第10話「 夏の帰省・ただいま、家族」後半①
夏の夕暮れが近づき始めていた。
私は夕餉の支度の前にもう一度、井戸の水を汲み直していた。
素焼きの水瓶を両手で抱えて、井戸端の石の上にそっと置く。
庭の夏の果樹が、傾いた西日を受けて長い影を地面に落としている。
少し離れた畑では父様が今日最後の見回りをしていて、軒先のどこかで母様が洗濯物を取り込んでいる音がしていた。
今日も、眼鏡は外している。
ここに帰ってきてから、ずっとそうだった。
ブレスレットも寝る前以外はほとんど外しっぱなしにしている。
帝都では毎日肌に貼り付けて暮らしているあの二つが、ここでは夕食の用意のあいだ、窓辺にちょこんと置かれていたりする。
兄様は家の裏手で、夕方の水路の見回りをしていた。
「町まで戻る前に直しておく」と言って、朝から土まみれだった一日の最後の仕上げ。
——その時だった。
「……リアネ」
庭先から、母様の声がした。
いつもの、静かで深い声。ただ、声の芯に、普段とは違う色が混じっていた。
「……お客様、みたいよ」
(……お客様?)
私は顔を上げた。
母様は洗濯物の籠を抱えたまま、木戸の方をまっすぐに見ていた。銀に近い金の髪が夕方の風に揺れて、深い海の底のような蒼の瞳が、ゆっくりと細められている。
母様の「測るような目」。
帝都に出発する前、眼鏡の扱いを教えてくれた時に、一度だけ見たことのある目だった。
——普通のお客様では、ないのかもしれない。
そう思った瞬間、私の足はもう母様の視線の方向へ動いていた。
夕方の橙色の光が差す庭を横切って、木戸の手前まで来た、その時——
時間が止まった。
半分開いた木戸の、向こう側に。
漆黒の旅装が、立っていた。
漆黒の髪。金の瞳。整った顔立ちは十二歳とは思えないほど大人びていて、その周囲だけ夕方の空気よりも張り詰めている。
——アルフォンス様、だった。
学院でしか見たことのない顔。その金の瞳が今、まっすぐに私を見ていた。
(……っ)
呼吸が浅くなる。
眼鏡を外している、ということを、今日まで忘れていた。
亜麻色の髪も、日に焼けた頬も、井戸の水で濡れたままの指先も——ぜんぶ、剥き出しの私だった。
アルフォンス様の金の瞳が、一瞬、逸らされた。
逸らされたのに、またすぐ、戻ってきた。
戻ってきて、また、逸らされた。
(……なんで)
わからなかった。
わからないまま、私は夕方の光の中で立ち尽くしていた。
——アルフォンス様の耳の先が、夕陽の橙の中で赤く染まっていくのが、私の目にも映った。
その意味を、十二の私は、まだ正しく受け取れなかった。
*
「——おう、お客さんかね」
畑のほうから、父様の声がした。
(……父様)
助かった、と一瞬だけ思って——すぐに、もっと大きな動揺が来た。
父様が、来る。
この、状況に。
鍬を肩に担いだまま、亜麻色の髪に夕方の光をまとって、父様がのんびりと庭先に入ってくる。
日焼けした顔の中で、温かみのある茶色の目が、木戸の向こうの少年をゆっくりと捉えた。
——そして、ほんの一拍、止まった。
止まったのが、私にもわかった。
父様の瞳の奥で、何かがひとつ、整理されていく。
剣も杖も持たない農夫が、太陽と土と作物の機嫌を指先で確かめる時の、奥の方の目。
アルフォンス様は、父様の姿が庭に入ってきたのを認めるなり、深く一礼した。
「——初めてお目にかかります。アルフォンス・カシウス・フォン・フェルドラクと申します」
頭を下げる角度が、学院の廊下ですれ違う時の貴族同士の軽い会釈よりも、ずっと深かった。
完璧な、侯爵家の跡取りの礼だった——けれど、その完璧さが、うちの田舎の井戸端には不釣り合いだった。
その不釣り合いが、なぜか、私の胸を締めつけた。
「リアネさんと、聖アステリア魔導学院で同じクラスにおります。——友達です」
短く、迷いのない声だった。
(……っ)
私は思わず顔を上げかけて、慌てて足元に視線を戻した。
——友達。
アルフォンス様は今、私の家族の前で、はっきりとそう言った。
私たちのあいだだけの、旧図書室の中だけの、ほんの数日前のあの言葉。
家族の誰の前でも、まだ口に出したことのなかった、あの三音を。
胸の奥が、ひとつ跳ねた。
母様の腕が、ほんの一瞬、止まった。
父様は、ひと呼吸ぶん、アルフォンス様を見つめた。
それから、ごく穏やかに眉を上げて、笑った。
「——ほう。それは、それは」
その「ほう」のひと声が、さっきまでの「お客さんかね」の温度よりも、ひと段階やわらかかった。
「ご丁寧に、どうも。フェルシーアです。私はエドガー、あれが妻のエレナ」
父様が、軒先の母様のほうへゆるく顎をしゃくる。
母様は洗濯物の籠を抱えたまま、ゆっくりとアルフォンス様のほうへ一礼した。
銀に近い金の髪が、夕方の風に揺れる。深い海の底のような蒼の瞳が、ふっと一度だけアルフォンス様の全身を、撫でるように流れた。
撫でるように——というのが、いちばん正しい表現だった。
母様の視線は、暴力的ではない。ただ見ただけで、見られた側が自分の奥のほうまで触れられた気がする——そういう種類の目だった。
アルフォンス様が、短く息を呑んだ。
母様の、あの目を、初対面でまっすぐに浴びて。
アルフォンス様の首筋が、わずかに硬くなっていた。
母様は、もう何もなかったかのように、洗濯物を抱え直していた。
ただ瞳の奥の色は、さっき木戸のほうを見ていた時とは違っていた。
——測った。
母様は今、確かにアルフォンス様を測った。
何を測ったのかは、十二の私にはわからなかった。
けれど、測ったあとの母様の瞳に、小さな静かな光が一滴だけ加わっていた。
*
父様が、ゆっくりと木戸をもう半分大きく開けた。
「——娘が、お世話になっているそうで」
(……っ)
私は思わず父様の方を見た。
お世話、と父様は言った。
その言葉は、さっきのアルフォンス様の「友達です」を、まっすぐに受け止めて返したものだった。
「……っ、いえ、」
ようやく出てきた声は、少しだけ上ずっていた。
「……お世話に、なっているのは、私のほうです」
律儀な、答えだった。
十二歳の少年が、何百回と鏡の前で練習してきた完璧な礼儀作法を全部思い出せないまま、それでもいちばん正しそうな言葉をどこからかなんとかすくい上げて出した——そういう声だった。
父様は「ほう」と頷いた。
その頷き方の奥に、嬉しそうな色があった気がしたのは、私の気のせいだったのだろうか。
*
「……長旅で疲れただろう。水でも一杯、どうかね」
父様の声の温度は、畑に迷い込んだ夕方の風に「よう」と声をかける時と、同じ温度だった。
「ありがとうございます」
アルフォンス様の返事は、少しだけ早すぎた。
——いえ、結構です、と先に言うべきだったのではないか。
そう思い直した痕跡が、「ありがとうございます」のあとのわずかな沈黙に滲んでいた。
断らなかった、ということだけは私にもわかった。
それだけ。
——それ以上のことは、まだ考えないことにした。
木戸をくぐった漆黒の旅装の少年が、顔を上げる。
上げた、その瞬間に、金の瞳が真っ先に私のほうを見た。
見てから、慌てて父様のほうへ戻した。
(……っ)
私は亜麻色の髪の一筋を、そっと耳のうしろへ押しやった。
指先が、わずかに震えていた。
なぜ自分の心臓がこんなに早く打っているのか、わからなかった。
わからなかったけれど、ひとつだけ、確かなことがあった。
——今の私には、顔を上げる勇気がなかった。
*
アルフォンス様の、後ろ。
一歩斜め後ろに、もう一人、黒髪を整然と撫でつけた長身の青年が控えていた。
ハンス様、だった。
春の入学式の翌日、中庭でアルフォンス様の隣にいた、あの人。
ハンス様は私と目が合うと、静かに一礼してきた。
その時——口元がほんの一ミリだけ上がっているのが、私にも見えた。
次の瞬間には、完璧に元に戻っていた。
*
父様は、素焼きの柄杓を井戸端からひとつ取り上げた。
「……それで、フェルドラク様」
柄杓で井戸の水をすくい上げながら、のんびりとアルフォンス様に声をかけた。
「今日はどうしてまた、うちの畑まで?」
「……民情の、視察です」
アルフォンス様は少しだけ考えてから、ゆっくりと答えた。
「フェルドラク家の者として、帝国直轄領の民の暮らしを——この目で、見ておきたく」
短く、落ち着いた声だった。
けれど、その「民情の、視察」のひとつ目の点のあとに。
金の瞳が、一度だけ、井戸端の私のほうを見た。
ほんの、一瞬。
(……っ)
私はまた、赤土に視線を落とした。
父様は「ほう」とひとつ頷いた。
「それは、ご立派なことだ」
柄杓の水を、父様は素焼きの杯にそっと注いだ。素焼きの杯を両手で、アルフォンス様に差し出す。
「まずは、冷えた水でもどうぞ」
「……ありがとうございます」
アルフォンス様は両手でていねいに、杯を受け取った。
指先が、わずかに緊張しているのが私にもわかった。
井戸の裏手から、のんびりとした声がひとつ飛んできた。
水路の見回りを終えたのか、両手を土まみれのまま腰に当てて、こちらへゆっくり歩いてくる。
緩く束ねたくすんだ金茶の髪。
抑えていない水の魔力が、夕方の空気にちりちりとさざめく。
兄様は土のついた手のひらを無造作にズボンで拭ってから、アルフォンス様のほうへ気軽に片手を挙げた。
アルフォンス様の背筋が、一瞬で、もうひと段階伸びた。
杯を片手で持ったまま、もう片方の手をきちんと脇に添えて、深く一礼する。
兄様の片方の口の端が、わずかに上がった。
それ以上、兄様は何も言わなかった。
——ただ、その水色の瞳が、ほんの一拍だけ、アルフォンス様の金の瞳と正面から触れた。
触れた、というのが、いちばん正しかった。
感情ではなく、ただ「測った」の近い、何か。
夕方の光の中で、ふたつの色が一瞬ぶつかって——それから兄様のほうから先に、視線を外した。
「——ちなみに、うちの父さんは、俺よりずっと目が利くぞ」
父様が、軽く肩を揺らして笑った。
母様が洗濯物を抱える腕の奥で、ふっ、と微かに息だけの笑みをこぼしたのが私の耳にも届いた。
アルフォンス様の耳の先が、夕陽の橙の中で、いっそう赤かった。
杯を持つ手のかたちは、最初よりも、ほどけていた。
夕方の光が、井戸端の石にいっそう斜めに落ちていた。
私は亜麻色の髪の一筋を、もう一度、そっと耳のうしろへ押しやった。
そのことを、私はまだ正しく受け止める言葉を、持っていなかった。
夕方の風が麦畑のほうからふっと吹いて、私の髪を、もう一度そっと揺らした。
その風の温度だけが、なぜか今日の私には、いつもと違って感じられた。
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