。
革靴が、私の麻のサンダルから、ちょうど一歩ぶん手前で止まった。
ちょうど、一歩ぶん。
それ以上は、来なかった。
「……ありがとう」
短い、低い声。
私は顔を上げた。
夕暮れの光がアルフォンス様の漆黒の髪に斜めに落ちて、金の瞳の中に赤い色を溶かし込んでいた。
「……え」
「今日、ここに、通してくれて」
そう言って、アルフォンス様は一度、息を整えた。
その整え方が、何かを言い出すための整え方だった、と私は後から気づいた。
「——リアネ」
呼ばれた。
家族の目の前で、呼ばれた。
七日目の朝の寮の門の前で——あの時たった二人で交わした「名前で、呼ぶ」が、今日、ここで、家族の目の前で起きた。
金の瞳の中の、赤い色が、私を見ていた。
——逃げない目だった。
「……また、明日」
それだけ言って、アルフォンス様はハンス様に目配せをして、馬車のほうへ踵を返した。
——は、はい、とも、また明日、とも。
私は結局、何も答えられなかった。
ただ夕暮れの赤土の上で、そのまま立っていた。
漆黒の旅装が馬車に乗り込む。
ハンス様が馬車の扉を閉める前に、私のほうへもう一度だけ、ほんの浅く一礼してくれた。
その口元が——ほんの一ミリ、上がっていた。
馬車が南のほうへ動き出した。
車輪が赤土を転がす音が、だんだん遠くなっていく。
麦畑の向こうで、乾いた草の中の夏の虫がひと声、細く鳴いた。
*
私はしばらく、動けなかった。
眼鏡を外したまま。
耳のうしろに亜麻色の髪をもう一度押しやる仕草すら、忘れていた。
——リアネ。
たった、三音。
家族の前では、まだ一度も呼ばれたことのなかった、三音。
その三音が夕暮れの赤土の上にまだ落ちたまま残っているような気がして——私は足を動かせなかった。
*
「……リアネ」
母様の、声だった。
振り返ると、母様が洗濯物の籠を抱えたまま、庭のほうへ歩いてくるところだった。
「……中に入って、手伝ってくれる? もうすぐ、夕食の支度よ」
「……はい」
私はようやく、足を動かした。
母様が、私の頬に指先で触れた。
朝、井戸の水を汲んでいた指だった。
——熱いね。
母様は何も言わなかった。
ただ、もう歩き出していた。
私の頬の、母様の指先のあったところが、その指の冷たさよりずっと熱かった。
*
夕食の支度は、台所でほとんど黙々と進んだ。
母様と私のあいだには、まな板の音と鍋の湯気と、窓の外で沈んでいく夕日の色だけが行き交っていた。母様は何も聞かなかった。私も何も言わなかった。
ただ二人でいる台所の空気が、いつもより、ほんの少しやわらかかった。
「……リアネ」
母様がふと、水を張った鍋に葉物を入れながら、ぽつりと言った。
「……夏の日の、名残みたいな男の子ね」
「……え」
「そういう意味じゃ、ないのよ」
母様は、笑った。
銀に近い金の髪が、台所の小さな窓から差し込む夕日に、光の糸のように透けた。
「——光の濃い日の、そのぜんぶをまだ身体に覚えているような、そういう男の子だと思っただけ」
母様の言葉はいつも、ほんの少しだけ詩のようだった。
私には、その意味の半分も、たぶんわかっていなかった。
わかっていなかったけれど——胸の奥で何かがひとつ、場所を決めていく気配だけは確かにあった。
*
食卓には、父様と兄様がすでに着いていた。
兄様がパンを大きくちぎりながら、肩をすくめた。
「——で、父さんの『測り』は、どうだったよ」
「……面白いぞ、あの坊や」
父様がゆったりと笑って、麦の入った椀を引き寄せた。
「魔力の強さは、うん、聞いていた通り。……だがな、あの子、うちの畑の水路を見た時、ほんの一瞬、肩の力を抜いたんだ」
「……ほお」
「帝都の、高いお屋敷の子が、うちの赤土の水路に、だ」
父様がそう言って、ちらりと、台所に立つ私のほうを見た。
温かみのある茶色の目が、目尻で笑っていた。
「——娘のことを、いい目で見てたなあ」
「——っ」
私はまな板の音を、ひとつ盛大に跳ねさせた。
「……と、父様」
「おお、はい」
「今の、聞こえてますよ……」
「そりゃあ、台所は、同じ家の中だからな」
兄様が「あはは」と声をあげて笑った。
母様がくすっと、息だけで笑った。
私はまな板の上の野菜を、必要以上に丁寧に刻んだ。
(……父様)
父様の「いい目で見てた」の一言は、私の中で三回ぶん響いた。
——三回も響かせてしまった自分が、一番、恥ずかしかった。
*
「……あのさあ、リアネ」
兄様がパンを噛みながら、椅子の背に寄りかかった。
「お前、ちゃんと、眼鏡、持って帰れよ」
「……え?」
「帝都のほうに、な」
「……はい、持って帰ります」
「ブレスレットも」
「……はい」
「あの坊やの前でも、基本は、つけてろよ。——いい顔、向こうが勝手に思い出すくらいで、ちょうどいい」
兄様の言い方は、粗野だった。粗野だったけれど、どこかで——少しだけ、兄として妹を送り出す時のひそかな温度が混じっていた。
「……はい、兄様」
私はうつむいたまま、頷いた。
頷いた、その顎のあたりに、父様の「いい目で見てた」と、兄様の「いい顔を勝手に思い出すくらいで」が、順番に、一滴ずつ、落ちていった。
ふたりとも、私の何倍も、私よりも、私のことを、ちゃんと見ていた。
*
夜。
自分の部屋に戻って、私は窓の前にぼんやり立っていた。
眼鏡は、窓辺の木の棚に置いたまま。
ブレスレットも、机のすみに置いたまま。
夏の夜は、赤土の匂いと、麦の穂の匂いと、遠くの果樹の甘い香りが、窓の隙間からゆっくりと流れ込んでくる。
空は、まだ完全には暗くなりきっていなかった。
西のほうに、朱と藍の細い帯がひとつ、ひっそりと伸びている。
——リアネ。
その三音が、また胸の奥で小さく鳴った。
家族の目の前で、呼ばれた。
家族のほうも、全員、聞いていた。
父様は「いい目で見てた」と言った。
母様は「夏の日の名残みたいな男の子」と言った。
兄様は「いい顔、向こうが勝手に思い出すくらいで、ちょうどいい」と言った。
みんな、ぜんぶ、見ていた。
そして——
「……また、明日」
と、アルフォンス様は言った。
(……明日も、来るのかな)
そう思ってしまった自分に、私は自分で一番びっくりした。
窓の向こうの空に、もう星があった。
ひとつだけ。
亜麻色の髪を、耳のうしろへ押しやる。
押しやった指が、まだ、頬の熱を覚えていた。
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